四十一 聖者の振りをした小役人
「私は……。私はもはや彼女を抱きしめ慰める事の出来ぬ体ですから」
とむの真っすぐな問いに、ふらんそわは明らかに動揺した様子であった。
「お前の気持ちだよ。お前が今人間だったらキルケを愛せるかどうかを聞いている」
「どうしてそのような事を」
「きるけえの呪いを解くには心底彼女を愛し抜く相手が必要なのだ。恐らく彼女はいしゅたるが明星の力を持っているように、月の力を元々は持っていたのではないかと我々は考えている」
私は明らかに困惑しているふらんそわに語り掛けた。
「キルケに掛けられた呪いを解くには、男の根と母の象徴としてのキルケの胎が真の愛情によって強く結ばれる事が第一条件。そこから生み出される愛し子によってキルケは真の救済を得て、呪いが解かれると考えています」
「それではまるでキルケ様は……」
「この見立てが正しけりゃ、男狂いのキルケとは実の所とんでもねえ大存在だったって訳だ。そりゃバビロンの大淫婦も力を奪って呪いを掛けて海に投げ込むわな」
とむが伸びをしながらふらんそわを見た。
「キルケが光るものや鏡を好まないのは、本能的に自分が持っている月の力が増幅され制御できなくなるのを恐れているのではないかと踏んでいるのです」
『あれはただでさえ天界を統べるいと高き神の愛し娘であると言うのに、それだけでは飽き足らず何でも欲しがる癖があってな。ワシのような神々と取引したりだまし討ちしたり言いくるめたりして、神々の力を次々と手に入れた』
水神は確かにこう言っていた――。
「きるけえはおそらく、『消された』月の神だ。いしゅたるは同輩の神々の力を次々と奪って我が物にしたと水神様が言っていた」
「ああ、飲み比べに負けて力を奪われたとか何とか言っていたな」
とむの言葉に、ふらんそわは怪訝そうな顔をした。
「神はこの世に御一方だと知っているあなたまで、そのような事を言い出すのですか」
「まあ難しい事を言うなって。神っていうか、精霊っつうか、おとぎ話っていうかそういうアレだ」
「余り異教の神に入れ込むのは感心しませんね」
神の名の元に、えるされむなる聖地を目指したと言う十字軍の一員であるふらんそわにとって、ふわふわしてとりとめのない水神は頼むに足らぬ存在のようであった。
私はふらんそわの注意を本題に取り戻そうと、口を開いた。
「きるけえと情を交わす男の中に、彼女の封印を解く役目を果たせる男がいるなら話が早いと思ったのだ。今この島で人の形を保っているのは私だけだが、到底彼女の封印を解く器とはなり得ない」
「なあ、フランソワ。ニヘイさんはこう言うが、ニヘイさんがキルケと体を交わしても、それで彼女の封印が解けたとしてもお前は嫉妬せずにいられるか」
とむの言葉に、ふらんそわは深く頭を垂れた。
「彼女が私を狂おしいほどに欲しているのは分かっていました。しかし私には、湧き出る泉に漬かりながら喉が渇いたと叫んでいるようにしか見えないのです。水を持っているのは彼女自身なのですから、私には何もなすすべがない」
「ニヘイさんと一緒に湯を使っている事に対して何も思わないのか」
「二瓶様とキルケ様が通じ合い呪いが解ければ、それに越したことはありません」
「いやいや私は故郷に妻子がいる。通じ合うべきではないし通じ合う気もない」
私は慌てて語気を強めた。
「どうぞその言葉は御心の内に仕舞ってください。キルケ様が一番聞きたくない言葉ですから」
それは言葉を換えれば獣化させられる引き金だ。私はぞっと身震いをした。
「なあフランソワ、お前はどうしてされるがままだったんだ。何も知らないお前を薬やまじないで自分好みの人形にさせようとするのも腹立たしかったが、お前は自分の意思でキルケの人形になっていたようにも見えていた」
しばらく黙ってふらんそわの言葉を聞いていたとむが口を開いた。
「それは、あの方が望んだから」
「望まれたら抵抗しちゃならねえって道理もないだろう。どうして我慢した。お前は俺たち凡夫と違って肉欲の誘惑と闘っていた訳じゃあるまいに」
とむが身を低く構えながらふらんそわに問いかけた。
「それが神のご意思ならば。エルサレムに向かうはずだった私がこの地にたどり着き、彼女に出会ったのも神の御導きでありましょう」
ふらんそわは目を閉じた。
「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。 不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える(※)」
ふらんそわの柔らかな声がハイブリッド式パイケーエス型潜水艦初号機に響いた。
「そんな気持ちで交わったのか。そんな気持ちでお前に救われようとした女を抱いたのか! それなら性欲むき出しでがっついた方がまだ救われたろうよ」
とむはいらだちも露わにふらんそわに詰め寄った。
「御託なんかどうでも良いんだ。『私を愛して、私だけをを愛してると言って、私だけに恋い焦がれて』って半狂乱で取りすがられながら叫ばれた時、お前は何て答えた」
ため息をつくと、とむはふらんそわになり切った。
「呪われし乙女よ。いと高き主の愛と祝福をこそ求められませ。さすれば貴方の心は主の愛で満たされましょう」
とむはふっと鼻で笑うと、ふらんそわに食って掛かった。
「そんな言葉が届く相手かよ。苦しい助けて死なせてくださいって叫びなんだよあの女の『愛して』って言葉は。お前は神に仕え人を助けるなんぞ偉そうにほざきながら、目の前で苦しむ女から逃げたんだ。お前は俺たち凡夫と違って、あの女の肉体にすら価値を見出さなかったんだ。あの女から見れば、肉体すら認めてもらえなかったと言う事になる」
「むきだしの愛欲の最中までお前の頭は誰かさんから聞かされた綺麗事で一杯で、心が壊れて悲鳴を上げる女一人自分の言葉で慰める事すらしなかった。お前は残酷だよ。お前は聖者の振りをした小役人だ」
「とむ、今はそんな事を責めるべき時ではない」
私は激高するとむを宥めようとしたが、とむの怒りは収まらなかった。
「呪われた女に寄り添おうとすらせず、使徒パウロからくすねた言葉を小役人のように機械的にあてがって突き放したんだ。そうして絶望されたくせに、いつも側にいてなぐさめた気になってるだけの偽善者だ。それがお前だよ」
ふらんそわはうつむいたままだった。
「なあ、人間になったらお前はどうしたいんだ。あの女が求めてるから体を差し出すって答えは無しな。『お前は』どうしたい」
「私は……。私は、何か大切な物を忘れたまま生まれてきたようです」
力なくふらんそわが絞り出した。
「そうかよ」
吐き捨てるようにとむが言った。
「なあニヘイさん、あんたはハナから心を交わす気など無いんだろ」
「そうだな。私はただ妻子の元に帰りたいだけだ。体を重ねたはずが一緒に月に行くほどきるけえと同化してしまったようだから、そもそも呪い解きには向いていないようだし」
「ではやはり
「まさかその体でキルケと熱を交わす事は出来ないだろうしな」
つややかな黄金色の体毛に覆われたふらんそわを見ながらとむがため息をついた。
「私が仮に人に戻って熱を交わそうと、今の私の在り方では彼女の救いにはならないでしょう。呪いのせいで彼女を愛せないのではなく、これは私自身の在り方の問題です」
ふらんそわが悲しげにつぶやいた。
「もういいぜ。後は俺たちだけで話す」
突き放したようなとむの言葉に、ふらんそわは力なさげにうなだれた。
(※コリント人への手紙13章4-7)
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