十九 我を崇めよ

 きるけえの術中に落ちかかった私を助けに来たとむは、部屋に着くなり寝台の上で寝そべった。

「とむ、済まない。確かに私は凡夫だった」

 とむは私の謝罪には我関せずで自らの前足を舐めている。

 私は水神からもらった水筒を窓辺に置いて、寝台の真ん中にデンと居座るとむに気を遣うように寝台の端に腰かけた。


「ほう、これは珍しい」

 水筒ががたっと音を立てると、あの聞き覚えのある声がした。

 とむが逆毛を立てて唸っている。

「控えよトミー・ビス。そなたの神は我には叶わぬ」

 煌めく閃光せんこうと深紅の花弁を舞い散らせながら、明星の大神いしゅたるが寝台の上に現れた。


「エアに会ってきたのだな」

 いしゅたるは黄金の杯に水筒の水を注ぐと、美味そうに飲み干した。

「あれの呪い除けなぞただの気休めぞ。これだから力を失った神にはなりとうない」

 確かにいしゅたるの益荒男ますらおのような覇気に比べて、ふわふわと宙に浮く水神は存在感が薄い。

 だが、私にとって神らしく映るのは水神の方だ。


「だからお前は凡夫なのだ。あんなふわふわした神の出がらしにすがって何になる」

 確かにの神は、水神としての権能以外をいしゅたるに奪われたと言っていた。

 翻って目の前で深紅と紫の衣を羽織って仁王立ちしている尊大な女神いしゅたるは、その身に沢山の神々を習合し、神々さえ怖れる力を持っているようだ。


「我は明星の大神イシュタル。愛と美に生殖を司る偉大なる女神。万物を養育する大地の女神にして正義と統治の天秤。雄獅子の如き戦神にして寛大なる統治者。崇拝者を庇護し裏切者に厳罰を科す裁きの神。他にも色々あるが全部言ってやろうか」

 私は力なく首を横に振った。


「気休め程度の水しか恵んでやれない水神エア。死すべき者たちがこぞって欲する、最強の力と権能を有する明星の大神イシュタル。どちらを尊崇すべきは明白であろう」

 理屈で言えば答えは一つだ。

 だが、いしゅたるに頭を垂れる気には到底なれなかった。


「つまらぬ男だな。凡夫らしく欲望に任せてきるけえをむさぼる所まで堕ちれば良かったものを。それすら出来ぬ小賢しい小心者よ」

 苛立った様子でしっぽをばたばたと寝台に叩きつけていたとむが、いしゅたるに飛び掛かった。

 だがとむの体は空を切った。


「猫は愚かよのう。何度同じ事を繰り返せば気が済むやら。大人しく我の膝に乗っておれば頭でも掻いてやるものを」

 余計な世話だと言わんばかりに、とむは低いうなり声を挙げた。


「悔しいのう、辛いのう。欲望に負けたばかりに猫ちゃんになって情けないのう。だが欲望に負けたのは自業自得だ。そうだろうトミー・ビス。逆恨みは心の毒ぞ」

 とむは不貞腐れたように寝台の上で丸くなった。

 とむを一しきりからかって飽きたのか、いしゅたるは残り香と共に空へ消えた。




 入れ替わるように扉を控えめに叩く音が聞こえた。

「旦那さま、夜食をお持ちしました」

 今度こそきるけえの手管てくだに負けてしまいそうで、私は寝たふりを貫いた。


「お体が優れぬようですが」

 ぎいっと扉が開き、この島で初めて口にした粥の匂いが私の元まで漂ってくる。

「お疲れの時には何か口に入れませんと」

 きるけえの吐息が私の頬を撫でた。


 私はきるけえから逃れるように寝返りを打ち、うつ伏せになった。

 それを見越していたかのようで、きるけえは滑り込むように寝台に入り私の背中に美しい曲線を描く両の乳房を押し付けた。

「暖かい」

 きるけえはまるで見失った母を見つけた幼子のように、両腕を私の腰に回した。

 私は彼女を振り払うこともできず、丸太のように無言で寝台に横たわっていた。


「旦那さまは暖かいですね」

 きるけえは人の心が読めるのだから、私が寝たふりをしている事などはなから分かっているのだ。

 稚拙ちせつな嘘を見抜いた上で、私の首元にその顔を埋め私と同じ速度で胸を上下させる。

 私の心に湯屋で感じた劣情の代わりに、幼子を慈しむ気持ちが沸き上がってきた。

「暖かい」

 きるけえそうつぶやくと、私に呼吸を合わせ続けた。


 私は何も言わず、ただ背中をきるけえに差し出した。

 きるけえは何も言わず、ただ私の背の温もりを感じているようだった。

 その呼気が子守唄のようで、私のまぶたは自然と重くなっていった。

 とむが私の頭の上を踏みつけるようにして歩き去っていくのをぼんやりと感じながら、私はいつの間にか眠りに落ちていった。




 私が目を覚ますと、部屋には天高く上った太陽光が差し込んでいた。

 いつに無くぐっすりと寝付いたようで、一瞬私は家の布団から起きだした錯覚すら覚えた。

 昨晩の事を思い出し、私は慌てて自分の衣類や体の異変を確かめた。

 着衣にも体にも変わった様子は見られない。

 きるけえは私が手を付けなかった粥を下げたようで、あの嗅ぎ慣れぬ匂いが枕元から漂ってくる事はなかった。

 きるけえが部屋に忍んだ気配すらないほど何一つ変わらなかった。



 

「お早うございます。良くお休みでしたね」

 その言葉に私が軽く会釈をすると、きるけえは朝食を食べるように勧めてきた。

 水神からもらった水を飲んだので大丈夫だと言い聞かせ、食卓に着く。


 ずずっと味噌汁を一口飲む。

 今まで気が付かなかったが、味噌汁の味など家庭ごとで違うはずなのに私が家で馴染んでいたそのままの味だった。

 米の炊き加減も私が最も好む仕上げで、干しわかめに鯵の干物も私の大好物だ。

 何も伝えなくとも、きるけえにはすべて見抜かれているのだ。

 頭でぞっとして腹が喜ぶ奇妙な感覚を覚えつつ、私は出された食事をすべて平らげた。


「今日もあちらに向かわれるのですか」

「ええ」

 きるけえは濃い黄色の花を浮かべた茶のような液体を、背の高い茶碗に注ぎながら頷いた。

「昼食はこの子に持たせますね」

 足元にはべる黄金色の毛並みの犬の頭を一撫ですると、きるけえは淡い柑橘類のような香りのする液体を飲み下した。


 私は茶を飲みながら、黄金色の毛並みの犬がふらんそわであった頃もこんな風にきるけえの傍を離れずにいてくれたらと恨めしく思った。 

 玄関まで見送りに来たきるけえが私にそっと身を寄せるのを軽くあしらうと、眠りから覚めたとむと連れ立って私は館を後にした。

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