狂乱の街頭演説
厠谷化月
第1話
「獺堂の珈琲牛乳がいいって、いつも言ってるでしょ?」
「獺堂は異物混入で——」
「そんなことは聞いてねえよ」
私の言葉を遮って、
彼女は足を組んで私と向かい合う形で椅子に座っていた。今時の可愛らしい女性用の化粧を施された彼女の顔ははっきりと不機嫌の色に染まっていた。彼女はわざとらしく舌打ちをして、私を睨みつけた。彼女を余計に怒らせてしまったなと強く後悔した私は、平謝りに平謝りを重ねて、彼女の怒りを収めようとした。
頭を下げていると、どうして歳下の浮沼なんかに頭を下げなければならないのかと思ってしまう。彼女が自分の思い通りにいかないと、いくらこちらに非がなかろうと烈火のごとく怒り出し、謝罪を求めてくるのはいつものことだった。だが、朝から遠くのコンビニまで走らされ、彼女の甲高い金切り声を間近で聞かされて、頭の片隅に潜んでいた頭痛が目立ち始めていた私は、彼女に頭を下げていることに対して苛立ちを感じないわけにはいかなかった。会社の立場上私が彼女を叱るのは許されなかったが、腹の底から湧き上がる怒りは言葉になって私の喉にたまっていた。
「ミッちゃん先生、そろそろ出番なんだけど」
統括マネージャーの
「はぁい」
彼女は面倒くさそうに間延びした返事をして、立ち上がった。彼女が床に落ちたペットボトルを蹴ると、それはすべって私の足に当たって止まった。私は怒りで震える手をどうにか抑えて、頭を下げ続けた。それを見た彼女はすれ違いざまに私にだけ聞こえるようにして鼻で笑った。
まるでニュートンのリンゴでさえも彼女のために落ちてくるような振る舞いである。だが仕事の関係上私は頭を下げたまま彼女を見送ることしかできなかった。とくに数田統括マネージャーの見ている前で何かを起こすのは余計にことを荒立ててしまうだけであった。
「ミッちゃん先生、よろしくね」
彼女が出て行く際、数田さんは機嫌を取るように、猫
私は数田さんの様子を見て彼女が行ったことを確認した。今度は数田さんの機嫌にビクビクしながら、足元に転がったペットボトルを拾おうと、背中をかがめた。数田さんが控室の扉を閉めたのを、私は扉の音で知った。
「ローマネ、お前どれだけこの仕事やってんだよ」
数田さんはさっきまで彼女にかけていた猫撫で声とは打って変わって、強い口調でそう言った。ペットボトルを拾っていた私は、ちょうど前屈の姿勢を取っていて、怒られるにはバツが悪かった。
「「おぉーーー」」
外の聴衆のどよめきは、束になって閉め切った控室に前で入り込んでいた。たぶん浮島が聴衆に姿を見せたのだろう。
「有権者の皆さーん、おはようございまーす!!」
拡声器を通して少しぼやけた浮島の声が、幾枚もの壁を通る過程でさらにぼやけてこの控室にも聞こえてきた。いつも朝の駅前街頭演説で彼女が言う文言だからそう言っているとわかるだけで、それ以降の彼女の言葉はあまりにぼやけすぎて控室にいる私には判別が出来なかった。だが彼女の口調は、さっき私に向かってペットボトルを投げたり蹴ったりしていたとは思えないくらい、明るい声だった。
「すみません」
私は急いで曲げた背中を伸ばして謝った。背中を伸ばす過程で頭が激しく揺れて、こめかみがヅキヅキと痛んだ。数田さんは、大きなため息をつくと、椅子にドシンと腰を下ろした。勢いよく落ちてきた巨躯を受け止めた椅子は微かに軋む音を立てた。小太りの中年男性が足を投げ出し、両腕を肘掛けに置いて座る様は、可愛らしく着飾った浮沼よりも政治家らしく見えた。少なくとも私の頭の中に形成された「政治家」像はそうだった。数田さんに背広を着せれば完璧な政治家だった。
「すみませんじゃないよ。この時期は特に先生の機嫌損ねちゃいけないの本当にわかってるの。そろそろ衆院選なんだよ。結果次第で来期の契約切られるかもしれないんだよ。そしたらおまんま食上げだよ。ちゃんとマネージメントしてくれよ」
