街道

KIKI-TA

第1話 街道

 駅を出て歩き始めたのが九時半くらいか、

道に取り付いたのが十時過ぎだったろうか。

膝の具合からすると一時間くらいは上り続け

た気がする。道といっても古の街道で、取り

付き口から暫くの間は急な石段が続いていた

が、そこから後は山道で、道は樹木のなかを

緩やかに上り続けていた。

 地形図を出してもどこまで上ってきたのか

正確には分からなかった。

 昼過ぎまでに山頂に着けばいい。

 山に登るというより、感覚で歩いて感覚で

休んで。行程からいってもそれは十分可能で

きょうだけは、鎌倉時代以来の古の街道をゆ

っくりと味わいたい、そんな気分だった。

 淡い紫色のすみれの群落が、道に沿って続

いている。所々に生える山桜が散り、くろい

土を花弁が斑に染めている。その斑の上に申

訳ないように靴を置いていく。樹木のなかは

見晴らしもなく、左右は鬱蒼とした竹藪で、

土手には木の根が幾重にも張り出していた。

 最初の小休止をして靴紐を結び直し、荷を

背負い歩き始めたときのことだった。

 荷が重くなった訳ではない。

 荷ではない、他の何かを背負ったのではな

いか、何故だか分からないがそんな気配を感

じた。

 足元には相変わらず淡い紫色のすみれの群

落が続いている。左右の竹藪から猪か狸が現

れてもおかしくない。そんな気配はあった。

道を下ってくる人も追い抜いていく人もいな

い。道には先に歩いた人の新しい踏跡も無か

った。

 熊避けの鈴は忘れてしまったが、熊が出る

ほど奥まった山でもないはずだった。

 道は静かだった。

 陸の移動手段が歩く以外になかった時代に

は、数えきれない人がこの道を歩いたに違い

ない。時折曲がり角には、字も読めなくなっ

た石の祠が、表情もわからなくなった石地蔵

があるのは分かったが。

 少しずつ上るにつれ、背中の気配は濃くな

っていく。

 嫌な気も、恐ろしい気もしなかった。

 古から踏まれた街道のせいかも知れない。

気配を背負って運んでいることが至極当然の

ような気にもなっていた。

「突然こんなことになってしまい申訳なく」

 肩越しに僅かな温度とともに風に紛れるよ

うな小さな声が聞こえたような気がした。

「思い切って話し始め・・・た・く」

 声は途切れ途切れである。

 風が葉を揺らす音か。鳥の囀りなのか。

 ここまで上ってきた勢いなのか、微かな声

への反応は自然と出てきた。

「わたしの感覚が正しければ背の主(ぬし)

問い掛けたか」

 主(ぬし)が応える。

「申訳ありませぬ」

「主(ぬし)は誰か」

「名を名乗ることはかないませぬ」

「声からすると女か」

「女子(おなご)に御座います」

 何というのだろうか。

 自分は会話をしている。声は出していない

耳で聞き取ってもいない。骨振動?

 それはどうだろう。

 懐かしい?

 その気配と一緒にいたいと思ったと言った

ら誰が信じる?

 歩きながら、わたしは眉間に皺を寄せ体は

少し強張っていたように思う。

「何故現れた。何故わたしに乗る」

「縁(えにし)を待っておりました」

「わたしが?」

「はい」

「わたしは束の間の者だ」

「街道を行く者は何万とおりました。しかし

背に乗れる者はおりませぬ。貴方様の背でや

っと思いが遂げられる」

「よく分からない。歩けないのか」

「事故で足を失いました」

「事故?」

「はい」

「どのような」

「歩くことが叶いませぬ」

「話せるか」


 正面の梢で野鳥が鳴いた。相変わらず、下

ってくる人も上ってくる人もいない。

 森の上から俯瞰すれば、一人の人間が音も

なく蛇行する道を進んでいくだけである。古

の街道は、関係者の努力だろう、整備が進み

所々丸太の階段で補修され、太い木の根が自

然の段差になっている箇所もあった。

 わたしは混乱していた。


 これはどういうことか。

 誰もいないのに声?が聞こえる。いや、聞

こえたように感じる。

 それも妙にはっきりしている。

 女の声とわたしの声。会話が成立している

のだ。

 そして、それに違和がない。不思議だ。

 声が待っていた?

