十八 湯屋と私ときるけえと(R12)
水神から水を分けてもらった私は館に戻った。
きるけえは泥と擦り傷だらけの私の足にひどく驚いた。
「旦那さま、一体どうされたのです。すぐに湯につかってくださいな」
この館で水神の守護が得られる場所があるとすれば湯屋だろう。
ふらんそわが初めてきるけえの寵愛を得た後に人間の姿を保てていた理由も、舞台が湯屋だったからと言う可能性がある。
私は湯につかりながら、きるけえに誘惑された場合の対処法を考えていた。
「何てことだ」
きるけえの細くしなやかな指先、鎖骨を彩る紺碧の宝石、そしてクコの実の如き二つの――。
妻以外の女性に何の興味も示さなかったはずの私は、きるけえの術中に落ちつつあるのを感じた。
愚かな私が気づかぬうちに、食べ物や飲み物に薬物が混ぜられていたのか。
純潔で清らかだったふらんそわを黄金色の毛並みの犬に変えたように、密やかに張り巡らされた蜘蛛の糸が私をからめとっていたのか。
『あんたみたいなただの凡夫にゃ到底無理だろう』ととむが言うのも無理はない。
昼には友愛とか父性愛とか言っていたその身が、日暮れの湯屋で彼女を想像しただけで浅ましい本性を現している。
私はすがるように湯屋に持ち込んだ水筒に口をつけ、
「旦那さま、お邪魔いたします」
浅ましい私の欲望を狙いすましたかのように、きるけえが湯屋の扉越しに声を掛けてきた。
着る意味が見いだせないほど薄い羽衣のような布をまとい、きるけえは私に近づいた。
「おみ足が酷く傷だらけではありませんか。手入れを致しますから、どうぞ遠慮なさらずに足をお出しくださいな」
私は足を出すのをためらった。
獣に変えられる危険と、浅ましい欲望に身を委ねる
目の前のきるけえを欲しいままにしたくなっている自分がいた。
足を出せば私は獣と成り果てる――。
その一心で解呪の呪文を脳内で何度も唱えるのがやっとであった。
「では私がそちらへ参ります」
言うや否や、薄物一枚を羽織ったままのきるけえが湯舟にその体を沈めた。
水を吸った薄物は彼女の肢体にぴったりと張り付き、クコの実のような両の胸の突端に目が吸い寄せられた。
そしてつきあげたばかりの丸餅のような、もぎたての白桃のような両の乳房を掴み上げむしゃぶりつきたい衝動に私は駆られた。
私はきつく目をつぶり、故郷の妻子を思い起こしてやり過ごそうとして驚愕した。
あれだけ大切に思っていたはずの妻子の顔を、思い出せない。
妻子は私の中で、ただの概念と化してしまったようだ。
この時間のあるともないとも知れぬ世界での数日間は、かつて私がいた世界でどのぐらいの日数になっているのだろうかと空恐ろしくなった。
「どうぞ力を抜いてくださいな」
きるけえは目をつぶったままの私の足を左手ですくいあげ、両の胸の間で私の足指を挟んだ。
柔らかでありながら弾力があり、私の足指は離れがたくきるけえの薄桃色の皮膚にタコのように吸い付いた。
私は目をつぶったまま、左足をだらしなくきるけえに預けて放心していた。
今のところはかろうじて人間としての形と意識を保ってはいる。
だが足を揉まれているだけで脳天を突き上げるほどの快楽を感じている私は、確かに生粋の凡夫なのだろう。
かいがいしく私の足を治療するきるけえに沸くのは劣情ばかりで、彼女が求める真摯な愛情は一切湧いてくることがない。
改めて思うがこれは酷な呪いだ。
「これで左足の痛みは大分良くなるはずです。では右足をお出しくださいな」
きるけえの声が聴覚を、乳房が触覚を、香しい薬草が嗅覚を、水にぬれた薄物が視覚を奪う。
そして、彼女の唇が私の味覚を奪った。
ああ、私は堕ちた――。
とむの言う通り、私は凡夫であった。
「これ、お部屋にいなさいと言ったでしょう」
唇を離したきるけえが湯屋の入り口に向かって話しかけた。
湯屋の入り口の扉越しにオオヤマネコの影が見える。
私は人間の姿をしたとむが、侮蔑の視線で私を見下ろしているのを感じた。
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