延々と続く数田さんの説教の後ろでは、浮沼の演説がぼやけて聞こえて来ていた。私は数田さんに対して相槌のように「すみません」と連呼し続けていた。単調に謝罪の言葉を言い続けていると、頭痛で回転が阻害されている私の頭は自然と意識委は浮沼の演説の方に集中し始めた。
「ぼえぼおべ、ぼぼぼべぼべべぼべぼぼぼぼべばぼ」
はっきりと言葉として認識できない彼女の演説をぼんやりと聞いているのは、考えるのが苦痛な私の頭に心地よかった。何よりも何を言っているのか気にしなくていいというのが良かった。
「「えぇーーーっ」」
彼女の言葉の直後に、聴衆の間に大きなどよめきが起こった。
「ぼぼべ、べべべべぼべべぶ」
「「「ええぇーーーーーーーーーーーっ」」」
彼女がどよめきを待ってから何かを言うと、さらに大きな感嘆の声が聴衆の間で渦を巻いたようだった。こんなに驚くようなことを今日の演説で言う予定だったかと疑問に思ったが、面倒なので思い出すのは諦めた。
今度のどよめきはなかなか止まなかった。止む前にさらに周りが騒がしくなった。音の大きさから、聴衆ではなく裏方の方で騒ぎが起こっているようだった。
ノックもなく、控室の扉が開けられた。見るとそこには党のアシスタントディレクターの
「すみません、数田さん」
今年新卒で入ったばかりの束雲くんは、数田さんの説教の言葉を遮ってそう言った。束雲くんに呼ばれて数田さんは説教を中断し、私と共に廊下へ出た。廊下にでると裏方で起こっていた騒ぎがはっきりと感じられた。政策陣が慌ただしく廊下を行き来する先で、党の
◇◇◇
「この度は、弊社の浮沼が貴党に多大なるご迷惑をおかけして申し訳ありません」
私と数田さんは党の餅木県連本部事務所の会議室にいた。珍しく背広を着た数田さんが生鯨プロデューサーに深々と頭を下げていた。もちろん私も急いでクローゼットの奥から引っ張り出した背広を来て、数田さんに倣って頭を下げていてた。
「いやいや、頭をあげてください。この時期ですから、早く本題に入りましょう」
生鯨さんはすこし苛立ちがうかがえる口調でそう言った。衆院の任期満了を間近に控えたこの時期、政策陣は運動の展開で大わらわだった。
浮沼の政界引退宣言は突然だった。彼女は朝の演説前が特に機嫌が悪い印象だったので、朝が弱いんだなとは思っていたが、引退を考えさせられるほどだったとは思わなかった。今朝の演説も喋り出しからいつも通り明るい口調だった。仕事とはいえ、演説の口調からは引退を考えているとは微塵も感じさせない彼女の政治家精神は、彼女に散々困っていた私でも感心してしまった。事務所は彼女と連絡がつかず、彼女から一方的に三下り半を突き付けられた形になった。
「この時期ですから、他の事務所さんと新たに契約を結ぶのは難しいです。ですから、今回は、浮沼くんの後継もおたくのを起用しようと考えています」
生鯨さんがそう言うと、数田さんはさらに深々と頭を下げた。それを前にした生鯨さんは、今回だけですよ、と念を押した。
「それにね、こうなったから言いますけど、彼女じゃ今回の選挙は勝てなかったんじゃないかと思っていたんですよ」
生鯨さんは唐突にそう言い出した。
「それはどうしてですか?」
数田さんは驚いたようにそう言った。
「浮沼くんもよかったですよ。ただ、少しフェミニンすぎるかなと。対抗馬の
「それなら良かったです」
そう言うと数田さんは鞄から一組の資料を取り出して、生鯨さんに渡した。
「弊社の
矢間口は今年大学を卒業したばかりの新人で、いま私の会社が売り出そうと力を入れている一人だった。在学中にミスター応仁大を連続で取った、息を吞むほどイケメンの青年だった。彼を起用すれば女性票は間違いなく彼に流れるはずだった。しかし、生鯨さんは資料を一瞥しただけだった。
「勝間のライバルには女性がいいと思うんですよ。例えばおたくの
「置引は小選挙区が事務所NGなんですよ」