 もっと聞きたい気さえする。

 このまま彼女の話しを聞くべきか。

 縁無しとして去るべきか。

 わたしのような通りがかりの者が聞いてみ

たところで、何になる。

 あまりに突然のことで、彼女が誰なのかも

知らない。あたりまえだ。

 考えてみれば一方的なことで、それに彼女

は気配だけなのだ。家に帰って家族に話した

ところで、誰も信じてなどくれないだろう。


 先ほど彼女は縁(えにし)という言葉を使

った。

 わたしに縁(えにし)があったのか。わた

しのこの背に。

 やはり分からなかった。

 彼女は待っていたのか。いつの頃からか。

分からない。知る由もない。草木が地中に根

を張り、厳しい冬をじっと耐え、内なる風に

エネルギーを解き放つ日を待つかのように。


 わたしは歩数を重ねながら、何度も問いを

繰り返した。そして内なる解答を探した。


 どうあっても。そういうことはある。

 僅かでいい、時間の扉を開けてみる。

 それが解答?

 時間の解を求めること。


 方程式を解くこと。


 解がどうであっても。


 縁(えにし)とは何か。縁とは。


 彼女の話しを聞いてみたいと思う自分に気

付き始めていた。


「わたくしは生まれたときから碧眼の瞳を持

っておりました。

 お父もお母も、近親の者たちも、わたくし

の生まれた姿に驚き、そして行く末を案じま

した。赤子のうちは、家のなかにかくまい、

周りの目に触れさせぬようにすることもでき

よう。しかし、いずれ周りの知るところとな

る。まして女子(おなご)である。

 お父お母は、病ということにして、赤子の

うちに間引くことも考えたようで御座います

が、腹を痛めたわが子を思い切ることができ

ず、屋敷の奥で、人目に触れさせぬよう育て

続けたようで御座います。

 幸い大病なくわたくしは育ちましたが、数

えで十(とお)も過ぎた頃、村の者に見付か

ります。

『○○殿の屋敷に、見たことも無い異人の眼

を持った女人がいる。○○殿は何故隠してお

ったのだ。何故そのようなことが起きる。か

ようなことは先祖の縁起からは聞いたことが

ない。何かの前触れではないか。

 流行り病ではないか。

 記録にあるような、いずれも餓死する飢饉

が起きるのではないか。

 激しい地の揺れがあるのではないか。

 奴のからだには碧い血が流れている。

 このような女子(おなご)は、この先どの

ような子を産むかも分からぬ』

 大和の国といっても、東国相模の田舎で御

座います。このような地に碧眼は無理が御座

いました。

 噂はまたたく間に村中にひろがり、なかに

は、珍しいもの見たさに屋敷に押しかける者

や、見世物商売に江戸へ引き連れようと、お

父お母に身請けの交渉を持ち掛ける者まで現

れました。

 最後には、ご城下から検分の御役人様まで

おいでになる始末で、お父お母の心労は深ま

ばかりで御座いました。

 物心ついてよりわたくしの居場所は無くな

りました」


 わたしは、彼女の語りを聞きながらどれく

らい歩き続けたろうか。

 話しの内容は、想像の域を遥かに超え、足

元に続くすみれの群落も目に覚束なくなって

いた。街道の樹木たちは、無言の歩みに聞き

耳を立てるように静まり返っている。

 相変わらず、身が重くなることはなく、街

道を下ってくる人も上ってくる人もいなかっ

た。


「村人に見付かって以後、十五を過ぎた頃と

思います。

 碧眼の瞳は、あるいは眼の病かも知れぬと

いうことで、藩の御役人の計らいで、藩の医

者様に診ていただくようになりました。

