三十三 潜水艦に不食の男と二人きり

 幽鬼のように歩きセミの抜け殻の如く立ち尽くす訓練だけでもうんざりだと言うのに、海豚いるかの顔をした男は更に私をげんなりさせる事を言い始めた。

「欲を言いますれば絶食して頂きたい所ではありますが」

 絶食などとんでもない。

 あんたのようにに空気中の水分やらで生きる方がどうかしているのだ――。

 私の心の中での反駁はんばくは、即座に海豚いるかの顔をした男に伝わった。


「絶食すればしたで、キルケの機嫌を損ねてしまいますからな。あれには母のような気性もあるがゆえ、子のように世話を焼かせてやるだけでも、少しは恋情餓鬼の苦しみを取り去る助けにはなるのです」

 海豚いるかの顔をした男は、つるんとした頬を撫でながら言った。


「確かに世話焼きな性質だなとは思ったが。世話をされるのは行きがかり上避けられぬのは分かっているが、出された食事に媚薬や毒を入れてはおらぬだろうか」

「毒はさておき、媚薬は間違いなく入れられていますな。媚薬だけでなくまじないの類も。二瓶ニヘイ様の髪の毛も下の毛も、当然まじないには使われていますでしょう」

 何となく分かっていた事ではあったが、改めて指摘されると身の毛のよだつ思いであった。


「昨日もカメムシの煎ったような匂いのする粉とマムシ酒を合わせたものを、私のとろろ汁に入れようとした」

「ああ、それはただの強壮剤です。操心目的ではありませんからご安心を」

 それでなくとも私は獣になるかならないかの戦いを繰り広げているのだ。

 強壮剤など飲まされたら、安心どころの騒ぎではない。

 海豚いるかの顔をした男は浮世離れしているのか、私のような凡夫の苦悩に共感が薄いようだった。


「私がきるけえの誘いをすり抜けるのを、精が弱いからだとでも思っているのだろうか」

「そうかもしれません。二瓶様は今の所通常の男達よりもキルケの誘いに対して淡泊に振舞っておられる」

 キルケの誘いに応じれば獣になると聞かされて育ち、伝承通り島には獣と獣面人身の男しかいない。

 そんな光景を見れば誰でも全力でキルケの誘いから逃れようとするものだと思ったのだが、そうでない男の方が多いのかと私は意外に思った。


「人は誘惑に弱い生き物です。いざ実際に妖女キルケに誘われれば、後先も無くその体を貪るのが男のさがでしょう。特に血気盛んな若者には抗いがたい誘惑です。若者だけではありません。女にすっかり縁遠くなったおきなも、これが最後と勇んであの体にセミのようにしがみつく」

「ではきるけえは見た目や年齢に関係無く、本当にどんな男相手にも焦がれてしまうのか」

「誠にいたわしい事ではありますが、先の短い翁にとってはキルケは天女のようなものでありましょう」

 海豚いるかの顔をした男は静かにうなずいた。

 その言葉に、疑問がわいた。


「ぶしつけな事を伺うが、あなたのように獣面人身になれば肉欲を失うのだろうか」

「拙僧は人間であった時分から肉欲から離れる事が出来た身ですから」

 空気から栄養を取り肉欲を必要としない存在は、もはや人間と呼んで良いやら分らぬ。

 海豚いるかの顔をした男は、通常の獣面人身存在の参考にはなりそうもなかった。




「さて、的確な想念のみを明確に思い浮かべられるようにして参りましょう。チップが入っているのですから、すぐに念動力回路を使いこなせるようになりましょう」

 言うや、海豚の顔をした男は逆立ちになったまま腕を組んで船室に浮かんだ。


二瓶ニヘイ様はこの立位から始めましょう」

 きんと側頭部に熱が伝わると、私は浄瑠璃じょうるり人形のように操られた。

 私は船室の端でくすのきの大木にしがみつくセミのように膝をゆるく曲げたまま、身じろぎもせず息を潜めた。

 まるでこれではきるけえの裸体にしがみつく翁のようだとぼんやりと思ったら、湯屋できるけえに飲み込まれた部分に血液が集中していくのを感じた。


 妖女きるけえの誘惑に耐えながら人として暮らしているこの島での日々は、元の世界での生活の何日分にあたるのだろう。

 私も食欲と肉欲を必要としない存在になったらどうしようかと思うと身震いが走る。


 きるけえの背中を抱くように前方に投げ出した腕が自重に震えても、緩く曲げられた膝の関節がきしみ始めても、操られた私の体は意に反して同じ姿勢を取り続けた。

 いつしか出口を求めて悲鳴を上げていた私の下腹部も、呼吸と同じく静まり返っていった。

 逆立ちしたまま空に浮かぶ海豚いるかの顔をした男と虚空を抱く私は、ハイブリッド型パイケーエス式潜水艦初号機に密閉されていた。


法主ほっす様、二瓶にへい様の昼食をお持ちいたしました』

 脳内にかすみがかかったようにふらんそわの声が響いてくると同時に、私を操る目に見えない糸が切れた。

 私は自らの重みで床にくずおれた。


「悪いことは言わぬ。鍛えなされ」

 あきれたように一言告げると、海豚いるかの顔をした男は船室を出て階段を上った。

二瓶にへい様、扉を開けられませ」

 扉を開けると念じると、音もなく扉が開いた。

 ああ、面倒だ――。

 これなら手で操舵した方がずっと楽だろうと改めてげんなりとしながら、私はハイブリッド型パイケーエス式潜水艦初号機を下船した。

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