二十五 二つの世界

 海の中で目を開けるのは、風呂や洗顔時に目を開けるよりも数段難しい。

 潮と砂で痛む目をごろごろさせながらとむを見やると、浜昼顔の上で大あくびをしているだけだった。


 一見しただけでは遠浅の穏やかに見える海岸だが、水深は岸近くでも存外深い事を痛感したので恐る恐る顔をつける。

 寄せては返す波が断続的に顔を殴るので、余計に目が開けられず水を飲みそうになって私はむせた。


 耳に入った水を掻き出すように首を左右に振っていると、きんとした耳鳴り音と共に側頭部に酷いしびれが起こった。

「きえええええっ」

 私は海豚いるかの顔をした男のような声を上げると、ふらふらと浜昼顔の群生へと足を向けた。




 浜昼顔の群生を通り過ぎて低湿地の方角へ幽鬼のように歩いていくと、海豚いるかの顔をした男が竹とんぼのようなあんてなを手に近づいてくるのが見えた。

 無表情のまま早口で呪文を唱えると、海豚いるかの顔をした男は私の額にあんてなを突き刺した。


「きええっ?」

 顔を近づけられて目と目が至近距離で合うと、私の意識は急速に海豚いるかの顔をした男と一体化していった。


『昨日の荒療治が効いたようですな。これなら念動力回路の開発も進められそうです』

『まだまだ海中で目も開けられないヒヨッコだぞ。良いのか』

『急がなければならない理由が出来まして』

 とむと海豚いるかの顔をした男が私の脳内で会話をしはじめた。


『昨日の地震で大きな次元のひずみが生じて、一時的にこの島のキルケが元々居た世界に戻ったのです』

『では地震の事を知らなかったきるけえは、元々居た世界のきるけえなのか』

 私の問いに海豚いるかの顔をした男は否と告げた。


『一時的に元々居た世界に戻った時にキルケは意識を失い、この世界にあるのはキルケだと他者から認識されている物質存在のみでした』

 元が高僧だか何だか知らないが、ややこしい物言いをする男だと私は辟易へきえきした。


『キルケの意識体がこちらの世界から元々いた世界に戻る際に大きな次元のひずみが生じました。ゆえにキルケの意識体は、地震を認知出来ていないのです』

『それと急がなけりゃならない理由に関係があるのか』

『大いにあります』

 私は海豚いるかの顔をした男の言葉の続きを待った。


『次元のひずみが生じる時に、出入り口であるタコつぼ渦を通って男達が海岸に打ち上げられます。ですがキルケ自身がここから別の空間次元に出る事は無かった。それが私が知る限り初めて起こってしまった。これが意味するものは』

 私はごくりと唾を飲んだ。


『この島とキルケが元々居た島が次元のひずみによって繋がってしまえば、我々が二瓶にへい様をここから脱出させたとしても、元々いた世界のキルケの元に飛ばされるだけの結末が生じる可能性がありまして』

『ふぁっくんしっと』

 とむが故郷の言葉を吐き捨てるようにつぶやいた。


『下手をすれば、こちらの島のきるけえともう一つの世界のきるけえの間を永遠に行ったり来たりする事になりましょう』

『一度次元のひずみが開いてしまえば、二つの世界は繋がりやすくなる一方なのか』

『恐らくは』

 海豚いるかの顔をした男が、平板な声色のまま残酷な予測を告げた。


『では私は何をすれば良い』 

 額にあんてなを刺した私は、すがるように海豚いるかの顔をした男に尋ねた。

『肉体に負担が掛かるのは承知の上ですが、まずはアンテナの増設を。それからハイブリッド型パイケーエス式潜水艦に乗船して頂く必要があります』


『まだ進水はさせないんだろ』

 とむが念押しのように確認した。

『自動操縦システムと念動力回路系統の同期が出来ないことには』

 海豚いるかの顔をした男の回答に、とむは苛立ったように足元の砂を引っ掻いた。


『人体はつくづく退化した機能が多すぎていけねえや。人間の中に紛れても目立たない獣面の人身にでもなったらどうだ』

「無理だ。まっぴらごめんだ。それならあんてなとやらを何本刺されても耐えるから」

 思わず叫ぶように声を荒げた私に、海豚いるかの顔をした男は我が意を得たりと言わんがばかりにうなずいた。


『その覚悟がおありなら話は早い。こちらへ』

 海豚いるかの顔をした男はずんずんと歩を進め、私たちは海岸から少し工場側に入った岩場の影へと連れていかれた。


 岩場の奥には大きな鉄の扉があり、三角の印を押すと扉が開いた。

 私たちをすっぽり包んでなお余りある巨大な箱が下に動き始め、一呼吸する間に再び扉が開いた。

『どうぞこちらに』

 私の側頭部が再び激しく揺れ、操られるように固そうな寝台に横たえられた。




 海豚いるかの顔をした男は、天井から私を照らしつける太陽のようにまぶしく光る物体を背にして、液体が入った透明な筒状の物体を手にしている。


『何をする気だ』

『今つけておられるアンテナよりも高性能で負担の少ないチタン製のチップを、体内数か所に注入します』

 ちたんやらちっぷやら訳のわからない言葉ばかりだ。

 私は不安になって、海豚いるかの顔をした男を幼子のように見た。


『あなたの意志次第です。獣になるか。脱出するか』

 私は観念して海豚いるかの顔をした男に全てを委ねた。

 側頭部にあんてなを刺したような痛みが一瞬走り、私は気を失った。


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