三十 リンゴ酒はいかが

 いしゅたるに散々にもてあそばれたとむは、一目散にヒノキの湯船に飛び込んだ。

「猫は水が苦手ではないのか」

「俺は人間だ」

 湯船から頭だけを出すと、とむは不服そうに私をねめつけた。


「元は人間だったにせよ、今じゃいつも丸くなって寝てばかりじゃないか」

「そりゃ体がオオヤマネコなんだから仕方ないだろ」

「だから、オオヤマネコの体だと水に拒否感はないのか」

 私の問いに、とむはううむと空を見上げた。


「確かにオオヤマネコの体になってからは湯を使う機会は激減したが、あんな腐れババアに毛皮を汚されたままにしておくのはもっての外だな」

「それにしても随分といしゅたるを嫌っているのだな。ふらんそわもいしゅたるを嫌っているのだろう」

 とむは前足を湯船の淵に掛けたまま、ふいっと顔を背けた。


「俺たちがこんな目にあっているのも、あの腐れババアがくそったれ女に妙な呪いを掛けたのが始まりだろ。あれが神だなんて俺は絶対に認ねねえ」


「水神様の話からすれば、いしゅたるがきるけえを恨んでも不思議ではないが。そもそも神が男を奪われて嫉妬しっとに狂うと言うのも、あまりに人間臭すぎて信じがたいが」

 とむがどける気配が一切ないので、私は仕方なく身をすくませながら湯船に入った。


「狙った男に手ひどく振られた挙句に、下僕げぼくだと思っていた女に寝取られたんじゃ収まりがつかねえのは確かだ。男を取られて悔しいのと、格下の女に負けた悔しさとどっちが大きいのかは知らんが」

 とむの言葉に私は大きくうなずいた。


「神が人に負けるなどありえないと、いしゅたるならば思うだろうな」

「俺はあれを神だと認める気は一切ないがな。あんなふぁっくんびやっちが神だと言うなら、この世界は無限に終わらないさばとそのものだ」

「さばとって何だ」

 湯船から音を立てて出たとむに私は問いかけた。


「いかれトンチキババア共の気持ち悪い集会だよ。そうだな、百鬼夜行ひゃっきやこうって言うのか、いやちょっと違うか。赤子あかごを食らいながら、しなびた乳をぶら下げて裸で踊りまわるおぞましいアレだ」

「そりゃご免被めんこうむる」

 うんざりとした顔の私に、とむは勢いよく水気をぶるぶると飛ばした。


「長湯してるとくそったれ女が来るぜ。それで良いなら邪魔する気はないがな」

「良くないに決まってるだろ。獣になるなんぞまっぴらだ」

 私はとむの後を追って湯屋を出た。




「夕食に致しましょう」

 乳鉢にゅうばちからカメムシをったような匂いを漂わせながら、きるけえが私に向かってにっこりと微笑んだ。

 さすがのふらんそわもこの匂いは苦手らしく、珍しくきるけえから離れた部屋の隅でじっと伏せている。


 きるけえは薬棚からマムシが漬け込まれた小瓶を取り出すと、乳鉢に数滴たらして良くねていた。

 頼むからその乳鉢の中身を私の味噌汁に忍び込ませないでくれと願いつつ、私は広々とした食卓に着いた。


「本日は少し趣向を変えてみました。慣れぬ暮らしでお疲れでしょうから」

「とろろ飯とは珍しい」

「しろばち山のふもとに自然薯じねんじょが生えているのです。気が向かれましたら案内致しますわ」

 きるけえは自分のとろろ飯に乳鉢の中身をぶちまけると、私にも勧めてきた。


「いえ、私はこのままで」

「そうですか。精が付きますのに」

 いやそれは困ると思いながら、私は無心でとろろ飯を掻き込んだ。


 味噌汁の具も変わり種だ。

牡蠣かきにニラですか。初めて食べましたが合いますな」

「ちょうど岩場の牡蠣が食べ頃でしたから、ぜひ旦那さまに初物をと思いまして」

「それは有難い」

 味噌汁と言うよりは牡蠣かきの味噌煮に近いそれを平らげると、自然と私の心がほぐれてきた。


「お茶をどうぞ」

 にっこりと告げるきるけえに――妻ときるけえは全く似ていない筈なのに――私は妻の面影を見た。

「痛っ」

 足元で鶏肉とたわむれていたとむが、私の足の甲を叩いた。

 

 



「ごちそうさまでした。とても美味しかった」

「旦那さまはお酒はたしなまれないのですね」

 食卓を立つ私に、きるけえが寄り添った。

 気が緩んでしまうのを警戒しているだけでなく、元々あまり酒を飲むたちではない。

 たまに飲みたくなったとしても、銚子ちょうし一杯がせいぜいだ。


「余り得意とは言えませんので」

「あら残念。暖かいりんご酒でもいかがかと思いましたのに」

 いつの間に用意させたのか、きるけえは芳香を放つ琥珀こはく色の酒を手にしていた。


「お気持ちだけで」

 私が言い終わらぬうちに、リンゴ酒の香りが口一杯に広がった。

「良い口当たりでしょう」

 口移しでリンゴ酒を私に飲ませたきるけえは、血色を増した唇を半開きにしていた。

 再度の口づけを強請ねだられているのは明白だった。


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