三十八 月が綺麗ですね

 いつの間にやら海豚いるかの顔をした男はその姿を消し、私は月の光に見入っていた。

 私はきるけえが寝台に忍んできたことすら、気が付いていなかった。

「月が綺麗ですね」

 その一言に、私ははじめて寝室にきるけえがいることに気が付いた。

 きるけえはそっと私の左側に立つと、微かにその身を私の肩に沿わせた。


 私はきるけえを寝室からやんわりと退出させようとしたが、ふとある事を試したくなってしまった。

「今宵の月は一際冷たく見えますな」

 私はきるけえの肩を抱き寄せ、その顔を明り取りの窓に映させた。

「懐かしい」

 きるけえは、無心で月を見上げていた。

 明り取りの窓を気にした風もない。

 私は彼女の目を盗むように明り取りの窓を見た。

 

「今宵の月のごとくに輝く子安貝こやすがいが欲しゅうございます」

 何かの謎かけだろうか。

 きるけえが夢見るようにつぶやいた。

「海に浮かぶ月ではなくて」

 明り取りの窓にはきるけえは映っていないのに、私の肩口にはたしかにきるけえの重みと温かさがあった。

「ええ。ツバメが生んだ子安貝であれば、なおの事嬉しゅうございます」

 きるけえが子供のような事を言うので、つい可笑しくなってしまった。


わらわのような事を仰る。あなたはそれだけでは飽き足らぬのでしょうに」

「龍の首の球でもあれば、皆様を人に戻す事も出来るでしょうに」

 きるけえは飽きず月を見上げていた。

 その横顔がそのまま月に溶けて行きそうで、私は思わずきるけえの実在を確かめるようにその唇を自ら食んだ。


「旦那さま――」

 呆然としたような、それでいて月の光にほのかな赤みがさしたように頬を染め、きるけえは私の胸へとしがみついた。

 そこからの事は覚えていない。

 私が目を覚ました時にはきるけえの姿は無かった。

 ただ彼女の残した薄手の上掛けだけが枕元に転がっていた。


 私は自分の体を見、恐る恐る明り取りの窓に自らの顔を映した。

 人間の私が、広い額にはっきりとした眉目の私がそこにはあった。

 記憶がない間の私は自分をある程度制御できたのだろうかと、私は恐怖した。

 一体私はきるけえに何をした――。

 あれだけ忠告されておきながら、私はちょっとした好奇心でまんまと彼女に自ら手を伸ばしてしまった。


 とむにも海豚いるかの顔をした男にも合わせる顔がない。

 だが、一つ大きな収穫もあった。

 きるけえは窓に姿が映らない――。

 これがどのような意味を持つのか私にはまだ分からないが、海豚いるかの顔をした男にでも相談すれば何か良い意見がもらえそうだ。

『今宵の月のごとくに輝く子安貝が欲しゅうございます』

『海に浮かぶ月ではなくて』

 海に浮かぶ月など取れる訳もないのだが、私は名残の熱を帯びた体を冷まそうと忍び足で館を抜け出した。


 私が初めてこの島で夜を過ごした時には、痩せさらばえた月が闇に消える所だった。

 その月が再び闇から生じ育ち行く間に、私はどれだけの年数を過ごしていることになるのだろうか。

 この浜辺がすべての始まりだった。

 月の光は人の心を鎮静化させるのか、忘我に導くのか、それともその特質は表裏一体なのか――。

 私は海面に浮かぶ月を捉えようと素足になって暗い海に身を晒し、海月くらげのように服を着たまま仰向けに浮かんで月を眺めた。


「おくつろぎの所失礼するぜ」

 浜辺からの聞きなれた声で、私の夢想は断ち切られた。

「ついに吐かせたぞ。完落ちってやつだ」

 私は背泳ぎをしたまま浜辺に近づいた。

 ざぶざぶとくるぶしを波が洗う。

 海中から夜気に当たると寒さが堪えた。


「寒い」

「またあのくそったれ女に温めてもらうか」

「見てたのか」

「いや。見ちゃねえが。何となく空気が、な」

 うんざりとしてため息をつくと、私は震えながら流木に腰を掛けた。

「風邪ひくぜ。坊さんを呼んでくるわ」

「その必要はございません」

「おわっ」

 とむが進めかけた前足を引っ込めるのと同時に、目の前に大きな焚火が現れた。


「あんた本当に何でも出来るな」

 とむが大きな口を開けてあくびをした。

「そうなりたいのは山々ですが、未だ修行の身。ままならぬ事ばかりにございます」

 海豚いるかの顔をした男は、焚火の中に手を突っ込んで九字くじを切った。

 良くも火傷をしないものだと呆れ半分に見ていると、『破!』と叫んで月に手を上げた。

「応急措置にはございますが、これである程度は結界が張れる事でしょう。月の力に呑まれたようですが、大事に至らず何よりでした」

 当然とむが察知したからには、海豚いるかの顔をした男が私がきるけえに手を伸ばした事ぐらい分らぬはずもない。

 私はきまりが悪くなって思わずうつむいた。


「フランソワの言うには、単純に鏡を見たがらないんだとよ。とにかく鏡や光って反射するものは苦手らしい。何でも、動揺して心が不安定になっちまうらしいんだ。だから顔や姿が映るものを極力置かないように、館の管理をしている奴らにも伝えてるんだとさ」

 ふむ、と海豚いるかの顔をした男がうなずいた。

「きるけえが自分の姿を鏡で見た所で、きるけえや島自体が消えてしまう訳ではないい。何でも、金具や食堂の大窓やらに映った顔を見ると発作を起こすらしい。『私は醜いから』『私は愚かだから』とかぶつくさ言いながら泣き出したり震えだしたり、いきなり叫んだりするんだとさ」

「自らの容姿を異様に嘆く年頃の娘は、さほど珍しくもないですからな」

 納得しかける海豚いるかの顔をした男を横目に見ながら、私は首をひねった。

 なぜならきるけえは――。

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