五 一人は寂しい

 きるけえは緑色の液体が張られた器を運んできた。

「食後酒をどうぞ」

 受け取ろうとした私の手の甲の皮膚を鋭く破る激痛と、緑色の飛沫ひまつと共に器が砕け散る音が同時に私を貫く。

 オオヤマネコが床の下から黄金色の目を見開いて、私をきっと見据えていた。


「すぐに手当をいたします」

 きるけえが私の裂傷れっしょうを舌でなぞると、初めから何も起こらなかったかのように即時に痛みも傷も無くなった。

「これで痛みもぶり返さぬでしょう。これ、旦那さま何という失礼を。謝りなさい」

 オオヤマネコはきるけえの叱責にしっぽをたしたしと床に叩きつけて応じた。

 オオヤマネコの言葉は分らぬが、きるけえに叱られた事がいたく不服そうであった。


 きるけえにも二頭のけものにも聞きたい事が山とあった。

 だが、心の中を読めるきるけえ相手に質問をするのは難しそうだ。

 結果として私は自分から口を開けずにいた。


「よろしければ湯浴ゆあみをなさいませんか。わたくしが背を流しましょう」

 おずおずとした素振りで、しかしながらはっきりと欲情の色を浮かべたきるけえが私に声を掛けてきた。


「いや、私一人で出来ますのでお気遣いなく」

 島に流れ着いた男に一目で心を奪われる呪いをかけられた哀れなきるけえ――。

 彼女は人肌恋しさに身もだえするように、熱をはらんだ目で私をそっと見上げた。


「明日、船大工らに会わせてはいただけませんか。私が乗る船ですから彼らと打ち合わせがしたいのです」

「かしこまりました。そのように手配を致しましょう」

 強引な話題転換に、きるけえは一瞬逡巡しゅんじゅんした素振りを見せたが静かにうなずいた。




 ややあってきるけえが手を二度叩くと、蛙の顔に人間の四肢をもった男が広間に現れ、湯屋へと先導した。


「ではおやすみなさいませ旦那さま」

 きるけえの声が、枯野かれのを渡るさやかな風の如く響いた。




「貴殿は人語を解するのでしょうか」

 私の問いに、蛙の顔をした男はげろげろとうなるばかりだった。

 そもそも蛙の発声では人語はつむげない。


 ならば筆談をしようと思ったが、読み書き算盤そろばんが出来る者は太閤殿下たいこうでんかによって平らかとなった日ノ本ひのもと広しといえどもまだまだ少ない。

 増して元はここいらの漁師であったであろう者相手に筆談は難しかろうと、私はため息をついた。


 それきり無言になった私に、蛙の顔をした男は湯屋の入り口で湯上がりの着替えを差し出した。




 ひのきの浴槽に身をゆだねると、ひのきの香りが湯気に混じって私の全身を覆った。


「大儀であった。疲れただろう」

 にやにやと半笑いをしているような声が、淡い薔薇ばらの香りに運ばれてくる。

「約束通り、あなたの事は口には出しませんでしたぞ」

「きるけえに我がここに来た事を感づかせたのだから、口に出そうと出すまいと同じではないか。まあ良いわ。遊び相手が増えたと思うて、主をしばらくからかおうぞ」

 いしゅたるが笑うと鈴のような音が響いた。


ぬしはげめば、妻子の元に帰れる道も開けようぞ。主が開いた道ならば、我は敢えて引き留めはせぬ」

 私をからかうとはっきり宣告した上で告げられた言葉を信じ切る事が出来るほど、私はおめでたい性質ではない。


「ふむ、さすがは大商人おおあきんどだけの事はあるわ。我におびえもせず我の言葉を鵜吞うのみにもせぬ。それにしてもあのヤマネコも粋な事をする」

 湯舟の辺りに、くちなしの香りが薔薇ばらの香りに混じって漂ってきた。


「あの緑の酒は媚薬びやくでな。愚かなキルケはその力を借りて男と肌を合わせようとするのじゃ。我の呪いは体の欲望を対象にはしておらぬから、媚薬の効果も相まってキルケは簡単に男の体のみは手に入れるのだがな」

 いしゅたるの声色からは、してやったりと意地の悪そうな笑い顔が目に浮かぶようだった。


「あれは散々男に愛を求めては拒まれ続け、体だけはホイホイと供して来たものだから、自分自身の魅力一つで男の寝室に忍ぶ事も出来なくなってしもうてな。だから今夜は安心して枕を高くして休むが良い」

 いしゅたるが嘘をついていないならば、私と共寝ともねする手段をオオヤマネコに絶たれたきるけえは一人寝の夜を過ごす事にしたようだ。



 

 いつの間にやら薔薇ばらの香りが消えた湯屋から上がると、石造りの壁に囲まれた長い廊下を歩いて寝室へと向かった。

 階段を上がると、きるけえが部屋の前で待っていた。


「どうされましたか」

 いしゅたるの読みは外れたようだ。

 私はきるけえが何を求めているか重々承知の上で空とぼけた。


「一人は、寂しいのです」

 きるけえは駆け引きめいた事を一切知らぬのだろう。

 知っているのは男の体だけ。


 その男の体すら薬やまじないの力を使わねばどうしてよいやらわからず、ただ赤子あかごが母の乳房を探るように男に取りすがるしか出来ない。

 きるけえはいしゅたるの呪い通り、体を抜きに男と通い合った経験すらないのであろうと思った。


「妻子とは、家族とはそんなに大切なものなのですか」

「私には、家族とは何かが分からないのです。遠い、ずいぶん遠い昔にそれらしき人はいたのかもしれませんが私の覚えているかぎり家族はおりませんでしたから」

 部屋の扉にもたれてきるけえが目を伏せた。


「失礼ながら、あなたはどのぐらいの年数を過ごしてこられたのですか」

「それすら分かりません。私は父も母も知らずに過ごしてきました。いや、父や母から生まれてきたかも定かではありません。旦那さまもすでにご存じの通り、私は他の方とは違う時の流れにいます」


 きるけえの見た目は若い娘そのものだが、その瞳にどれだけの歴史を映してきたのだろうか。

 それとも、太古の昔からひっそりと隠れるように小島に引きこもって、存外何も知らぬのだろうか。


「あなたは死すべき者なのですか、それとも死を超越した者なのですか」

「それすら分らぬのです。私が覚えているのはこの島に来る前に故郷の島で長く暮らしていた事ぐらいで、その時も今と大して変わらぬ暮らしをしていたのです」

「これからもこの暮らしを続けるつもりですか」

 私はいしゅたるときるけえが和解すれば、きるけえの苦しみも消えるのではないかと思った。


「イシュタルに呪いをかけられたらしいことはうっすら覚えています。ですが私が何をしてイシュタルを怒らせたのかも思い出せないのです。旦那さまはイシュタルと話したのでしょう」


 どんなに残虐だろうとも邪霊に見えようとも、神を名乗る存在の言葉であるから死すべきものが軽々しく伝えて良かろうはずもない。

 しかも、妻子の元へ戻りたい私にとっては、いしゅたるとの約束を破ってきるけえにいしゅたるの言葉を伝える事など出来ようはずもなかった。


※2024/4/25 四「きるけえの夕餉ゆうげ」の改稿に伴い冒頭部の構成を再編成

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