四十 旅の僧

 ふらんそわを呼びに館へと戻り行くとむの姿が見えなくなると、海豚いるかの顔をした男はくうから取り出した焚火をくうに戻した。

 月の光のみが私たちを照らした。

「今更だが、名前をお伺いしていなかった」

「ありません」

「有馬の湯の有馬に仙人の仙ですか」

「いやいや、名前を持っておらぬのです」

 笑いも嘆きもしなさそうな海豚いるかの顔をした男が、私の勘違いにほんの少し笑ったようだった。

「それはさぞ暮らしにくかった事だろうに」

 海豚いるかの顔をした男はそうでもないのだと言った。

「出家にあたって人の名は捨てておりますれば」

「僧侶としての名は」

「その名も捨て、拙僧は山へ海へと一人旅をしておりました」

 ふらんそわが『法主様』と呼ぶぐらいの高僧だと聞いていたが、その身分すら捨てたのだろうかと私は思った。


「拙僧は伽藍がらんの外を取り巻く民のむくろ怨嗟えんさの声を捨て置けず、伽藍がらんの中に籠る生き方を捨てる事に致しました。そして漂泊の旅に出たのです。空から物を取り出し自在に雨を降らせ雲を吹き払う力を以って、苦しむ民が一人でも少なくなるようにと諸国を回ったものでございました」

 海豚いるかの顔をした男は、ぽつりぽつりと話し始めた。


「日照りに見舞われた土地に雨を降らせれば、下流の村に大水をもたらしてしまう。農作物の収量を増やせば、他の村から強盗に夜盗がやってくる。因果応報を説いて聞かせる身でありながら、拙僧は災いと憎しみの絶えぬ世と何も出来ぬ己に改めて打ちひしがれました。そして若き日に修行をした土佐の洞に籠る事にしたのです」

 月に照らされた浜昼顔はぐっすりと眠りについていた。

「拙僧はこの身を土佐の洞に置いたまま、教えを求めて天竺てんじくへと旅をしました。ですが意識の中で天竺てんじくに行く事に飽き足らず、そうに向かう船に乗る事にしたのです」

 みんそうと呼ぶ時代の人間なのかと、私はちらりと思った。


大輪田泊おおわだのとまりまで出向いて、宋に向かう船に乗るつもりでした」

 浜昼顔の群生を抜けると砂浜が隆起した岩場へと変わる。

 その先には、ハイブリッド型パイケーエス式潜水艦初号機が格納された洞窟がある。

「その日はいつにも増して雨風の強い日でした。収穫を前にした五穀が暴風雨に打たれてしまえば、大勢の行き倒れを出してしまいます。私は何度も雨ごいや日ごいに成功して来ましたから、いつもの調子で雨に挑みました」

 海豚の顔をした男は、岩場の潮だまりに映る月を見つめた。


「雨は止むことがありませんでした。天に向かって呪文を唱える私の口はまるで水責めをされるようにすぐに塞がり、ほつれた袈裟は風に煽られてちぎれちぎれに空を舞っていきました。風が私を小突くように押し倒すと、私はうっすらと色づきはじめた稲穂と共に空を舞い、鳴門の渦に叩き落されました」

 海豚いるかの顔をした男は、再び足を止めた。

「旅の僧のあっけない末路でございました。鳴門の渦に揉まれながら、拙僧は自分の長年にわたる思い違いに気づいたのです」

 月に照らされた黒い海に向かい、海豚いるかの顔をした男はしばし読経し瞑目した。


「連れてきたぞ」

 黒い海が寄せては返す音の彼方から、とむの声と二つの足音が聞こえてきた。

「キルケ様は就寝中ですが、あまり長くは不在にしない方が宜しいかと。館でお伺いする訳にはいきませんか」

 ふらんそわの言葉に、とむはどうするとでも言いたそうに私に目を向けた。

「きるけえがこのままでい続けるのを良しとするか」

「と言いますと」

 私の質問にふらんそわは怪訝そうな顔をした。

「きるけえがいしゅたるから掛けられた呪いを解く事が出来たなら、私達はもちろんの事きるけえ自身にとって最高の救いでしょう」

「ならば、本人と直接話すのが最良ではありませんか」

 ふらんそわは楽観的な性質らしい。

 本人と直接話すには危険がありすぎるから、わざわざ潜水艦の中にこもって話さざるを得ないというのに。

「今はまだその段階では無い。まずあなたに確認したい事がある。ある意味これが肝かもしれない」

 私の声はいささか硬くなっていたが、ふらんそわは全く意に介さないようだった。

「何でしょう」

「その問いをここではしたくない」

「分かりました」

 どこか納得のいかぬ様子ながら、ふらんそわはハイブリッド型パイケーエス式潜水艦初号機の格納された洞窟へと着いてきた。


二瓶にへい様、開けられませ」

 本当に面倒な操作方法だとうんざりしつつ、私は潜水艦の出入り口を開けると念じた。

「どうぞ」

 海豚いるかの顔をした男の声に従って、警戒した風を隠すでもなくふらんそわはハイブリッド型パイケーエス式潜水艦初号機の中に入っていった。 

 私を最後尾にして全員が潜水艦の中に入ると、海豚いるかの顔をした男が何事か呪文をつぶやきながら右手でらせんを描き、その手のひらを床に押し当てた。

「これで結界を張りましたので、想念がキルケに伝わる事はないでしょう」

「そこまでして何を隠したいのです」

 ふらんそわの瞳が揺れた。

「なあ、フランソワ。お前キルケを愛しているのか」

 ふらんそわが雷に打たれたようにとむを見た。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る