二十一 訓練開始

 私はあんてながずるりと引きずり出された額に手をやった。

 穴は開いていないようだったが、感覚では穴が開いてすうっと脳内に風が吹き込むような所在無さを覚える。

 私は立ち上がる気力も無くして、浜昼顔の上に座り込んでいた。

 入道雲を照らしつける太陽は中天をやや超えて、私の肌を焼き焦がしていくようだった。


 私はのろのろと立ち上がると浜昼顔の群生を後にして、低湿地の水場の木陰へと足を引きずりながら移動した。

 岩場に腰を掛け、水筒の水を飲む。

 素足を水にさらすと、焼け焦げた肌の火照りが少し和らぐのを感じた。




 しばしぼうっとしていると、背後からがさごそと草むらをかき分ける音がした。

「とむか」

 向けた目線の先には、黄金色の毛並みの犬が首から風呂敷をぶら下げている。


「ありがとう。きるけえにもよろしく」

 私は風呂敷に包まれた握り飯を受け取ると、黄金色の毛並みの犬の背を見送るはずだった。

 彼はぴたりと腹を地面につけると、微動だにせず私の傍に座った。


 黄金色の毛並みの犬は大抵きるけえの傍を離れる事がないのに、珍しい事もあるものだ。

 隣からかすかに感じる圧に居心地の悪さを感じつつ、私は経木きょうぎの包みをほどいて握り飯を頬張った。


 今日の握り飯は塩わかめとあさりの佃煮の二種類であった。

 二つ目の握り飯に手を付けた頃、とむが草むらからぬうっと顔を出した。

「まずは飯を食わせてくれ」

 私の声にとむはしっぽを一回だけ地面に叩きつけると、大きなあくびをして横になった。

 あさりの佃煮は実山椒が混じっていて、久方ぶりに酒の類を飲みたくなった。


「ここの酒はやはり飲まぬ方が良いのか」

 とむに問いかけると、とむは面倒くさそうにしっぽを一回だけ地面に叩きつけた。

 その間も、黄金色の毛並みの犬はじっと地面に伏せていた。

 彼は人間だった頃もこんな風に静かに、きるけえのそばに辛抱強く佇んでいたのだろうかと思った。


 私は最後の一口にかぶりつくと、水筒の水に口をつけた。

 それを見計らったかのように、黄金の毛並みの犬がのそりと立ち上がった。

 犬の足跡が波打ち際に向かって刻まれていった。

「あの犬の事をこれより先はふらんそわと呼んでも構わないだろうか」

 とむは瞳孔を細めると、ふいと横を向いた。

 言葉が理解できないのは本当に不自由だ。




 くちくなった腹を一さすりしてため息をつくと、横になっていたとむがのそのそと私の膝にその前足を掛けた。

「もう少し休ませてくれないか」

 私の言葉に構う風もなく、とむは私の腹に前足を掛けた。

 ずっしりと骨太で筋肉のついた前足は、見た目よりもずっと重かった。


「放してくれ、重い」

 私はとむの前足を振り払うように寝返りを打った。

 とむはその太ましいしっぽで私の尻を叩いた。


「この世界は時間は『ある』と思えばいくらでもあるのだろ。もう少し休んでから」

 その言葉を明確に拒絶するように、とむは私の頭を甘噛みし始めた。

 甘噛みとは言えオオヤマネコの甘噛みだ。

 余りの痛みと口臭に、私は音を上げた。


「分かった。分かった起きるから。訓練するから」

 前足が私の腿に食い込むのもお構いなしで存分に伸びをしたとむは、ふらんそわの後を追って波打ち際へと歩いて行った。




 オオヤマネコと人と犬の足跡を並べながら、私たちは浜辺にたどり着いた。

 とむはがりがりと湿った砂を引っ掻くと、ざぶんざぶんと寄せては返す白波相手にじゃれる。

「今日は泳ぎの訓練でもするのか」

 海中に浮かんでは消えるとむの姿を見ながら呑気に服を脱ぎ始めていると、いきなり高波が私のひざ元まで押し寄せてきた。


「おい、とむ」

 とむの全身がひと際高い白波に叩きつけられると、海中に沈みこんだまま浮き上がらなくなった。


「とむ、どこだ」

 猫の類は水に弱いはずだ。少なくとも私が知っている猫はそうだ。

 オオヤマネコも猫の類なのだから水が苦手に違いない。

 私は海中に引きずり込まれたとむを助けようと、脱ぎ掛けた服もそのままに海へ飛び込んだ。


 だが私は海辺の町の生まれのくせに泳ぎは得意ではない。

 足を砂と波に取られつつとむの姿を探すが、海水の中で目を開けられずにすぐ海面に顔を出してしまう。


 ぶはぶほと聞き苦しい音を立てながら無我夢中でとむの姿を探していると、不意に背中に急に濡れた米俵のような重みがどさっと掛かった。

 手を背中に回すと、短い獣毛が私の手のひらを濡らした。


「とむっ。無事か」

 切羽詰まった私の声とは裏腹に、とむはひらりと波打ち際に飛び移るとどこか呆れたような顔で私を見上げた。

 慌ててとむに駆け寄ろうとすると、とむはシャーシャーと威嚇音を立てて私を海中に追いやった。


「今日の訓練はこれか」

 とむは溺れたのではなく、潜水の練習をしろと言いたかったのか。

 思い至った私は、ゆっくりと沖合へと歩を進めた。


 荒めの砂にまぎれた貝類が時折足裏を刺激する。

 ぎらついた太陽光に波の一つ一つが反射して、瞳まで日に炙られそうだ。

 眩しすぎて耐えられなくなった私は思わず顔を海面につけた。

 瞬間、ふっと足元から大地が消えた。


 黄金色の毛並みの犬の吠え声が一瞬聞こえたが、全身を海底に引きずり込まれた私の耳には静寂しか残らなかった。

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