生鯨さんはそれを聞くと、困ったように腕を組んで背もたれにもたれかかった。不意に私は生鯨さんと目が合った。彼は驚いたように目を見開いた。
「そこの、彼女なんかダメですか?」
生鯨さんは顎で私の方を指した。私は自分のことだなと確信して戸惑ってしまった。
「え、コレですか?コレはうちのマネージャーでして」
「しかし、その子は髪をベリーショートにしたら、勝間に引けを取らない魅力的なライバルになると思うけどな」
そう言われて数田さんは、少しの間黙って考え出した。私はもちろん出馬したくはなかった。人前に出るのも嫌いだ。政治家の忙しさは、マネージャーとしてよく知っていた。拒否をしたかったが、気が動転して口が開けなかった。
「分かりました、コレを出馬させましょう。いいよな」
数田さんが私の方を振り向いてそう言った。私はつい首を縦に振ってしまった。事務所のことを考えればこれ以上時間はかけていられないだろうし、そもそも私が拒否したところで私の意思が通る空気でもなかった。
その日のうちに、私は髪をばっさりと切った。ずっと長いままだったから抵抗があったが、それでどうなるわけでもなかった。切ってしまえば、頭がだいぶ軽くなり、さっぱりとした感覚が新鮮で心地よかった。だが、鏡に映った自分を見ても、ライバルとなる勝間真奈に渡り合えるとは到底思えなかった。彼女の魅力的な美貌に比べて自分の容姿に沢山の男を引き付けるほどの価値があるとは思えなかった。
宣材写真を撮る段になり、プロの人に化粧をしてもらうと、まったくの別人が鏡に映っているようだった。そう錯覚するくらい自分の顔とは思えなかった。浮沼のフェミニンなメイクとは違い、私の場合は中性的な魅力が強調されていた。さらに強い光を当てられて撮ってもらった写真には、自分の面影は残っていなかった。ともすれば男性とも取られかねないその容姿は、陰のある雰囲気をまとった勝間真奈とは違った意味で男を寄せ付けない魅力を持っていた。
◇◇◇
その日の朝は、数日来続く頭痛がさらに酷くなっていた。初めての街頭演説だというのに気持ちが乗らなかった。演説に備えて、ずっとその練習をさせられていた。はっきりと、大きく、と講師に言われるとおりにやったが、今までボソボソと話していたためか、顎の筋肉が痛くなり、それがもとで頭痛にも悩まされるようになった。
「ナッちゃん先生、時間だよ。よろしくね」
控室にいる私を呼びに来た数田マネージャーは、それまで叱責していたとは思えないくらいの猫撫で声でそう言った。
演壇に上ると照明が眩しくて、目が慣れないうちは前が見えなかった。しかし、その歓声の大きさが支持者の規模が大きいことを表していた。特に今日はよく集まっていた。同じ選挙区のライバルである勝間真奈の男性問題が明らかになり、彼女の支持者は彼女の元を去ってしまった。生鯨ディレクターの思惑通り、彼女の支持をやめた人々の多くが、彼女と同様に男性にこびない強さをイメージに宣伝していた私の元に集っていた。
設営や撤去で上ったことはあったが照明がついた状態は初めてで、少し戸惑ってしまった。眩しくて見えないうちはまだいいが、多数の支持者が見えてくると緊張で上がって何も言えなくなるのではないかと今から不安になった。不安になって、今日の演説を頭の中で反芻してみる。演説の内容を忘れてはいないようだった。
目が慣れてくると、演壇の前に集まった支持者の様子が見えてきた。彼らは私の登場を大いに喜んでいた。私に注目していた。私の美貌に興奮していた。私は大勢を前にして不安になるどころか、むしろ快感を覚えていた。私は握ったマイクを口元に近づけた。
「有権者のみなさーん、おはようございまーす!!」
大きな歓声が返ってきた。数日来の頭痛のことなんか忘れて、私は大きな声で支持者の期待に応えた。
狂乱の街頭演説 厠谷化月 @Kawayatani
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