 ひと月に一度程度、藩よりお使いの者が来

て、ご城下の医者様のもとに眼を診せにいく

のです。医者様は、西洋医学にも通じた方で

丁寧に眼を診てくださいました。

 医者様は、西国で勉学なされていましたの

で見聞もひろく、異国の者にはわたくしのよ

うな碧眼の瞳を持った者もいることを知って

おられました。また西国には、碧眼とまでは

いかずとも、色が薄く、灰色の瞳をもった者

もいることを存じておられ、お話しをしてく

ださいました。もしかしたら、わたくしの遠

いご先祖様が、西国と繋がりがあり、西国の

者たちの血を受け継いでいる者がいたことで

わたくしにこのような瞳が現れたのかも知れ

ぬと。しかし、武蔵相模の国にはもともとそ

のような者はまずいない。

 このまま此処に住み続けても、決して良い

ことはない。

『京より遥か西、太宰府よりも更に西の西国

の果て、長崎という国には異国への窓口があ

る。そこは、異国、阿蘭陀への窓が開いてお

り、出島という街には、赤毛碧眼の異人も珍

しくない。

 そのような役所のある街であれば、街の民

も碧眼への違和も少ないはずである。大和の

民であっても、あるいは碧眼に近い瞳を持つ

者もいるかも知れぬ。わたしは、彼の地に赴

いたことがある。医学を志す者で知る者もい

るのでその者へ、そなたの紹介状を書いてさ

しあげよう。そなたと、お父上お母様がご了

解となれば、思い切って、西国長崎へ行き、

医学診療のお手伝いをすることは、いかがで

あろうか。

 そなたはものの道理、理が分かる子だ。そ

なたが持って生まれたそのちからを医学診療

の道に活かしなさい』

 医者様はそう言ってくださいました。わた

くしは、帰って後、そのことをお父お母に告

げました。

『藩医殿がそこまで仰せになるのであれば、

われらは忍ぶしかあるまいな』

 お父はそう言うと、しばらく沈黙致しまし

た。

『長く診ていただけたことだけでも有難いこ

とだ。でなければ、わたしもお母も、如何に

すればよいか分からなかった。

 眼の患いではなく血の流れであったとは。

 しかし、それはわたしたちにはどうにもな

らぬことだ。かといって、村の者たちには理

解のできぬこと。このまま在所にいたとして

も、おまえに福が訪れるとも思えない。おま

えを嫁にという若者が現れたとてすんなりと

はいかないだろう。どのような眼の子が生ま

れるかも分からぬ。同じ苦労をさせてはなら

ない』

 お父は、その後もお母と随分と話しをされ

たようで御座います。幾日も遅くまで、奥の

部屋に明かりが灯っておりました。

 お母の声はほとんど聞こえませんでした。

『おまえの気持ちはどうか。

 いくら藩医殿のご紹介といっても、知らな

い土地での暮らしは心細い。西国の果てとも

なれば言葉も風習も違う。わたしらの親戚筋

の者もおらぬ。

 それでもよいか』

 わたくしも、医者様からお話しを伺ったと

きは、これで周囲の目から離れられ普通の暮

らしができると気も晴れやかに思いましたが

お父の話しを噛み締めるうち、事の重大さが

分かって参り、まして長年付き育ててくれた

お父お母と別れることの辛さ、行く末の不安

が増してくるので御座いました。

 しかしこの機会を逃しては、これから何十

年もこの暗い気持ちで暮らし続けなければい

けない。わたくしのような身分の低い者には

有り得ぬ機会であることも理解できました。

 わたしは決心しました。

 医者様にご紹介いただいた地で、新たな道

を進んでみようと思うようになりました。

