第2話 ギルベルトとの接触

 他人には極力触れないような生き方をしてきた。エリーアスにとっては他人に触れることも触れられることもあまり心地よいことではない。幼い頃から肉体接触が苦手で、体育の授業は履修せずに音楽や美術を履修してきた。他人の体温を気持ち悪いと思うような自分は恋愛に向いていないのだろうと、エリーアスは恋人を作ったこともない。

 唯一可愛がっていた弟のユストゥスと分かれてこの戦場にやって来た。

 心を無にして診察に当たる。

 心を無にしたはずなのに、服を脱いで下着姿になったギルベルトの身体に古傷が多いのが目につく。肩に残っている傷や胸を掠めた傷は銃弾によるものだろうか。

 聴診器で音を聞く前に、エリーアスはギルベルトの肌の上に自分の左手の人差し指と中指を乗せていた。


「何を……」

「お静かに」


 戸惑っているような雰囲気のギルベルトに構わず、左手の人差し指と中指の第二関節くらいの場所を右手の人差し指と中指で叩く。トントンッとギルベルトの体の中を反響して出てきた音を聞いて、エリーアスはカルテに書き込む。


「なんなんだ、それは」

「聴診器がない場合に体の中を音で聞いて調べる方法です。傷口の中の骨は異常がないようですね」

「聴診器はあるだろう……? あぁ、骨の異常を見ていたから、聴診器が使えなかったのか」


 内臓と違って骨は聴診器で聞いても異常があるかどうかが分からない。手っ取り早くそれを知る方法が、指を打って体内の音を聞く方法だったのだ。


「スキャンを使えばいいのに」

「スキャンも使いますが、見えにくいものもありますからね」


 淡々と答えて、全身スキャンをする機械の上にギルベルトを立たせる。こんな前線の基地にも医療設備がきっちりと揃っているのはこの国ならではだった。

 ギルベルトのスキャンを終えて、採血もしてエリーアスは服を着るように促す。間近にほとんど裸の男性がいて、その体に触れたというのに、意外と不快感が薄くてエリーアスも不可解な気分になっていた。

 目の前の男は生きているような気配がしないのだ。確かに内臓も正常に機能しているし、身体的には何の問題もないのだが、生きる気力というものが希薄なのだろうか。前線で戦っているのに、自分の命に無頓着なこの男をエリーアスはなぜか放っておけないような気持になっていた。

 先に聞いていた兄と弟からの話も頭にあったのだろう。

 ギルベルトに命じられて健康診断にやってくる兵士たちには医療用の手袋を着けて作業を終わらせたが、吐き気と倦怠感に襲われるのは仕方がないことだった。こんなにも多くの他人に接したのはどれくらいぶりだろう。

 学校に通っていた時期も、できるだけ人数の少ない授業を選び、ひとと離れた場所に座り、大学のゼミも干渉してくる相手のいない場所を選んだ。エリーアスにとってそれだけ他人と触れ合うことは負担になっていた。

 どうしてギルベルトの肌に素手で触れてみようと思ったのか、エリーアス自身もよく分からない。体が傷だらけの兵士は他にもいた。治療が必要な兵士もいた。当然治療は施したが、ギルベルトに触れたように素手ではなかった。

 そもそも医療行為で医療用の手袋を着けないことの方が、感染の観点から危険だとエリーアスの頭には叩き込まれている。自分の行動の意味が分からないまま、疲労して宿舎に帰ろうとすると、他の兵士に捕まってしまった。


「ハインツェ先生、歓迎会を開くので飲みましょう」

「アルコールは摂取しない主義なんだ」

「そう言わずに」


 連れて行かれそうになるエリーアスに、廊下を足早に歩いてきたギルベルトが立ち止まった。煌めく金髪にエメラルドのような瞳。細身でそこそこに長身で、目を引く姿だとはエリーアスも思う。

 癖のない黒髪を撫で付けた、水色の目のエリーアスは長身で筋肉も付いていたが、戦ったことなどないし、自分が争いごとには不向きだと理解している。ギルベルトの方は細身だがよく鍛え上げられた体で、何度も死地を潜り抜けてきたことが分かる。


「隊長じゃないですか。これからハインツェ先生の歓迎会を開くんですよ」

「食堂のアルコールはそんなに使うなよ」

「隊長も一緒に飲みませんか?」


 誘う兵士に対して、ギルベルトは不思議そうな表情をしていた。


「私が飲む分だけ他のものが飲む分が減るだろう」

「そういう問題じゃないんですよ。酒はみんなで飲んだ方が楽しいんです」

「遠慮しておく」

「ハインツェ先生が前の先生みたいにいなくなったら、隊長のせいですよ? 歓迎されてないと思われちゃうじゃないですか」


 上官に対する態度とは思えないが、ギルベルトはあまり気にしていないようだった。ちらりと上目遣いで見つめられてエリーアスも、自分も歓迎会に行くのは本意ではないと告げようとしたが、それより先にギルベルトが答えた。


