四十九 天女の羽衣

 いしゅたるが放つ薔薇ばらの芳香に呼応するように、綺堂の尻に噛みついていたふらんそわは、その牙を岩のような首に突き立てた。

「良いぞ犬。天の牡牛に変わりて、あの薄らとんちきを今度こそ懲らしめてやれ」

「イシュタル‼」

 きるけえはイシュタルの存在に気づいたようだ。

「キルケよ。我を呼び捨てにするとは大した度胸よな」

 いしゅたるはその姿を肉化させ、紋次郎もんじろうにもはっきりと見えるようにした。


「久しいな、ギルガメシュ」

 紋次郎もんじろうは目の前の空間から突如現れたいしゅたるに怯むことは無かった。

 紋次郎は干しヨモギが入った巾着袋を、いしゅたるに向かって差し出した。

「いつもいつも無駄に賢しらな男よな」

「何なのです、この女は」

 紋次郎もんじろうはきるけえに尋ねた。

「彼女はイシュタルと言う異形のものでございます。私はこの者に呪われているようなのです」

「ならば話は早い。実は私達は、ウツボ海の漁業組合からタコつぼ湾の化け物捕りを依頼されてここにやってきたのです。なるほどこの者が元凶と言うわけだ」

 紋次郎もんじろうが話している間も、綺堂とふらんそわは格闘を続けていた。

 綺堂は頸動脈にかみついたふらんそわを引きはがして床に叩きつけた。


「熱くなるな。バビロンの大淫婦に使われてどうする」

 私の放ったその言葉にはっと動きをとめたふらんそわは、肉化したいしゅたるには目もくれずじっときるけえを見守った。

「我を忘れたというか、ギルガメシュ」

 肉化したいしゅたるは、わなわなと怒りに震えていた。

「貴方は誰だ。私には全く覚えがない」

 興味がなさそうにあしらうと、紋次郎もんじろうはきるけえを他の男たちの視線から隠すように立った。

「綺堂、手前ら。何故俺の命令に反してここに戻ってきたかは今は聞かぬ。船中のヨモギを絶やすことなく燻し続けておけ」

「はっ」

 綺堂達は弾かれたように湯屋の外へ出て行った。


「ヨモギ如きで我がひるむとでも思うてか。明星の大神イシュタルに対して何たる侮蔑」

 いしゅたるはよく響く透き通った声で紋次郎もんじろうを詰った。

 だが紋次郎もんじろうにはもう何も聞こえないようで、いしゅたるには目もくれずきるけえの腰に手を這わせて唇を合わせた。


「私を愛してくださいますか」

 唇を離すと、きるけえが祈るような面持ちで紋次郎もんじろうに尋ねた。

「愛しましょう。あなたの事も」

 きるけえの顔が複雑気に歪んだ。

 きるけえは自分ただ一人だけを愛してほしいのだ。

 きつつきに変化する前に、きるけえの呪いを解く愛はその愛ではないのだと私は伝えた。

 だが必死の叫びは伝わらなかったらしい。


「私には三河に妻が一人いる他に、四人ほど愛人がおりますが宜しければぜひ」

「あなたは浮気な方なのですね」

 きるけえははっきりと落ち込んだ表情で、紋次郎もんじろうから身を離した。

「浮気ではありません。全員大切な私の宝です。無論貴女も」

 私の隣では全裸になったいしゅたるが、美しい顔をゆがめて紋次郎もんじろうに呪いの言葉をかけていた。

 何ということはない。

 明星の大神だの何だと偉そうにのたまっていたが、紋次郎もんじろうのかつての姿であった男に酷く振られた事を引きずっているだけだ。

 そう思うと、肉化した上に全裸にまでなったのに、自分が呪いをかけた女を口説いているのを見せつけられている事をどうにもできないいしゅたるが滑稽でたまらなかった。


 いや、何かがおかしい。

 普段のいしゅたるならば何をおいても自分の思い通りにせねば気が済まぬ筈。

 おめおめとこのような扱いを受け入れる存在ではないはずだ。

「ヨモギは化け物封じに効くとは真実のようですね」

 ふらんそわが私に小声でつぶやいた。

「ああ。愛と言う言葉も効くぞ。ただし、胸が苦しくなるような恋ではない。広い、海のような母のような大きな愛だ」

 私の言葉に、ふらんそわは愛、愛とつぶやきはじめた。

 きるけえと紋次郎もんじろうは、いしゅたるや私たちの存在も忘れてひとしきり睦みあった。


 つい一日も経たぬ間に、私の事など忘れたように目の前の男に目を潤ませて足を開くきるけえを、私はきつつきの視線で見つめていた。

 月の姫君のように、羽衣一つで生まれ変わりそれまでの思いもすべて忘れられるのは便利なのやら哀れなのやら私には判断がつかなかった。

 ふらんそわは祈るように愛、愛とつぶやき続けていた。

 ヨモギの芳香とふらんそわの愛の祈りのおかげか、いしゅたるはいつの間にか姿を消していた。

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