三十六 鏡がない

 墓場歩きを数時間続けた私は、ひとたび湯船につかると力が抜けて立つのもやっとの状態になった。

 ひのきの湯船に腕を引っかけたままぼんやりと天井を見るが、小刻みに太ももが震えて膝の関節が悲鳴を上げている。


 私はこんなに体が弱かったか。


 商人として下船して陸路を何里も歩く事など日常茶飯事だったし、小一時間ぐらいは蹲踞そんきょの姿勢を取る事もあった。

 ここに来てから太陽の昇り沈みは五日も無いが、私の体の反応からすれば、何年も怠惰な生活をしているような衰えぶりである。


「旦那さま、お加減はいかがですか」

 湯屋の外からきるけえの声がしたかと思うと、音もなくきるけえが湯船にすべりこんできた。


「随分お疲れではないですか」

 言うや、きるけえは全身を私に絡めつけてきた。

「いきなりどうしたと言うのです。もっと時間を掛けてから、互いの事をゆっくり」

 私の言葉の語尾は、きるけえの唇に吸い取られてしまった。


「わたくしは言葉で思いを伝えるのが不得手なのです」

 私の答えも聞かず、きるけえは再び私の唇をふさいだ。


 それでなくとも妻の顔がきるけえの顔に書き換わるぐらい、私の脳裏はきるけえに侵されていると言うのに、このままではきるけえの手管に今度こそ負けそうだ――。

 私は全身を蛸のように絡めて来るきるけえからのがれようと身じろぎした。


「いっそ、拒むなら冷たく拒んでくださいませ。旦那さまは誰よりお優しく、誰より残酷なお方です」

 いつもの、どこか商売めいたたおやかな口調ではなかった。

 切羽詰まった響きに私はおや、と思った。


「互いの事を分かろうにも、旦那さまは朝早くに館を出られて夜になるまで戻ってこない。戻ってきたかと思えばヤマネコとずっと一緒ですぐ部屋でお休みに」

 私の胸板に顔をうずめたきるけえは、くぐもった声で不平を漏らした。


「分かり合う気などないくせに。いつだって旦那さまはするりとはぐらかすだけ」

 胸板から顔を上げたきるけえと目が合った。

 黒真珠の瞳が涙の膜でにじんでいた。


 ああ、いけない――。

 私はきるけえに乗っ取られまいと、私を見据える黒真珠の瞳から目線をそらした。


「旦那さま、もし旦那さまが永遠とわにこの地におられるのだとしても、わたくしを愛していただくわけにはいかないのですか。妻子とは、永遠に会えないのだとしても忘れる訳にはいかないものなのですか」


