二十二 溺れる男は女を掴む(R12)
気が付くと私は干潮の浜辺にいた。
黄金色の毛並みの犬が私の腹の上に覆いかぶさり、とむが心底軽蔑したような顔で目を開けた私を見下ろしている。
あれだけぎらついていた太陽は急速に赤みを増しはじめ、ハシボソガラスのけたたましい鳴き声が山の方角から聞こえてきた。
「済まない」
ようやくそれだけ言うと、とむは右前足で私の額をぐりぐりと押した。
『ニヘイさんよう。あんた本当にせっかちな野郎だな』
私は弾かれたようにとむを見上げた。
『俺の言葉が分かるか』
私がこくこくとうなずくと、とむは額に置いた右前足を退けた。
何事か言いたそうにしているが、途端にとむの言葉が聞こえなくなった。
とむは再度私の額に右前足を置いた。
『あんた溺れかかったから超感覚が高まったみたいだな。まさかいきなりあんな荒療治をさせるつもりはなかったが。獣体レベルにはまだほど遠いが、とりあえず少しはマシか』
私はとむの意図を読み違えていたらしいが、結果的には潜水艦の操縦に必要な超感覚とやらが少し開発されたようだ。
『フランソワに助けられたんだ。礼を言っとけよ』
私は黄金色の毛並みの犬の背を撫でながら礼を告げた。
『礼には及びません。キルケ様のお客人に万一の事があってはなりませんから、だってよ』
のろのろと起き上がろうとする私を、二頭の元人間の獣達が抑えつけた。
『ちょっと待て。今のあんたと意思疎通するには、俺の前足をあんたの額に置く以外方法が無い。動くな』
とむの言葉に私は大人しく従った。
『今日あんたにやって欲しかった課題は、海水中で目を開ける訓練と俺の言った方向に顔を海中につけたまま歩く訓練。まあこれは明日改めてやろうぜ。それからこれから先、昼飯の握り飯の具とあのくそったれ女が着る服の色を毎朝当てろ』
他にも色々あるんだがとりあえずはここからな、と言うととむと黄金色の毛並みの犬は私を解放した。
改めてふうと息をついて起き上がると、私は日向の岩の上に置かれた着衣を手に取った。
着衣は乾いていたものの潮を吸ってゴワゴワとし、所々湿ったままだった。
きるけえなら新しい着衣を持ってきて私の傍にいそうなものだが、どうやらきるけえはこの騒動に気が付いていない様子だ。
「行こうか」
私は二頭の獣に告げると、茜色に染まる海を横目にきるけえが待つ館へと歩を進めた。
館に戻ると、いつも玄関で出迎えるきるけえの姿が無かった。
私を代わりに出迎えたのは猫の耳を持つ女達であった。
「どうした?」
嫌な予感がする。
私は湯を使おうと廊下を歩き始めて、とむをちらりと見た。
いつの間にやらとむはどこかに行ってしまったようだ。
その代わりに黄金色の毛並みの犬が私に着いてきていた。
彼はとむの話によればきるけえには絶対服従らしいので、きるけえから私を助けてくれるとは到底思えない。
潮をふんだんに浴びた全身を清めたいのはもちろんだ。
しかし昨日のようにきるけえが湯屋にやってきて思わぬ欲を掻き立てられては、どこまで理性が保つか知れたものではない。
いや、きるけえは私に何が起こっているのかを分かった上で、素知らぬ振りであえて湯屋で待ち受けているのかもしれないと私は考えた。
一時の欲に負けて獣になるなど、まっぴらごめんだった。
獣になるぐらいなら、潮だらけの体でも構わない――。
私は猫の耳を持つ女たちを振り払うと、一目散に玄関めがけて廊下を逆走した。
黄金色の毛並みの犬が鋭く吠えた。
猫の耳を持つ女たちが追いすがるが、切羽詰まった私の脚力が勝っているようだ。
「げろ、げろげろげろ」
背後からげろげろとうなる声が近づいてきた。蛙の顔をした男だ。
私は無我夢中で玄関を開け外に出た。
「お待ちしておりました」
玄関を開けると湯屋できるけえがほほ笑んでいた。
私は愕然としながら背後を振り返った。
玄関の扉を開けたはずだったが、背後には湯屋の扉が鎮座していた。
「どういう、こと、なんだ」
私は壊れかけのからくり人形のように、ぎこちなく言葉を紡いだ。
きるけえは私の問いには答えず、しずしずと近づいて潮でごわついた私の衣類を脱がせにかかった。
「自分で出来ますから」
口ではそう言うものの、体はきるけえの手を振りほどくことが出来ない。
肩に引っかかった上着が足元に落ちると、きるけえは私の腰にすんなりとした両の手をあてがった。
薄い布を湯に浸しながら、きるけえが棒立ちになった私の体を拭きはじめた。
「ここにひどい擦り傷が出来ていましてよ。一体何をなさっていたのです」
きるけえは私の心の声を読めてしまうのだから、何が起こったのかははっきり分かるはずだ。
「言えない事でもなさっていたのですか」
答えない私をいたぶるように、きるけえは私の
指摘されるまで傷がある事にすら気づかなかったのに、傷を指摘されてこすり上げられたとたん激しい痛みが襲った。
私は思わず臀部に手をまわして傷をこすり上げたきるけえの髪を鷲掴みにして、痛みをやり過ごした。
「何と激しいお方」
太腿の付け根から私を見上げるきるけえと目が合うや否や、きるけえが大蛇のように私自身を飲み込んだ。
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