4月3日 悲しみを超えた愛⑤

 次に瞼を目を開けた時、俺は暗闇の中にいて。

 目の前には、スモモが立っていた。抱きしめていたはずの李はいない。


 確かに周りは暗くて何もないのに、俺とスモモの身体は暗がりの中で浮き出している。まるで舞台の暗幕の前に俺たちが立っているような感じ。はっきりとその姿を視認できたのだ。


「行きましょう」


 スモモが穏やかに告げた。


「どこに行くんだ?」

「この世界の出口ですよ」


 表情は変えないものの、スモモは柔らかな声色で応える。


「他の皆は」

「別の場所から出ていますよ。貴方はこちらから」


 スモモが歩き出すのに合わせて、俺も足を動かす。


「元に戻ったら、皆はまた忘れるのか」

「でしょうね。ですが貴方たちは、李のいない世界で再び会えた……また、戻った世界でも巡り会うことを願っています」


「君は結局、何者だったんだ?」

「前に言いましたが、私は4月の化身で——」

「“死者”なんじゃないのか」


 彼女は歩みを止め、振り返る。その瞳は生者よりも純粋で穢れがない。


「死者だから、平常の世界では具現化できない……だけどあの世界は異常だったから、俺たちの前に姿を現せた。君は、“バグ”によって生まれた副産物だったんじゃないかって思うんだ」

「……ご名答です」


 スモモは頷いた。


「なんで言ってくれなかったんだ」

「せめてあの世界では、生きてみたかったんです。死んだことを忘れて……」


 スモモは初めて、俺に笑いかけた。


「美味しかったですよ、チョコバナナ」

 

 その笑顔に、俺は思わず笑い返した。

 そして寸刻の後、ずっと気になっていたことを投げかけた。


「君は、李の——」

「あ、あの……!」


 不意に声がかかる。後方を見ると、身体中の黒ずんだ全裸の李が立っていた。


「李?!」

「どうして……貴方は、こっちから出てはいけませんよ」


 スモモは目を丸くし、李に忠告の言葉をかける。

 しかし李は、そんなスモモの忠告を聞き流し走り出した。

 そうして、


「会いたかった……ずっと」


 ぎゅっとスモモを抱きしめた。


「あ、えっと……」


 スモモは明らかに戸惑っている。飄々としていた彼女からはあまり想像のつかない光景だ。


「気まずく……ないんですか。だって貴方……私を死なせたこと気にして……」

「気まずいですよ……罪悪感で胸がはち切れそうです。でもやっぱり会いたかったから……」


 スモモはしばらく気まずそうにしていたが、やがて全てを受け入れるように李を抱きしめ返した。


「あの、プレゼントは届いていますか」

「ええ。毎年、楽しみにしています」

「そうですか……良かったぁ」


 安堵に満ちた声が響く。


「あの……李。プレゼント、甘いチョコレートが良いです」

「分かりました。甘いチョコレートですね」


 李は俺に背中を向けた状態でスモモを抱きしめているため表情は見えないが、きっと慈愛に満ちた柔らかな笑みを浮かべていると思う。俺も顔が自然と綻んでしまう。

 でも、それも束の間。


「時間です」


 スモモが名残惜しそうに告げた。

 見ると李の身体は少しずつ透けていく。


「どうなって……」

「元来た出口に、戻ろうとしているんです」


 李は俺の方向を振り向き、柔和な笑みを浮かべた。


「兜様、戻ったら、起こしに伺いますね」


 それはまるで、いつもの朝を迎えるように。


「ああ、ありがとう」

「それから……」


 李はスモモを見つめ、僅かに首を傾げた。


「スモモ、ですよ——姉さん」


 スモモがそう告げる。その声色は春の日差しのように優しくて。


「プレゼント、楽しみにしていてください——スモモ」


 李の身体はやがて、闇の中に溶けていった。


「行って……しまいましたね」


 寂しそうに、彼女は呟いた。


「もうちょっとだけ……話したかったな」


 李の消えた場所から目を離さずに、少女は思いを馳せていた。


「では、行きましょう。出口はこの先です」


 それでも暫くの後、俺の手を掴み、少女は再び歩き出した。

 スモモも俺の姿も、だんだんと見えなくなっている。とは言っても、先ほどの李のように透けてきているというわけではない。闇が濃く深くなってきていることにより、暗がりに身体が沈んでいることを意味した。まるで夜の世界に閉じ込められているような閉塞感を覚える。心細さに、スモモとの距離が心なしか近くなる。スモモは、そんな俺の心境など意に介していないようだったが。

 しばらく歩くと、少女はピタリと止まる。


「さて、私が行けるのはここまでです。あとはまっすぐ歩いてください」

「……来ないのか?」

「ここからは……貴方たちの世界ですから」


 寂しそうに、少女は言った。


「ありがとう、あの子を愛してくれて」


 スモモは柔らかに微笑む。すると、白い花吹雪が彼女を包み込む。音もなく花弁が吹き荒れる。

 やがて風が止む。少女の姿はない。幾枚もの花弁が、俺のもとに舞い散るだけで。


「スモモ……」


 ひらひらと降る白い花びらに、俺は呟いていた。

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