4月4日 幸福な日々②
アクアマリンのように澄んだ空は、続いていた3月に見たものと同じだ。どこまでも奥行きの広がる水色に、吸い込まれそうになる。空気が鼻の中を、すうっと淀みなく流れていく。
伸び伸びと薄い雲が浮かんでいる。もし雲が人の姿であれば、きっと背筋を伸ばしているのだろうと思わせた。仮に手を伸ばすことができても、届きそうにない。
青々とした頭上の海は解放感と親近感を抱かせ、だけど絶対に触れることのできない神秘を帯びている。すなわち、身近だけど最も遠い存在——。
それは、李にとっての彼女と同義だと思う。
「見てください、兜様。ようやく咲きましたね」
部室の傍で、スモモが咲いている。
背丈は平均より少し低めか。幹も細めだ。しかしそれを補わんと、枝を隠すように白い花が咲き乱れている。質素で落ち着いた…‥それでいて美しい佇まいに、見惚れてしまう。
俺はゆっくり首を動かし、スモモの木を眺めた。
俺の容態はというと、奇跡的に脳の損傷が少なかったため、正常に思考をすることはできた。ただ出力に問題があった。喋ることが困難で、頑張っても歯切れの悪い母音しか発することができない。
あとは、栄養をチューブ経由でしか摂れなくなった。その上両手足が麻痺したため、自力で歩くことだって敵わない。
だから今は車いすに乗り、李に押してもらっている。
3月から変わらない大正メイドな彼女は車いすから手を離し、スモモの木の前でしゃがみ込んだ。
「誕生日プレゼントです。もちろん甘いのですよ」
そう言って、李はチョコレートの封をピリッと開ける。しかしまだ苦戦はするらしい。
「あれから頑張って、封を開けられるようになったんですよ」
端からチョコレートを覗かせた小包を数個、木の根元に置いた。
彼女の手のひらに、花弁が舞い降りる。それを少女は優しく受け止めて……、
「また来ます。だって私は……貴方の姉ですから」
スモモに優しく微笑んだ。
「さて、帰りましょうか。皆さんが来る時間です」
続いて俺に、柔らかな笑みを向けた。
病院に戻ると、集真が待ち構えていた。
「よぉ~っす、ご無沙汰しているよ。茉莉ちゃんと優君は遅れるみたい」
持参したであろう新聞記事を広げ、間延びした口調で彼は語る。
「あの脱線事故から今日で二年と三日、かぁ……君が意識を取り戻して丁度一年でもある」
そうだ。俺が意識を取り戻したのは一年前。ちょうど去年の4月4日なのだ。
「後悔してない?」
集真は問う。いつもの呑気さは隠れ、神妙な雰囲気を醸し出している。
「僕らは互いに覚えている。だけどこれは偶然で、僕らは一生出会えなかったのかもしれない。それでも、この選択を良かったって……そう思う?」
俺はゆっくり頷いた。後悔なんて、これっぽっちもないからだ。
そんな俺を見た集真は、一転して温かな笑みを浮かべる。
「それでこそ鳥居だね」
続いて、集真の視線が李へと向かう。
「そういや李ちゃん。君の黒ずみ、まだ消えないの?」
「はい……」
李が着物の上から、胸のあたりに手を添えた。
「やっぱこの世界で憑かれたから、茉莉ちゃんや優君みたいに消えないのかな。あの二人は、李ちゃんが作った世界で憑かれたから消えたわけだし。李ちゃんがあの世界で憑かれた分の黒ずみが無くなってるのも、同じ原理だと思う」
「そうですね」
「まだまだ研究の余地がありそうだなぁ」
集真は腕を後頭部に組んで、背もたれに体重を預けた。
「集真さんは、大学のサークルで“バグ”について調べているんでしたっけ」
「そーだよぉ……と言っても、全然成果がないんだけど」
そんなことを話しているうちに、茉莉と優が入ってくる。茉莉は3月と変わらず、メイド服だ。変わったところといえば、二人から“バグ”による黒ずみが消えていたことか。
「ごめんっ、遅くなっちゃた!」
「ったく、どこの誰のせいかなぁ~?」
嫌味を言う優に、茉莉が口を尖らせた。
「だってしょうがないじゃない! メイド服の洗濯がなかなか終わらなかったんだもの!」
「今日ぐらいはメイド服じゃなくても良かっただろ?」
「駄目よ! 同好会ではメイド服でないと!」
「いつ決まったんだよそれ」
集真が李と茉莉を交互に見ながら感慨にふける。
「……にしても、病院を歩くメイドってすごい画だねぇ」
「私は兜様のメイドですので」
「李がメイドならアタシもメイドよ! 今は123対124……絶対逆転してやるわ!」
「はあ……興味ないのですが……」
そう言ってはいるが、初めて茉莉に出会った時よりも随分態度が軟化している。
不意に茉莉がしゃがみ込む。
「李、毎日ここで寝てるの?」
茉莉が見つめていたのは、壁際に畳まれた布団。
「はい。少しでも多くの時間、兜様のお側にいたいので」
「見上げたメイド魂ね」
素直に感心する茉莉に、そわそわと身体を揺らす優。
「なぁに、優君? あっ! さては貴方も李と一緒に寝たいのね?」
「ち、ちがっ……!」
「大丈夫よ! アタシが一緒に寝てあげるから!!」
「いらねーっての!!」
「はいはーい、二人とも。病院では静かにね」
「はーい」
なんだかんだこのメンバーが来てくれるのが待ち遠しい。ちょっと騒がしいが、一緒に居て楽しい。身体の自由がなくて辛い時も、皆が吹き飛ばしてくれた。
3月32日以降のことは忘れてしまうと思ってたし、スモモもそう言っていた。集真だって、偶然かもしれないと語った。
だけど俺は思う。これは必然で、再び出会うべくして出会った、と。
ワンダリング同好会の一員で良かったと、心の底から思う。
この選択は、きっと正しかったのだ。
三人が帰り、病室には俺と李の二人だけになった。
先ほどまでの賑やかな場が一転し、静寂に包まれる。
「では、私は夕食を摂って参ります」
夕焼けに溶ける李の背に、俺は必死に声を出す。
「ぁ……」
「どうされました? 兜様」
小さくしか動かない口で、懸命に言葉を継ぐ。
――ありがとう、と。
声にならないその言葉は届いたのだろうか。不安に思っていると、
「はい……!」
大正メイドは背筋を伸ばし、幸せそうに微笑んでいた。
よかった、伝わったみたいだ。
——ああ、君の笑顔が愛おしい。
「生きている限り、私はメイドでいる所存でございますから」
空を焦がすような夕日に照らされ、大正メイドは静かに告げた。
メイド・イン・マーチ わた氏 @72Tsuriann
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