第15話 アルムのウォーターボール1

 晴れ晴れとしていて外は気持ち良い天気だ。宿を出たアルムは中心地の噴水から西に真っ直ぐに歩いた。村を出た所で海が見えるよ、と店主が言っていたからだ。

 アルムは海を一度も見たことがない。深い森の奥地にあった故郷のフェンリル村ではもちろん海は見えないし、一年間の旅の間に行った東の方では大きな湖と山脈を見ただけで、海までは見なかった。更に山を超えると海があり港もあり貿易船も盛んに来ると情報は得ていたが、そこまでして見るものではないな、と彼女はその時はそう思った。


 まぶしく日が照ってる中、村の様子を眺めながら歩いた。ケルン村の出口に向かうに連れて、崩れた家々がいくつも見え、村人たちが何人か集まってなにやら話し合っていたり、瓦礫を拾い上げて一箇所に集めていたりした。

 酒場の店主は言っていた。時折ときおり、北の森から数匹魔物が降りてきて、作物や村を荒らし回ると。それを聞いてアルムは不思議に思った。故郷のフェンリル村でも周りの森に魔物は住んでいたし、まれに迷いこんで村に侵入するものもいた。ただその時は、村を多少は荒らしはするものの家を破壊するまでに至らない程度だ。


 ここの魔物が元から他の地域よりも特に気性が荒いのか、森に異変が起きて魔物の生態系が変わってしまい村を荒らすに至っているのか、そのどちらかだろう? 以前はこんなに村を荒らされることはなかったと店主は言っていた。それをふまえると、おそらくは後者。だがいまいちしっくりとこない。彼女は他の可能性も考えてみた。


 もしも魔物を操っている魔法使いがいるとしたら、どうだろうか? いや、それはおそらくはない。魔物を操るのは禁術魔法レベルだし、血のにじむような相当な修練と最上級魔法使いレベルの魔力量が必要だ。それを扱える魔法使いは世界を見てもほぼいないに等しいし、それにたとえ使える魔法使いがいたとしてもだ、わざわざこの辺境の村を襲う意図は図りかねる――


 考えを巡らせながら歩いているうちに、いつの間にかアルムは村を出ていた。足元は気持ちよく生え揃っている背の低い草原が埋め尽くしていて、今までに感じたことのない風が白い肌にあたり、自然のたくましさのようなものを感じた。心地よい風を受けながらさらに歩くと、お目当ての海が見えてきた。遠くの方では地変線が見え、ほぼ同じ色の海と空が世界を二分割していた。


 海風がアルムのさらさらとした青い長い髪をなびかせた。もしその場に男性がいたとしたら、目の前の海そっちのけで彼女の透き通った肌と綺羅きらびやかな青い髪に目を奪われるだろう。彼女はしばらく地平線を見て優しく髪を撫でてくる風を感じた。そよそよと背の低い草たちはまるで彼女の足に話しかけてくるようだ。

 海流が激しい影響でできた背の高い崖、そして海上にいくつも見える剣山のように尖った岩。アルムはしばらくそれらを眺めると、ゆっくりと目を閉じて長い耳を風の音に傾けた。


「気持ちいい……この風に吹かれていれば、どんなに嫌なことも忘れてしまいそう。昨日の馴れ馴れしいドワーフのこととか、今朝けさ干してあった男物の下着のこととか、何もかも忘れてしまいそう……」


「――よう!」


 左手から聞こえた声にアルムは軽く顔をしかめた。せっかく清い風を堪能たんのうしていたのに!っと思いながら、長いまつげに先導されるように目を開けて横を向いた。そこにいる人物を見ると夢想の世界から現実に引きずり落とされた気分がした。


