二十四 あなたは誰
日暮れの地震は一度きりだったようだ。
いつの間にかとむと一緒に丸くなっていた私が目を覚ました頃には、寝台が朝日に照らされていた。
「とむ、朝だ起きろ」
とむは耳をぴくりと一度だけ動かすと、私の声など聞こえぬ様子で丸まったままだった。
「先に行くから」
身づくろいを済ませると、私は水を一口飲んで解呪の呪文を三回唱えた。
「握り飯の具は梅と昆布、服の色は薄緑と白」
訓練の一環である昼食の握り飯の具と、きるけえが着ている服の色をあてずっぽうで予想した。
とむは面倒くさそうに大きく口を開けながら伸びをすると、のそりと寝台から床に降りて私を階下へと先導した。
「昨晩は大変失礼を致しました。夕食の用意もできず申し訳ありません」
きるけえの服は上身頃は体にぴったりと添いつつも、腰から下はりんどうの花のような仕立てで若草色だった。
首元をすっかり隠すような変わり
中々良い滑り出しだ。
とむをちらりと見るが、とむは寝そべっているばかりだった。
「お怪我が無かったようで安心しました」
「怪我?」
私の言葉にきるけえは怪訝そうな顔をした。
「ええ。昨日の日暮れに湯屋でひどい地震がありましたでしょう。怪我をされてはおらぬかと。あなたも湯屋におられたではありませんか」
「いえ、私は昨日湯屋には足を運んでおりませんがはて」
手に乳鉢をもったまま、きるけえはきょとんとした顔で私を見つめた。
「いやいや、昨日地震がありました時にあなたは確かに」
「昨日の日暮れ頃は、中庭で黄りんどうの花を陰干ししておりました」
きるけえは乳鉢を食卓に置くと、困惑したようにため息をついた。
「その後から記憶が途切れているのです。目が覚めた時にはもう朝でして。旦那さまに夕食もお出しできず申し訳ありません」
「いえいえ私は朝まで寝入っておりましたので全くお気遣いなく。それよりも、本当に湯屋で私と一緒に湯を使った覚えが無いのですか」
私の脳裏に、きるけえは次元のひずみを生み出す存在だと言うとむの説明が思い浮かんだ。
もしあの地震が次元のひずみの現れなのだとしたら、今目の前にいるきるけえは何者だ。
昨日日暮れの湯屋にいたきるけえと、目の前で困惑したように私を見つめているきるけえは別次元の存在なのだろうか。
それとも、単純にあまりの衝撃に気を失っただけなのか。
「本当に、何も覚えておられないのですね」
私の言葉に、きるけえは悲しげに首を縦に振った。
「朝食にしましょう」
諦念交じりの微笑を浮かべると、きるけえはぽんと手を一たたきした。
今日もまた軟らかめに炊かれた白米が出された。
実山椒と干しわかめ、里芋の味噌汁にカレイの干物とこれまた私の好物が並んでいた。
私の嗜好は完全に読まれているのだと改めて思わされる。
カレイの干物をとむがじっと見ていたので、骨を避けてほぐした身をとむ用の餌皿に入れた。
とむはふんふんと鼻を近づけて、鋭い牙を見せながら旨そうに咀嚼していた。
黄金色の毛並みの犬は一足早く食事を終えていたようで、干しイチジクを茶請けにするきるけえの足元に伏していた。
「では行ってまいります」
「お気をつけて。昼食はこの子に持たせます」
きるけえは玄関で私に頬を寄せ、ほっそりした腕を私の腰に当てがった。
私はさりげなく身を離しながら一礼すると、とむと連れ立って工場の方角へと向かった。
工場が左手方向に見えてきたあたりで、とむは海岸方面へ曲がった。
「工場に顔を出さなくていいのか」
私の声に応じることもなく、とむはずんずんとなだらかな傾斜を降りていく。
見慣れた猫の柄に似つつも、虎のようにがっしりとした四肢で砂地を掴んで走り始めたとむに、私は全く追いつくことが出来なかった。
昨日とは打って変わっていかにも雨が降り出しそうな鼠色の空だったが、日差しが無い分却って過ごしやすい。
砂を存分に浴びてはしゃぐとむと対照的に、とむを追いかけて砂地を走った私は訓練前からすっかりへとへとになってしまった。
浜昼顔を布団代わりにして崩れ落ちた私をあざ笑うかのように、砂まみれのとむがじゃれつく。
「重い、どいてくれ」
猫の顔だが体つきは虎のようにがっしりしているので、とむが腹に乗ってきて思わず胃の中のものを吐き出しそうになった。
私はもんどりを打ちながら、とむから体をよじって逃げた。
とむは暴れたりないようで、波打ち際に駆け寄って水面をばしゃばしゃと叩いていた。
ひとしきり波と格闘し飽きたのか、とむは浜昼顔の上で寝そべる私の隣に腰を下ろすと丸くなった。
「まずは海の中で目を開ける練習からだな」
私の問いにしっぽを一振りして地面にたたきつけると、とむは面倒くさそうにあくびをして再び丸くなった。
どうやら肯定の意を示す時は、しっぽを一振りして地面をたたきつけているらしい。
私は衣服を脱いで浜昼顔の群生脇の岩場に置くと、波打ち際へと歩を進めた。
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