「少しだけなら……」

「隊長が、歓迎会に参加してくださる! ハインツェ先生は本当に歓迎されてるんですよ」


 兄弟から聞いていた話では自分に価値がないと思っているようなギルベルトが、エリーアスの歓迎会に出るというとは思わず、エリーアスも断るタイミングを逃してしまった。

 こんな状況でなければ空気など読まずに、ギルベルトが歓迎会に参加しようと、断ろうと、エリーアスは絶対にそんな席に参加することはなかったのだが、ギルベルトの意外な行動に虚を突かれてしまった。

 不特定多数の患者を見せられた疲労感と倦怠感のある体で歓迎会になど行きたくはなかったが、動かなければ引っ張ってでも連れて行きそうな兵士と、ちらちらとエリーアスを見ているギルベルトの視線に、エリーアスは動かざるを得なかった。

 この時点でエリーアスはギルベルトを弟のユストゥスのように思い始めていたのかもしれない。

 幼い頃から考え付いたらそのことに猪突猛進で、周囲が見えていなかったユストゥス。実験だといって実家の納屋を燃やしたこともある。焼ける納屋からユストゥスを助け出したエリーアスが火傷を負ってしまったのを見て、ユストゥスは号泣して反省した。

 エリーアスよりも研究に向いていると言われていたユストゥスは飛び級して大学を卒業し、研究者として一人前になっている。


「隊長は本当にすごいんですよ。隣国が攻めて来たときにも、この基地を守り抜きました」

「隊長のすごさは戦闘にあらず、だぜ? こんな僻地の基地に医療体制を整えて、補給物資も他の部隊の分まで潤沢に回していて、なにより、死者をできるだけ少なく戦いを進めている」

「なんで、前の先生、辞めちゃったんだろうな……」

「ハインツェ先生は辞めないでくださいね」


 兵士たちに囲まれて話を聞いているだけで、むっとするようなひとの体温を感じてエリーアスは歓迎会に参加したことを後悔していた。アルコールは一口も飲んでいないが、気分が悪くなってきている。


「隊長が、俺たちの命を守ることばかり気にかけて、自分でなんでもやっちまうから、先生は……」

「隊長、死なないでください……」

「私は死んでないが」

「死んでないけど、死にそうなことはよくするじゃないですか!」


 酔っぱらった兵士たちに囲まれて泣き付かれているギルベルトは、ただただ不思議そうな顔をしている。


「私が死んでも代わりはどれだけでもいるだろう」

「いませんよ!」

「どう思います、ハインツェ先生? なんとか言ってやってください」


 至近距離から酒臭い息を吹きかけられて、エリーアスは限界だった。口元を押さえて立ち上がる。


「すみません、体調が悪いので失礼します。


 挨拶もそこそこに宿舎の部屋に戻って行くエリーアスを追い駆ける影があった。

 エリーアスの部屋のドアの鍵を開けていると、エリーアスの後方からがばっと抱き付かれる。ドアの鍵が開いていたので、そのまま部屋の中に押し込まれた。


「ハインツェ先生……綺麗な肌ですね」

「放しなさい!」


 ドアから入った部屋の床の上に押し倒されたエリーアスの身体の上に大柄な兵士がのしかかってきている。接触されるだけでも気持ちが悪いのに、制服のシャツを捲られて直に肌に触れられると吐きそうになる。


「やめなさい! 私の方が階級は上のはずですよ?」

「前の先生も最初はそう言ってたけど、最後には俺の女になりました。ハインツェ先生もすぐに快楽に堕ちていきますよ」


 下卑た笑みを浮かべる大柄な兵士の股間を、エリーアスは思い切り膝で蹴り上げた。悶絶する兵士の身体を押し退けてドアを開けると、そこにギルベルトがいた。


「ハインツェ先生……取り込み中だったか?」

「違います! その男は私を襲おうとしました! 前の医師も襲っていたと言っています」

「なんだと?」


 誤解されないようにはっきりと告げたエリーアスに、ギルベルトの表情が険しくなる。腕を捩じり上げて立たせた兵士はギルベルトの呼んだ他の兵士に連れて行かれた。


「前の医師も襲っていたなんて……未然に防げて良かった。平気か、ハインツェ先生?」


 問いかけられてエリーアスはふるふると首を振った。


「吐く……」

「え!?」


 短くそれだけしか答えられなかったエリーアスを、ギルベルトは脇に抱えるようにして洗面所まで連れて行ってくれた。

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