 私は、そっときるけえの背に右手を回した。

 劣情からではない。

 父も母も知らず、呪いを掛けられ気の遠くなる年月を独り孤島で暮らしてきたこの妖女に、少しばかりの慈しみを不意に与えたくなってしまったのだ。


「旦那さま――」

 胸板に、きるけえのくぐもった泣き声が響いた。

「私に出来るのは、ここまでです。これでどうか、お許しください」

「旦那さまは、残酷です。どこまでもお優しいのに、わたくしを受け入れてはくださらない」

「あなたが憎いわけではないのです。ただ……」

「イシュタルの呪いさえ無ければ、殿方を獣にしてしまわなければ、旦那さまはわたくしを」

 顔を上げたきるけえの目は、すこしだけ腫れていた。


「もし呪いが無ければ、あなたが私を欲する事はなかったでしょう」

 きるけえはきつくきつく私を抱きしめると、私の両の足をさすって何事かつぶやいた。

 一瞬で足の痛みが消えた私を残して、きるけえは静かに湯屋を後にした。




 魔法のように足の痛みが消えた私は、自分の体を鏡で確認しようとしてある事実を思い起こした。

「そう言えば、この館には鏡がなかった」

 ふらんそわの前で指摘した際に、お気づきになりましたかと小声でつぶやいたのを私は聞き逃していなかった。

「鏡があっては不味い理由があるのか」

 私の頭は久方ぶりに鋭く働き始めた。


 鏡それ自体が無いだけでなく、窓の類もほぼ小さく、半透明の物や模様で彩られて顔全体が映らない物が殆どだ。

 例外と言えば中庭に面した大広間の窓と、私のいる寝室の明り取り窓ぐらいだ。

 しかし大広間の窓は日が暮れると布で覆われるし、明り取りの窓は全身を映すには細すぎる。


 きるけえは毎日趣向を凝らした衣服を着ているのだから、その衣服を仕立てる際には鏡を使っているはずだ。

 工場の紡績棟に行けば鏡はあるのだろうか。

 しかし女が鏡を見ずに、どうして毎朝髪を結う事も出来ようか。

 いびつな愛情なれど男を愛している女が、自分の容貌に無頓着でいられるものだろうか――。


「きるけえは囚われの男に鏡を使われたくないのだ」

 私ははやる気持ちで湯船から飛び出した。


 いても立ってもいられなくなった私は、体をぬぐうのもそこそこに寝室のとむの元へと走った。

「眠いんだよ」

 体をゆさゆさと揺さぶると、とむは明らかに不機嫌な声を上げて寝台から飛び降りた。

「なあ、もしかしたら皆人間に戻れるかもしれない」

「何だって?」

 とむがぴくりと耳をひくつかせた。


「鏡だ。この館には鏡がない」

「それがどうしたんだよ」

「だからな。ふらんそわに鏡がないって言ったら小声で『お気づきになられましたか』ってぼそっとつぶやいたんだ」

「ならフランソワに話を聞くのが先だぜ」

 私が扉を開けると、とむは太ましい脚で廊下を蹴って一階へと駆け下りた。




「おい、フランソワ。話があるんだちょっと顔貸せよ」

 食堂前の廊下で、とむがきるけえのそばにいるふらんそわに声を掛けた。


「なあ、獣体同士の会話はきるけえには聞こえないのか」

 私の想念は筒抜けらしいのに、あっけらかんとふらんそわを呼ぶとむの姿に私は思わず問いかけた。

「人体と発語形態自体が違うからな」

 怪訝そうな表情を隠すことなく食堂の外に出てきたふらんそわに、とむは開口一番に尋ねた。


「なあ、鏡の秘密を知ってるんだろ」

「鏡の秘密?」

 ふらんそわは何を言っているのか心底分からない様子で、困惑したように私ととむを交互に見た。


「ニヘイさんが鏡がない事に気が付いた時、何て言ったよ」

 とむはガラの悪そうなうなり声で、態勢を低くした。

 これではまるで喧嘩か素浪人の言いがかりだ。


「とむ、もう少し順を追って話した方が」

「ニヘイさんは黙って飯でも食って来いよ」

 すっかり気が立っているらしいとむに食堂に追いやられると、きるけえがにこやかに私を出迎えた。




「ご飯は良いのかしら」

 二頭の獣をきるけえは心配げに見やった。

「腹が空けば食べに来るでしょう」

 彼らの会話に水を差されては困るので、私はさっさと席についた。


 今日は随分と変わった料理だった。箸すら無い。

「いつもの賄いさんの代わりに、工場の賄いさんが作ったのです」

 工場の賄いさんがが光沢のある深い大皿を運んできた。


 勧進相撲かんじんずもうに出てくる全身が弾力に満ちた球のような大男で、見たことも無い極彩色の鳥の顔が特徴的だ。

 どんと音を立てて置かれた皿の中には赤色の変わり飯が一杯に盛られていた。


「この館に詰めている方以外は工場辺りに住んでおられるのですか」

「ええ。旦那さまが通われている工場の奥に、皆さまの住まいがあるのです」

 給金はいくらかと聞きかけて、きるけえは暮らしを立てると言う言葉の意味も知らなかったぐらいだからただ働きなのだろうと思い直す。

 給金をもらった所で娯楽も金の使い所もないのだから、金はこの島においては何の意味も成さないのではあるが。




「あら、ご飯にしましょうか」

 重大な話を終えて食堂に入ってきたふらんそわととむを見て、きるけえはぽんと手を叩く。

 猫の耳を持つ給仕は慣れたもので、きるけえの足元にふらんそわの飯を、暖炉の前にとむの飯を置いて立ち去った。

「食うか」

 とむに蒸した里芋とほぐした魚を持っていく。

「ありがとよ」

 とむは大きな牙を見せながらうまそうに食いつき始めた。


「こちらは香草の風味が強いですからお気に召されるか」

 光沢のある深い銀器に盛られた赤色の変わり飯は、きるけえの呪いの薬草でも入っているのではないかと言うほど強い芳香を放っていた。


 給仕が平たい皿に取り分けたそれを私は恐る恐る口に入れた。

 きるけえが初日に出した粥以上に表現のしようもない味だった。

 舌がわずかに痺れてきた。

 

 自身の皿を空にしたとむが物欲しそうな目で赤色の変わり飯をじっと見ていた。

「これが好きなのよね」

 きるけえは赤色の変わり飯の上に置かれた鶏の直火焼きを指さした。

「これはとむの体には良くないだろ」

「俺は人間だって言ってるだろ」

 とむが不服そうに唸るので、私は赤色の変わり飯に鶏の直火焼きを片手一杯分取り分けてとむにやった。


「この旨さが分からないとは人生半分損してるぜ」

 人生半分どころかもはやちっぷとやらを入れられて改造人間化しつつある私は、損も何もあったものではない。

 きるけえは赤色の変わり飯に困惑する私を見かねたのか、猫の給仕を呼んだ。

 私用に、蒸した里芋と味噌だれが置かれた。


「変わり飯の大皿を見ろ」

 里芋をつついていた私は、不意にとむの声を拾った。

 はっとした私と、ふらんそわが一声吠えて立ち上がったのはほぼ同時だった。


「どうしたの」

 立ち上がったふらんそわにしがみつかれたきるけえは、子供をあやすようにその背を撫でた。

 猫の耳を持つ給仕はまだ飯を終えていないと言うのに、そそくさと変わり飯の大皿を下げる。

 確かに、銀製の大皿は鏡ほどではないが周囲を映し出していた。


 私は自分の仮説が正しい事を確信した。

 しかしこのまま頭を働かせれば、きるけえに私の考えが丸分かりになってしまう。

「ごちそうさまでした」

 私はそれだけ言うと、駄々っ子のようにしがみつくふらんそわをあやすきるけえをそのままにしてそそくさと部屋を出た。




「あの野郎邪魔しやがった」

 寝室に入るなりとむが忌々し気に毒づいた。

「ふらんそわの事か」

「それ以外に誰がいるんだっての。今すぐ海豚いるかの坊さんに連絡を取れよ」

 とむは片目を閉じて私に提案した。


「どうやって」

 私は真っ暗な中工場まで行き来すればきるけえに怪しまれると思い、気が乗らなかった。

「チップが入ってるだろ。呼べよ、坊さんをよ」

 ちっぷがあれば何でも出来ると誤解しているんじゃないのかとうんざりしている私の背後から、不意に聞きなれた声がした。

「お呼びになりましたね」

 空中であぐらをかいた状態で、海豚いるかの顔をした男が漂っていた。

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