二十三 揺れる湯船(R12)

 

 きるけえに飲み込まれた部分から大蛇の毒が回ってくるように、私の全身が朦朧もうろうとしてきた。

 脱力した全身を支えきれず床に崩れ落ちそうになる私の臀部でんぶを、きるけえが両腕で支える。

 細い腕のどこから力がみなぎってくるのか分らぬが、きるけえは難なく私を湯船へと導いた。


「このような傷を作ってまで、旦那さまは何をされておられたのです」

 知っているくせに――。

 私はもうろうとしつつも毒づいた。

「お話してくださらないのですね」

 頭を円を描くように揉みほぐしていく。

 とむが言っていたように何かの呪文を書いているのかもしれない。

 だが私はその手を止める事が出来ず、ぼんやりと口を開けたまま呼吸をしていた。


「旦那さまは本当に意地悪な方です。お優しい態度のくせに、心を決して開いて下さらないのですね」

 すねたような口調で、きるけえは私の左手をその心臓へと導いた。

「あなたの傍にいるだけで、私の心はこんなにも跳ね上がりますのに」

 つきたての丸餅のような左胸の直下で、鼓動が一定の拍動を刻んでいるのが伝わった。

 きるけえは妖女かもしれないが、確かに私と同じ生の鼓動を刻む存在であった。


「私の心を聞いてくださいな。あなたを求めて、私の心は飛び跳ねているのです」

 否応もなく、私の頭は窒息しそうなほどきつく両の胸の間に押し付けられた。

 その肌からは、かすかな野の花の香りがした。

 私は下腹部から湧き上がる衝動と闘うので精一杯だった。


「あなたの心の臓はまるで氷のよう」

 私の頭を解放したきるけえは、その右手を私の左胸に伸ばして胸筋を円を描くように手のひらで何度も撫でまわした。

「私と同じ時を刻んでくださいな」

 言葉と同時に、私の拍動がきるけえの拍動と同期するのが分かった。

 不味い――。

 もうろうとした私の頭に警鐘が鳴った。


 私は解呪の呪文を暗唱しながら、きるけえが私の心臓にあてがった手のひらをゆるりと取った。

「本当に氷のようなお方」

 立ち上がった私の腰に手を回すと、きるけえは臀部に負った傷を五本の指で確かめた。

 痛みに交じって、得も言えぬしびれが襲ってきた。


「船の出来は順調そうですか」

 聞いているくせに答えは要らないらしい。

 きるけえの手の動きに比例して、私の脳は本能に占領されていく。

 私はだらしなく口を開けたまま、なすすべもなく私自身をきるけえに預けた。

 このまま獣になっても構わない、そう思った瞬間の事だった。


「ああっ」

 不意にきるけえが高い声を上げたかと思うと、私は浴槽の淵から転がり落ちて床にしたたか背を打ち付けた。

 湯船がゆさゆさと揺れ、ひのきの腰掛台が海岸側へと滑って行った。

 地震だ。

 湯屋の扉の隙間を黄金色の毛並みの犬が鼻先を突っ込んでこじ開けた。

 彼はとっさにきるけえをかばう様にその体を覆った。

「とむっ」

 続いて駆け込んできたとむは私のふくらはぎを尻尾でぴしゃりと張った。

 とむはうずくまるきるけえを侮蔑の視線も露わに見下すと、湯屋の外へと歩き去った。

 私は夜着に着替えると、断続的に続く揺れに足をとられつつもとむの後を着いていった。


 とむはちっと舌打ちしそうな勢いで、ずんずんと寝室に向かった。

 俺の寝台だと言わんばかりに寝台の真ん中に寝そべると、所在なく立ち尽くす私に座れと言うように前足で寝台を二度叩いた。

「どこに行ってたんだ。地震が起こらなければ獣に転じる所だった」

 不服気に私がとむに告げると、とむは牙をむき出しに大あくびをして私の額に前足を掛けた。


 私は海岸に打ち上げられた時と同様に、棺桶の中に横たえられたように寝そべった。

 とむは私の額に前足を置いた。

『聞こえてるみたいだな。あんた良く見破ったな』

『何をだ』

 私の無言の声をとむはしっかりと拾っているようだ。


『あのくそったれ女と心臓の拍動を合わせると術に掛かりやすくなる。拍動もそうだし呼吸もそうだ。あんた昨晩呼吸を合わせられたのに気が付いただろう』

『ああ、そのまま寝てしまったがな』


『それであんたと拍動までも合わせられた事までには、昨晩のあんたは気づいてなかった。あんたが解呪の呪文と水を飲んでいたからどうにかやり過ごせただけで、かなり危ない状況だったんだからな』


『そうか。だとしたら起こすか止めるかしてくれ』

『知るかよ』

 ふてくされたように吐き捨てると、とむは私の額から前足を避けて丸くなって寝息を立て始めた。


 オオヤマネコと猫はやはり同じようなものだ。

 まったく自分勝手な生き物だと自分の事を棚に上げた私はため息をつくと、眠くもないまま目を閉じた。

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