三十七 幻影

「鏡が無い理由、ですか」

 海豚いるかの顔をした男は、大きく張り出した額から紫色の光を放射させながら目を閉じた。

「二瓶様の推測は一点大きな過ちがありますな」

 首をかしげる私に、海豚いるかの顔をした男は紫色の光を私の額に向かって強く浴びせかけた。

「男たちに鏡を見させたくないのではなく、きるけえ自身が鏡を見たがらないと言う構図か」

 紫色の光に、眉間に埋め込まれたちっぷが反応した。

 私の言葉に、海豚いるかの顔をした男は深くうなずいた。


「ふらんそわはとむに何と言っていた」

「キルケは光る物や反射する物を好まないとは言っていた。だが理由を聞いてもどうにも要領を得ない。あの口ぶりなら隠し事をしているとも思えないが引っ掛かる」

 とむが円卓の下に積まれた木切れで爪を研ぎながら答えた。

「男に好かれたい女が鏡を見ないとは信じがたいが。服とて仕立ての良いものを毎日着ているではないか。仕立ての際には鏡の前で合わせるだろうにどう言う事だ」


 私はそこまで言って、ふといしゅたるの言葉を思い出した。

『ここはそなたが死の世界と思えばそうなり、生の続きだと思えばそうなる世界に過ぎぬ』

 つまりこれは海豚いるかの顔をした男がかつて私に告げた、『あると思えばあり、ないと思えばない世界』と同義である。

 これを前提に考えると――。


「きるけえの服は、きるけえが想像したそのままを体にまとわせている。質感、風合い、仕立て上がり、全て彼女の想像の中で作られた幻影を私たちは見させられている」

 私は興奮して立ち上がった。

「鏡や光沢のある素材で自分の姿を見ることで、きるけえは自らの姿を客観視する事になる。そのせいできるけえが自分に対して思い描いた姿が崩れてしまう。その美しさも、その可憐さも、すべてきるけえが想像で作り出し自らにまとわせた幻影に過ぎぬ」


「じゃあよ、紡績棟の被服工場で作っている服は何なんだよ」

「この島の造物主としてのきるけえと、被造物としてのその他の差だ。被造物としての存在は、自らの想像では衣服をまとえないから工場で彼らに着せる服を作っている」

 海豚いるかの顔をした男の紫色の光に反応したちっぷが、私本来の脳の容量を超えて働いているようだった。


「キルケ自身が、この島の特質である『あると思えばあり、ないと思えばない』世界構造を象徴する存在であると仮定した場合」

 海豚いるかの顔をした男は、瞑目めいもくして私の言葉を聞いていた。

「第三者としての視点をもたらす鏡によって、キルケ自身が己を観測した際の意識状態によっては、この島が『ない』状態になる可能性がある」

「鏡がありゃあのくそったれ女とど腐れババアをやっつけられるのかよ。俺たちは人間に戻れるのかよ。それが問題だ。御託ごたくも言葉遊びも要らねえよ!」

 とむが喧嘩腰で叫んだ。


「この島と、私たちごと消えて無くなる可能性もある」

「元の世界には戻れずにか」

 とむはかすれた声でつぶやいた。

「仮に二瓶にへい様の仮説が正しかった場合には、体も意識もくうに還元されて行きますから死の苦しみはないでしょうが」

 黙って私の言葉を聞いていた海豚いるかの顔をした男が口を開いた。


「じゃあよ、フランソワは俺たちの邪魔をした訳じゃなかったって事か。それにあの猫の給仕さんも。奴ら一体どこまで知ってる」

「さて。法力ほうりきを使えば彼らの思念を探る事は容易ですが、彼らは仲間です。拙僧は彼らの自由意思を何より尊重するつもりです。こちらから一方的に思念を読み取る事は致しますまい」

 海豚いるかの顔をした男の言葉に、私はほっとしつつもぞっとした。


 ちっぷを埋め込まれた私の内心や下心もいくらでも読み取れるが、あえて読まないだけの話なのだ。

 無想念であられよと都の賢者に口を酸っぱくして言われたが、ちっぷを入れる事が当たり前の世の中が来るなら、想念や雑念だらけではとても人前に立てそうにもない。

 特に私のような凡夫は、ちっぷの埋め込みが当たり前となった世の中に適応は出来ないだろう。

「フランソワに口を割らせるしか無いな」

「無理強いは褒められたものではありませんぞ」

 海豚いるかの顔をした男にやんわりとたしなめられて引くとむではない。

「行ってくる」

 寝室の扉の隙間を押し開けて、とむは廊下を忍び足で歩き去った。

「どう思う」

 私の短い問いに、海豚いるかの顔をした男も短く答えた。

「賭けですね」

 明り取りの窓から見える月は、昨夜より更にふくよかになっていた。


 『時間軸があいまいに揺らいで存在する中途半端な次元の主宰者』たるきるけえが統べるこの小島から、ハイブリッド型パイケーエス式潜水艦に乗り込んだ所で次元を超える事など出来るのだろうか。

 鏡を使えばきるけえの力が弱まる程度で済むなら、水鏡でも食堂の窓にかけられる覆い布を夜に不意にあけ放つ事でも試してみたいものではあるが。

 明り取りの窓に私の横顔がぼんやりと映り、青白い月の光が私の背骨を氷のように貫いた。

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