愛の言葉に傾く天秤
秋月真鳥
前編 (エリーアス視点)
第1話 エリーアスの徴兵
バルテン国は小国だが他の国よりも科学技術に長けていて、特に医療技術は他国の追随を許さないものだった。疫病が流行れば一番に疫病のワクチンを開発し周辺諸国に売り付けるバルテン国の技術を周辺諸国は狙っていた。
戦争が起きたのは今年で32歳になるエリーアスが物心ついたときで、エリーアスは幼い頃から戦時下の自国しか知らない。
徴兵制度が布かれて若者たちは兵士として戦場に駆られていく。エリーアスがそれを免れていたのは、彼が医者だったからに他ならなかった。
医者といっても研究医で、エリーアスは直接患者と接することはない。研究棟の奥まった部屋の中で一人薬の開発をする。今でも大陸に猛威を振るっている疫病は、バルテン国のワクチンなしには大量の死者を出す状況だった。
ワクチンは年々質の良いものに変わって来ていて、エリーアスの作っている特効薬が完成すれば、それを盾に交渉して他国からの攻撃を避け、停戦状態に持ち込める。それを見込まれてエリーアスは徴収されていなかった。
戦況が変わったのは秋のことだった。
枯れ葉舞い散る小道を歩いて、エリーアスは十歳年の離れた弟の家への道を歩いていた。弟も研究者として、研究所で働いている。
「ユストゥス、とうとう私も徴兵されるようになったようです」
「何故、兄さんが!? 兄さんの特効薬開発が成功すれば、戦争は終わるのに」
「そうも言っていられなくなったようで」
前線に出ている部隊の軍医が殺された。軍医を亡くしては部隊は戦うことができない。一度撤退するように命じられたが応じないその部隊は、この国で一番活躍している。前線にいても疫病にはかかるし、それ以外の怪我や病気にもかかる。その部隊を捨てておくことはできないと、エリーアスに声がかかったのだ。
「研究のデータがここにある。私の意思をユストゥス、あなたが継いでくれませんか?」
「兄さん、生きて帰って来てください」
「戦争ですから、どうなろうと私の意思が通るとは思っていません。ユストゥス、あなたが戦争を止めてください」
手渡されたデータの入った小さな長方形の金属に、ユストゥスが俯く。
「兄さん……」
俯いたユストゥスがぐっと拳を握りしめているのは分かったが、エリーアスにはそれを慰めてやる言葉も上手く出ない。
「ユストゥス、元気で」
「生きて……生きて帰ってきてください!」
震えるユストゥスの声は泣いているようだったが、他人に触れることを好まないエリーアスは、弟のユストゥスの身体を抱き締めることもできないままに、辞したのだった。
その日のうちにエリーアスは軍の将軍の家であるアードラー家に招かれていた。警戒しつつスーツを着て失礼のないように向かった先で、エリーアスは将軍から最前線の部隊を守るようにと命じられるのかと身を固くしていたら、二人の男性に縋りつかれていた。
「ギルベルトは本当にいい子なんだ」
「頼む、ギルベルト兄さんを助けてくれ」
ギルベルトというのはエリーアスが派遣される部隊の隊長だと聞いている。最前線で国を守っている。
「ギルベルトは私たちのせいであんな風に育ってしまった……」
縋り付かれている手をどうにか放してもらって、エリーアスはそっと距離を取る。あまり他人と触れ合うのが苦手だったから研究職で一人で働ける場所にいたのに、いきなりスーツのジャケットを掴まれるのは不快でしかない。
ギルベルトの兄と弟という二人は懸命にエリーアスに訴える。
「小さな頃からそうだった。私とグンターがすぐにいなくなるから、ギルベルトはその場で待っていろと言われて、私たちが見付かって家に帰る頃にはギルベルトのことをみんな忘れていた」
「ギルベルト兄さんは優しすぎたのだ。待っていても迎えが来ないことが分かって一人で歩いて帰ってくるようなひとなのだ」
「それに私たちがおやつをもらうと、ギルベルトは自分の分だけでは足りない私に半分くれた」
「その残った半分を『自分はもう食べたから』と私にくれて、ギルベルト兄さんはずっとお腹を空かせていた」
ギルベルトの兄のゲレオンと弟のグンターはギルベルトを愛しているのに、ギルベルトは自分が必要のない人間だと思い込んでしまった。
「上と下に兄弟がいるから、自分は死んでもいいだろうなんて言って、戦場に出て……」
「ギルベルト兄さんが有能だから、誰も連れ戻すことができない」
泣き付かれて、正直エリーアスは鬱陶しい以外の感想を抱くことができなかった。ゲレオンとグンターがギルベルトを愛しているのは分かったが、エリーアス自身が他人にそれほど深い感情を抱くタイプではなく、唯一心を許しているのは弟のユストゥスくらいだった。
兄弟を助けたい。ユストゥスの顔が浮かんで、エリーアスにも気持ちは分からなくもない。
「前の軍医は亡くなったんじゃないんだ。死んだことにして、前線から逃げた」