『お母は暫く気持ちが塞ぐであろう。

 悲しいであろうな。

 寂しくなるが、藩医殿にはわたしから、返

事をさせていただく。安心しなさい。ご城下

にお伺いしたときに、藩医殿からまたお話し

を伺いなさい』

 わたくしはお父に返事はしたものの、暫く

はよく眠れぬ日が続きました」


 わたしは令和の時代を思った。

 確かに科学は遺伝子レベルにまで発展し、

通信は網の目のように繋がり、情報は瞬時に

地球上を巡っていく。

 しかしどうなのだ。

 自分の子が碧い瞳を持って生まれたとした

ら。


「次に医者様にお会いできたとき、医者様は

喜び仰いました。

『父上様お母様もようご決断なされた。

 そなたもよう心をお決めになられた。

 さっそく、長崎の○○某あてに紹介状を書

いたので、これを持って彼の地に赴かれると

よい。道中も長いとて、京では、知り合いの

○○某あての書状も書いてある。所在は書状

にあるので、逗留していかれるとよい。大坂

の堺からは、長崎に行く船に乗れるよう、そ

の取り次ぎ役あての書状も用意した。長崎で

は、○○某の屋敷で、医学の勉学をしながら

家業の手伝いをしなさい。

 そなたはしっかり者ゆえ、諸事万端やって

いけます』

 わたくしは有難く紹介状を頂戴致しました

 それから間もなく、旅支度を整え、瞳のこ

とがひと目で分からぬよう化粧を施し、次の

満月の夜の、月明かり照らす明け方近く村人

たちが起き出さぬ間に、村の外れからこの街

道へと旅立っだので御座います。

『道中何があるか分からぬ。おまえの羽織の

裏地に、神明社様のお守りと僅かばかりのお

銭の袋を縫い付けておきました。万が一のと

きはそれを使いなさい。そして藩医殿からの

書状はお札代わりに使えます。関所などで、

何か問われたときには御役人にお見せなさい

箱根の関所は特に厳しいお取り調べがあると

聞いています。必ず助けになりますから』

 それが、お母からの最後の言葉でした。

 お母の表情は、月明かりに陰になり朧でし

たが、しっかりと話そうとするそのお声は心

の奥深くに刻まれたように思います」


 街道は緩やかに上っていく。

 彼女の話しを聞き、心に浮かぶ情景を噛み

締めながら行くにはちょうどよい傾斜と道幅

だったように思う。

 彼女の話しからすると、江戸の頃のことで

あろうか。令和からは三百年も前のことであ

る。しかし、何がどう変わったか、と彼女に

問われれば何と答えられよう。確かにいまで

は、紅毛碧眼の人たちが地球にはいること。

そればかりではなく、もっと遥かに多様な人

種が住んでいることは、様々な媒体で皆が知

っている。

 紅毛碧眼などという言葉が、差別用語にあ

たることも理解している。

 海外勤務や海外に関係する仕事で海外経験

のある人も多い。中小企業も外国人の雇用を

増加させている。自分の身の周りに肌を接す

るような近さで外国の人がいるかといえば、

悲しいかなわたしの場合はNOである。海外

の仕事や旅行も数えるほどの経験しかないが

多様性という言葉は理解しようとしているつ

もりだ。

 違ってあたりまえ、違うからこそと。

 差別のない国など存在しない。しないこと

は分かっている。分かっているから協調が要

る。多様性が必要だと。識者たちは唱え窓口

が造られ。人材が育てられ引き継がれ。

 彼女の生きていた時代に比べれば、人々の

開明度は上がっただろう。

 しかし、何処かに、見えない処に、差別は

残り、遺伝子の底に巣食う。負の行為はとき

に快感となり、自分たちの生存、自らの利益

