六 いしゅたるとかつての神殿巫女きるけえ

 きるけえを見送った私は寝室のドアを開けた。

「よう耐えたな、六十人目。褒めて遣わすぞ」

 濃い緋色の衣服に深い紫色の肩掛けを掛けた妙齢の女が、寝台に胡坐あぐらをかいていた。

 その体は人と変わらぬ大きさだが、明らかに人ならざる後光が射している。

 私は思わず床にひれ伏した。


「良い、良い。今夜は無礼講ぞ。六十人目、面を上げい」

 おそるおそる頭を上げると、薄桜色の指と空色の宝石をあしらった指輪が目に入った。

「あれには食指が動かぬか」

 けだるげに髪をかき上げ、勝ち誇ったようにいしゅたるは笑った。


「彼女は子供そのものです。何とむごい事を」

「なあに、神とはもとよりむごいものよ」

 その言葉に、私は後頭部を思いきり殴りつけられたような衝撃を受けた。


「考えてもみろ。お前の神はお前を救ったか。お前の仲間を救ったか」

「それは、そのような巡りあわせであったとしか答えようがありませぬ」

 いしゅたるはけたけたと笑いながら、黄金の杯になみなみと注がれた血色の酒を飲みほした。


「何が起こっても何をされても都合の良いように考えては前を向く。踏まれても踏まれても立ち上がる青人草あおひとぐさの何と愛いことよ」

 黄金の杯に手酌で血色の酒を注ぐと、ずいと私に差し出した。

 私は目をつぶってぐいと飲み干した。


「良い飲みっぷりだ、六十人目。さあ、近う寄れ。ここに来やれ」

 私は言われるがままに寝台によじ登った。

「案ずるな、人の世のお前をそのまま食らう事は叶わぬでな」

「では人の世の男を食らいたくなった時にはどうなさるのですか」

 誠に不躾ぶしつけな質問だが、興味には逆らえなかった。


「簡単な事よ。我の神殿に仕える者どもに相手をさせるのみ」

 初めて顔が見えた。

 きるけえとどこか似た面差しだが、その神威は人の姿をとってなお隠しおおせるものではなかった。


「キルケは主の先祖がまだ土くれであった頃に我が神殿に仕えておった。ある時、我は神から人に降りてでも手ずから愛でたい男を見つけたのだ」

 いしゅたるは、柔らかく巻かれた髪をほっそりとした指先でもてあそんだ。


「神である我が死すべき者であるその男を手ずから愛でるには、ある特殊な方法以外にすべがない。その男だけは神殿の巫女に相手をさせるのもしゃくで、その男が旬のうちに我が手に抱きたいと思うた我はちょっとした神託しんたくを出したのだ」

 神託を軽んずれば即命を落としたであろう、気の遠くなるような昔の話だ。

 いしゅたるのちょっとした神託しんたくとやらで、過去に幾人が命を落としたのだろうかと思うと私はぞっとした。


「巫女は神託を受け取り人に伝えるただの肉の器だ。それをあの愚かな女ときたら分もわきまえず。死を以ってあがなうなど生ぬるい」

 空になった黄金の杯をぽいっと床に投げ捨てると、いしゅたるはどさりと寝台へ身を投げ出した。


 巫女みことして最も重い罪とは何だろうか。

 私は床に投げ捨てられた黄金の杯を拾い上げると円卓に置いた。


「あれに同情も憐憫れんびんも不要だ。あれは我から授かった力を己が力と思い上がり、自滅しただけよ」

 確かに私はきるけえに同情と憐憫れんびんの情を抱き始めていた。

 気の遠くなるような年月を過ごしているとは言え、今の彼女は愛情に飢えた孤独な女でしかない。

 誰彼となく愛してしまうのに誰からも愛されぬ呪いは、死よりも辛いに違いない。


「それが罠ぞ。獣になりたくないのならキルケの誘いに乗るな」

 きるけえはふざけて人を動物にするような存在だとは思えなかった。

「ふざけていないから性質が悪い。あれは我の力を中途半端に身に着けて居るが故、意図せず相手を動物に変えてしまう時があると言っただろうに」


 私の脳裏に、波打ち際で鳥になってバタバタともがく己の姿がふと浮かんだ。

 必死で他の事を考えようとするが、考えようとすればするほど鳥の目線のように自分の目が回っていった。

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