「命を捨てるような隊長には従えないと」
「それで、私に何をして欲しいのですか?」
要点は簡潔に言えとエリーアスが呆れていると、また縋り付かれそうになってジャケットを捌いて下がって逃れる。掴むものがなくなったゲレオンとグンターの二人は、ぐしゃぐしゃの泣き顔で床に膝を突いていた。
「どうか、ギルベルトを連れ戻してくれ」
「お願いだ。いや、お願いします」
最前線に送られる兵士程度ではいうことを聞かないだろうことは、エリーアスにも予測がついていた。軍医は治療を命じるために軍の中でも階級が自然と高くなる。他はギルベルトの信者でエリーアスくらいしか進言できるものがいないという判断で、ゲレオンとグンターの二人はエリーアスに頼んだのだろう。
よりにもよって、人間嫌いで他人をあまり寄せ付けないエリーアスにそんなことを頼むなんて。
「私には無理ですよ」
「そんなことを言わないで」
「頼む! 私たちが言ってもギルベルト兄さんの心には届かない。ギルベルト兄さんは、自分を大切にする気持ちがないんだ」
自分を大切にする気持ちがない。
それに関してはエリーアスは引っかかるところがあった。
エリーアスが医師になって、研究医として働き始めたのも、戦争を終わらせるため、一人でも無駄に死ぬものがいなくなるように願ってのことだった。他人嫌いではあるがエリーアスは命の尊さというものに関してはとても意識が高い。それは医師として当然のことなのだが。
「私に何ができるか分かりませんよ?」
ため息を吐きながら、約束はできないとエリーアスは答えた。涙でぐしゃぐしゃの顔でエリーアスの手を取って、何度も「ありがとう」と言うゲレオンとグンターの体温が気持ち悪いと思いながらも、自分が言うよりも兄弟である彼らが訴えた方が良いのではないかとエリーアスは思わずにいられなかった。
赤の他人のエリーアスよりも、ゲレオンとグンターの兄と弟にこれだけ泣かれればギルベルトの心も動くのではないだろうか。
それができない理由は、将軍家の令息が何人も死地に向かうことが許されないからだろうと予測はついていた。
荷物を纏めて、支給された制服に着替えて、エリーアスは列車に乗った。流れゆく季節は秋のものから雪に包まれたものへと変わっていく。
ギルベルト隊が本拠地を置いているのは北方の雪に阻まれた山岳地帯だった。そこに基地を建てていつでも出撃できるようにしている。
病院棟にまず招かれて、建物の中にはいると、寒さが僅かにましになる。部屋に荷物を置いた後、エリーアスはこの部隊の隊長のギルベルトに挨拶をしに行った。
「エリーアス・ハインツェです。本日軍医としてこの部隊に配属されました」
「ギルベルト・アードラーだ。まず、部隊の全員の健康診断から頼む」
「今すぐですか?」
エリーアスの顔を見もしないでデスクでコンピューターのキーボードを叩いているギルベルトは、顔がよく見えない。髪の色は兄のゲレオンと弟のグンターと同じく明るい金髪のようだが、後ろにある窓から入る光によって逆光になって顔は確認できなかった。
「今すぐにだ。ワクチン接種が必要なものはすぐに摂取してやってくれ」
「それなら、あなたから健康診断を始めましょう」
「え?」
コンピューターから顔を上げたギルベルトが、呆気にとられたような顔をしているのが、逆光でよく見えないがエリーアスには分かった気がした。
「私は構わない」
「構わなくないです。部隊の隊長が倒れれば、指揮系統が崩れます。まずは、あなたの健康診断をしてから、他の隊員の健康診断をします」
「いらないと言っている」
「いいえ、必要です!」
決して譲る気のないエリーアスに、ギルベルトがため息を吐いたのが分かった。
「私は自分のことは自分でできる。注射も自分で打てる」
「そうやって、どれくらい医者に診てもらってないのですか? 何か異常が発見されてからでは遅いのですよ?」
「頑固な奴だな。どうして私に拘る?」
「あなたも、私が守るべき部隊の一員だからです」
誰の命も失われてはならない。
その信念の元、エリーアスは前線にやってきた。これから戦況が厳しくなろうとも、助けられる命は必ず助けるつもりだった。
「分かった……健康診断を受けよう」
渋々椅子から立ち上がったギルベルトがエリーアスの方に歩いて来て、エリーアスはその顔をはっきりと見ることができた。白い肌にエメラルドのような瞳、輝く金髪の整った顔立ちに驚きを覚える。
まだこの男性は二十代前半程度ではないのか。
幼さすら感じられる顔立ちのギルベルトを凝視してしまったが、ギルベルトの方は全くそれに気付いていないようだった。自分のことにはとことん無頓着なのだろう。
病院棟に移動して、エリーアスの部隊での最初の仕事はギルベルトの健康診断だった。
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