となり、それは、情報をより共有できるよう

になったがゆえに拡散し、広範囲にひろがり

ときに集団となって大規模で破壊的になって

いく。


「村を離れ、二里ほど広い街道を歩いた後、

関所に続くこの山道に入りました。

 季節は水無月に入り、風は温かくなってい

て、高いところにある関所越えの難儀もなく

なっておりましたが、前日までの長雨で道の

隅々は湿気が多く、石畳もまだ所々水を含み

濡れておりました。

 月明かりが道を照らすような時刻で御座い

ます。物陰はまだ暗く、人影もありませんで

した。山道は始めのうちは、石畳がきつい坂

道で御座います。わたくしはやがて先ほど貴

方様と出逢った場所に差し掛かりました。森

のなかは余計に暗く、道幅も定かに確かめら

れませんでした。

 女子(おなご)の慣れぬ旅ゆえ、慎重に、

月明かりを頼りに、間もなく明ける東の海方

の空を確認しながら、ゆるりと進んで参った

のですが、運悪く敷石の不安定な箇所で道を

踏み外し、谷底へ落ちました。

 足に激痛が走り、気が付くと足の骨が折れ

ているようでした。

 助けを呼ぼうにも誰も通りませぬ。

 村からも遠く、声も届きませぬ。

 前日までの長雨のせいでしょうか、地面も

柔くなっていたと思います。落下の際に手を

掛けた岩肌が、わたくしを追うように崩れ、

わたくしは大岩の下敷きになりました。その

まま気を失ったのか、しばらくは生きていた

のか、いまとなっては思い出すことはできま

せぬ。

 そのまま命を失ったようで御座います」

「それが事故なのか」

 わたしは言った。

「はい」

「それがわたくしの最期です。

 わたくしはそのまま街道の下の土のなかで

眠りに付きました。せめて、村からも遠くな

く、わたくしの知っている地でのことであっ

たのは慰めです。村の神明社様が、お導きく

ださったのかも知れません。

 それから時が経ちました。

 何百年もの間、わたくしは地のなかで探し

ておりました。街道を行く旅人を、地のなか

で待っておりました。もう、西国に行くこと

は叶いませぬ。叶いませぬが、道端のこのよ

うな暗い場所にこのまま居ることは辛いこと

です」

「いま、西国は、長崎はどのような街なので

しょうか。貴方様は知っておられますか」

「わたしは、申訳ない。

 長崎は知っているが、行ったことはない。

 でも長崎は、坂のきれいな街、入り江に大

きな船が泊まり、見えないちからで動く鉄の

乗り物が走っている。如月の頃は、赤い提灯

が幾重にも軒先に飾られ、風に揺れているそ

うだ。

 そなたの居た時代からは、もう大きく時が

過ぎてしまっている。そなたのような碧眼を

持った者は、陸奥の国にいることがある、灰

色の瞳を持った者は長崎をはじめ西国には少

しいる、とも聞く。紅毛碧眼の異国の者たち

とも、自由に往来でき、話しもできる世にな

った。そなたも、あと二百年も後に生まれて

おれば、そのような苦労をせずに生きられた

であろうに。

 一度そなたの瞳をこの目で見たかった。そ

して瞳を見ながら、ずっと話しをしていたか

った」

 わたしは彼女に語りかけた。

「せめてこの歩けぬままのわたくしを、この

街道の上にあるお宮まで運んでいただけませ

ぬか。

 そのお宮で眠りたい。

 さすれば叶わぬ夢も昇華となり街道の脇で

安らかに時を過ごせそうな気が致します。貴

方様のお話しの長崎も夢に見ていられる」

 わたしは歩みを止めた。

 彼女の言う、お宮は恐らくあと三十分くら

いだろう。これが、彼女の言う縁(えにし)

