三十一 天草の南蛮画

 口づけの先をせがむきるけえを制したとむへの返礼とばかりに、寝台をとむの好きに使わせた私は小さくなって一晩を過ごした。

 細い窓から朝日が差し込む頃には、とむは大きな伸びをして私の腹にのしかかった。


「起きろよ。腹減った」

 オオヤマネコだと言うのに、昼行性ちゅうこうせいだか夜行性やこうせいだか判然はんぜんとしない。

 四六時中寝ているのか起きているのか分からないが、寝ているように見えて水神の話を聞いていたようだから、傍目はためからは判断できないだけなのだろう。




 リンゴ酒の香りのする口づけをした後だけに、きるけえと顔を合わせるのが気まずくはある。

 だが館の客人である以上、こっそりと館を抜け出すのもぶしつけだ。


 私は大きく息を吸ってふらんそわに教わった通り目を上下に回し、水筒すいとうの水を飲んだ。

「ひでえ面だなオイ」

 毛むくじゃらの顔をゆがめて笑うとむに言われる筋合いはない。

 私は憮然ぶぜんとしながら、きるけえの衣服の色を予測して伝えた。


「昼飯の具は」

「きるけえの故郷の軽食」

「大穴狙いかよ、当たっても一シリングにもなりゃしねえ」

「しりんぐとは、とむの故郷の金の単位か」

「ああ、安酒を引っかけるにちょうどいい金額だな」

 とむは、じんとにっくが飲みてえなと言いながら部屋を出て行った。





「あんたの予想が当たってやがる。やっぱり坊さんのチップはすげえや」

 とむが大広間に入るなり、低い声を出した。

 晴れ渡った天草あまくさの海のような水色の上下を着たきるけえは、食堂の大きな窓の前で横たわるふらんそわの毛並みをいている所だった。


 開け放たれた窓から、朝特有の清々しい空気が流れ込む。

 ふらんそわの黄金色の毛並みは朝日に照らされて、部屋中に金色の粒子のようにきらめく。


 私はこの完全なる調和に満たされた空間を汚すのが忍びなく、そっと音を立てぬように館を後にした。





「人と人としては互いを愛で満たせなかったのに、人とけものになってから互いを愛する事になるとはこくな話だな」

 庭から二人の姿を見やりつつ、私は天草あまくさのせみなりよで見た南蛮画なんばんがに思いを馳せた。


 陽だまりの中できるけえに身を預けて目を閉じているふらんそわと、静謐せいひつな表情でその黄金色の毛並みをくきるけえの姿は、あの南蛮画なんばんがそのものであった。


「あれと同じ構図の絵をな、せみなりよで見たことがある」

「セミナリヨ?」

 とむはがっしりとした四肢ししの歩みを止めて、私を見上げた。


「今ではすっかり御法度ごはっとになってしまったが、私がまだ父の見習いをしていた時分にせみなりよが天草あまくさにあったのだ。そこには幼子を膝に抱く聖母様の絵が掛かっていた。宣教師せんきょうしの話は全く理解出来なかったが、あの南蛮画なんばんがは良く覚えている」


 人の姿をしたとむとも少し違う姿形の宣教師せんきょし達の説法は、私の心を動かさなかった。

 だが、幼子を膝に抱く聖母の絵は、信仰の差を超えた尊き存在の象徴だと年若き私は深い感銘を受けたのだ。

 よもやその南蛮画を見たのと同じ感銘を、きるけえの姿から受けることになるとは――。

 私は再び深く心を揺さぶられていた。


「そりゃ俺とふらんそわの神様の一人子と聖母様の絵だ。ニヘイさんの所ではせみなりよと呼ばれているのか」


「信者の事をきりしたんと呼び、その学校をせみなりよと呼んでいたのだ。天草あまくさの他にも伏見ふしみ有馬ありまにもせみなりよはあったのだが、父は交易こうえきのために天草あまくさに行っていた」


「今じゃ御法度ごはっとになっているって事は、きりしたんはニヘイさんの住む土地から居なくなっちまったって事か」

 私は黙ってうなずいた。


 霧のように消えたわけではない。意思いしを持って抹消まっしょうされたのだ。

 きりしたんだけではない。

 伊勢長島いせながしま一向一揆衆いっこういっきしゅう比叡山ひえいざんの僧兵も消されたのだ。




 あの絵のように、陽だまりに包まれるふらんそわときるけえのように、穏やかに満ち足りて暮らしたいと祈りを抱いて人は生きる。

 そのつつましい祈りを捧げる人々が集合体としてたばねられ、破壊と絶望の呼び水となる。


 伊勢長島いせながしま比叡山ひえいざん。そして遠からず天草あまくさも同じ道をたどるであろう――。


 都の貴族の館や大寺院に出入りしていた私は、きりしたんが御法度ごはっとになるに至った事情を断片的ながらに聞いていた。

 その真偽はともかく、土佐から入った一報は宣教師せんきょうしの活動を不快に思っていた一派にとって絶好の機会となるだろうとは思ったものだった。


 同時に、例え土佐からの報告内容が事実だとしても、あの絵の本質は何ら揺らがないと今でも確信している。

 あれは愛そのものだ。

 きるけえは最初から愛と共にある。愛はきるけえの中にある。

 それを、呪いによって忘れているだけなのだ。


「ここから脱出して、もしニヘイさんが元の世界に戻れなかったとしてもよ」

「縁起でもないことを言うなよ」

 不服そうな私に構わず、とむは続けた。


「ニヘイさんが見た絵を、嫁さん子供に仲間皆でワインやエール片手に見物できるような世界にたどり着いてくれや」

「ぐろっぐやじんではなく」

 とむが飲んでいたと言う酒の名を挙げると、とむはふわっと吐き捨てるように大きなあくびを一つした。


「ありゃ貧乏人用の安酒だ。俺だって出来ることならお偉いさんみたいにワインやエールが飲みたかったさ」

 酒に弱い私はそんな物なのかと思いつつ、松林の先に見える海岸線に目を向けた。


「さて、今日は潜水艦せんすいかんに案内するぜ。ニヘイさんが見たことのない船なのは分かっているが、訓練と同期さえ出来れば思った通りに動くからかえって気楽なもんさ」

「その訓練と同期が問題なんじゃないか」

「そのためにチタン製のチップを全身に入れたんだろ。安心しろっての」

 土を思い切りよく一蹴りすると、トムは松林を全速力で駆け去った。

「全身だって」

 私は自分がどのように改造されたのかを良く分かっていない事に、改めてぞっとした。

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