4月4日 幸福な日々①

 俺は再び暗闇を歩き出す。足音は聞こえず、歩いている実感も湧かない。何も聞こえず、何も匂わない。視覚だって、真っ暗な空間のせいで意味をなさない。身体が鉛のように重い。


 俺には、戻るなんて選択肢がない。李に会うため……俺の大正メイドに、起こしてもらうために。


 さっき李と会ったおかげで、心細さは薄らいだ。

 それでも、待ち受けている現実と孤独なこの世界への恐怖は残っていた。


 それでも歩かないといけない。彼女の手の届くところにまで、行かないといけない。


 前を見据え目を凝らすと、小さく淡い光が見える。おぼろ月のように、輪郭の判然としない白い明かり。ぼんやりと暗闇を照らすそれは、ほんの小さく鼓動していた。まるで心臓のように、しかしそれも微弱で頼りない。


 俺は手を伸ばす。

 明かりは温かい。中からは、小川の流れのように清らかな少女の声がする。


 ——ああ、李の声が聞こえる。


 触れると、俺の身体はぬくもりと同化していく。と同時に、李の声が俺の身体に染み込んでいく。


 緩やかに、徐に。感覚が鈍磨していく、意識が薄れていく。


 それをどうだろう。

 海から引き上げられるように、身体が軽くなっていく。淡かった光は強くなっていき、俺の視界を白く染め上げる。これは、李を説得した時の空間のような虚無の白紙ではない。新しく始まる、きっとこれから染まっていく白紙なのだろう。


 ——ああ、君の笑顔が恋しい。


 頬を鋭い痛みが駆けた。

 ああ、この痛みは懐かしい。

 頬をつねられているんだ。


 ゆっくりと目を開けると、大正メイドの彼女が座って微笑んでいた。

 年相応の、どこかあどけないを笑みを、俺は忘れるはずがない。

 彼女の瞳から大粒の涙が溢れ出す。


 俺は喋ることができない。だからせめて、口を必死に動かした。


 ——李。


 すると彼女は、目を細めて言葉を紡いだ。


「はい——おはようございます、兜様」

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