なのか。通りがかりのわたしの背がふさわし

かったということか。三百年もの間、彼女は

じっと待っていたということか。

 わたしは地面を見つめた。

「分かった」

 わたしは声に出しただろうか。

 心のなかで呟いただけだったろうか。

「わたしの背でよければ、このまま乗ってい

きなされ。そなたが求めているお宮まで、あ

と少しで着く。

 それでよいか」

 はっきりとは分からなかったが一瞬彼女が

深く息をしたように感じた。

「有難いやな。

 感謝申します。

 運んでいただける背のお方をずっと、

 ずっと、待っておりました。

 それが叶いました。

 わたくしは幸せ者で御座います」

 彼女からの言葉は確かにそのように届いた

気がする。

 心持ち背が温かくなったような気がした。

 不思議な縁(えにし)を感じていた。不思

議という言葉しか見つからなかった。自分は

特に何もしていない。ただ、行こうと思い立

った日に、一人思い立って山支度を始め、家

の門を開けた。列車に乗り改札を抜け、道標

に導かれるように街道に入り、古に思いを馳

せたかっただけだ。

「こんなわたしでよいのなら、いくらでも背

を貸そう。乗りなされ。お宮にはもう直に着

く」

 彼女はもうそれ以上話さなかった。わたし

ももう何も話さなかった。


 足元には、先ほどのすみれの群落はもうな

く、代わって、樹林帯を抜けて早春のまだ茶

色の斜面に、所々、淡い赤い木瓜の樹の花が

咲き始めていた。よく見ると、赤茶色がかっ

たゼンマイの若芽や、小さく拳骨を握ったよ

うなワラビの若芽が、土手の中腹に幾つも顔

を出しているのに気付いた。

 枯れたすすき越しに、火山群特有のもっこ

りとした山体が見え隠れする。いままで見え

なかった山群の、大きな頂上の連なりを見る

と、随分と高い場所まで歩いて来たらしい。

本来なら、もう少し休憩をしながら上る山道

であったが、彼女の話しに聞き入っていたの

だろう。間の記憶は足元のくろい土の道筋し

かない。

 彼女が、そのまま背に乗っていることは分

かった。

 ある感触が、言葉にはならない懐しさのよ

うな感覚とともに、早春のまだ冷たい気に紛

れて感じられたからだ。


 お宮は街道から少し外れた樹木のなかに建

っていた。其処は彼女の言っていた場所に違

いなかった。

 心のなかの道標が其処を差し示している。

 お宮は、地元の人たちに厚く信仰されてい

るのだろう。社脇に備え付けられた木札の一

覧や掃き清められた境内の具合からもそれが

伝わってきた。

 境内の端に生えた山桜が、時折吹く弱い風

に花弁を一片二片散らし始めている。山麓で

はかなり散っていたその花弁も、山頂付近で

はまだこれかららしい。これからというその

時期が、彼女を迎え入れるタイミングとして

はちょうどよいのか、そんな気がした。

「着いたぞ」

 わたしは心のなかで唱えるように彼女に語

り掛けた。

 彼女からの返答は無かった。

 ただ背から何かが取れたように感じたので

彼女は背から降りたのだと思った。

「さようなら。

 そなたの思いは遂げられただろうか。

 役に立てただろうか。

 そなたの言った縁(えにし)ということが

 やっと分かった気がする。

 有難う。

 礼を言いたいのは此方のほうだ」


 注連縄の紙垂が微かに揺れている。


 それは街道に吹く風のせいかも知れない。

だからどうとは思いたくない。

 街道を上る間に、言葉には言い尽くせない

体験をさせてもらえただけだ。

 これは体験なのだろうか?

 わたしは力が抜けたように暫く鳥居の前に

佇み、小さな社殿を見つめていた。

 わたしの体には体験として残ったのだと思

う。彼女の語りの隅々までが、その声色、体

温のような温かさまでが、手足の先、脚に、

五感を通して残っていた。

 わたしはこの体験をこのまま此処に置いて

いこうと思った。この体験は、この山のもの

で、この街道のもので、家に持ち帰って懐か

しむものではない。

 いまのこの地面、この草木たちに置いてい

く。

 それがいい。

 この自然とともに彼女は眠り、自然のなか

で彼女は眠り。わたしに残るのは、言葉では

上手く言い表せない、そう、通り過ぎる一陣

の風のような感触だけでいい。

 懐かしいような、屋根や柱の隅々にまでず

っと触れていたい気がした。

「さようなら」

 わたしはもう一度、心のなかで呟いた。

 思えばきょうは呟いてしかいなかったな、

いつの間にか口元が緩んでいる。


 わたしは我に返ったように、再び社殿を見

上げると、深呼吸をして柏手を打ち、一礼を

した。

 お宮の少し先にある山頂から、家族連れの

歓声らしきものが聞こえてくる。

 鳥居を後に街道の道に戻る。

 街道に連なる頂きまではあとひと上りだ。



















 

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