「なに?」


「なにって挨拶しただけだ。気持ち良さそうにしてたから、声掛けにくかったけどな」


 だったら声を掛けるな、とアルムは心の中で呟いた。

 そこには、今まさに記憶からほうむり去ろうとしていた馴れ馴れしいドワーフのゼニスがいた。ゼニスは岩に腰をかけ海の方を向いている姿勢だった。あまりにも海風が気持ちよかったからか、人の気配に彼女は全く気づけなかった。


 ゼニスは白いシャツに茶色のズボンを履き、足元は裸足だった。妙にパツパツな白いシャツはどう見ても自前でないのが分かる。おそらく人が良さそうな酒場の店主にでも借りたのだろう。唯一、腰にしているベルトだけが彼の自前だった。ベルトは前と左側に二つずつポーチがあり、後ろにナイフ、右側に刃を上にして大斧がぶら下がっていた。刃は革製のカバーがしてある。


「なあ、アルム……海は丸いと思わないか?」


「海は丸い? 何言っているの……」


 アルムは目を細めた。


「――海は丸い、この世界は丸いんだ。地平線を見れば、おれにはそれが分かる。見てみろ、アルム。海と空の境目は弧を描いてるだろ。大地や海が平面上に続くという方が変だと思わないか? おそらくだがな、この世界は球体でできてるぞ」


 彼は自信ありげな笑みを見せた。


「……ずいぶん、ロマンチシズムなのね」


 彼女は昨日のガハハなイメージと違って、ゼニスが知的に見えるのが気に食わなかった。


「ガッハハハハッ! ロマンチシズムといやぁ、ロマンチシズムだが。おれはな、至って真面目まじめに言ってるんだぜ」


 アルムは視線を上げ、球体の世界を頭の中でイメージした。そして、一つの疑問をぶつけた。


「私達の立っている場所が仮に球体の真上だったとして、真反対はどうなってるの? 真下の海水はどこかに落ちてるってことだよね?」


 アルムは彼の意外な視点に興味をそそられたが、表情には出さない。この世界が球体とはにわかに信じがたいが、初めて見た目の前の海がゆるやかではあるが弧を描いているのは確かだ。その理屈が彼女には分からない。


「そりゃあ、同じさ! 真下も真上も同じように大地があり海がある。そして人も住んでる。ともかく細かいことは分からねぇが、大地と海を見てると分かるんだよ。球体だってことがな……そうだ、おまえさんが昨日見せたウォーターボールのようなものだ。球体だが水は落ちねぇだろ?」


 そう言いながら彼は両手で球体のイメージを表現した。


「これのこと?……」


 アルムはそう言いながら、左手の平から水球を作り、その場に浮かせてみせた。


 ――彼女の『ウォーターボール』は特殊な形状をしていた。水でできた球体の周りに、さらに円形の平たい水の輪が水平に走っている。今見せている水球自体は一〇センチほどだが、輪も含めると二二センチにもなる。

 その輪は日の光を浴びて、キラキラと反射していた。


「大したもんだ! その場で宙に浮かせてるウォーターボールをおれは初めて見たぜ。水魔法ってのは、流体的に動かし続けないと必ず地に流れ落ちる。定位置で宙に浮かし続けることが出来るやつなんて、そうはいないはず! こりゃあ、世界を見ても五本の指に入るほどの魔法センスだ。なぁアルム、それはどうやってるんだ?」


 ゼニスは五本指を立てながら、嬉しそうに聞いてきた。


「う〜ん、そうだな……わたしは無意識にやってるから。改めて聞かれてもなぁ……」


 彼女は呟いた。


「別に上手く説明しなくたっていいさ。説明が難しけりゃあ、覚えた時のことを思い出して順序立てて話せばいいさ」


「……ってか、なんであんたに説明しなきゃいけないの?」


 アルムは腕を組んで目を細めた。


「別に構わんだろ? 減るもんでもないしさ」


「まぁそりゃあそうだけども……」


 彼女は細くなった目でゼニスを見つめた。


「まぁいいけど。わたし、説明は下手だよ」


 彼は肩を竦めて、構わん!と言った表情を見せた。

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