四 きるけえの夕餉《ゆうげ》

 目が覚めると、部屋に差し込むのはせこけた月明かり一つであった。

「旦那さま、夕餉ゆうげの支度が出来ました」

 このいかにもたおやかな物言いも、ただの擬態ぎたいなのか――。

 私は手早く着衣を直すと、足早に声の聞こえる方へと急ぐ。


『キルケには我が話したことをゆめ伝えるでない。伝えればお前を妻子のもとへ帰してやれぬ』

 頭を中から鈍器で殴られたような衝撃と共に、いしゅたるの声が響いた。

『貴方の話を伝えなければ、必ず私を妻子の元へ戻すと約束して下さいませ』

 いしゅたるは何の答えもよこさなかった。





 食卓に 背の高い椅子が八脚並ぶ。

 この大きな食卓で一人食事を摂っているのかと思うと、きるけえに対して更に憐れみの情がく。

「わたくしは独り身ですが、慰めてくれる仲間はおりましてよ」

 そう言うときるけえはぽんと手を一度鳴らした。


 その音に応じるように、オオヤマネコと金色に光り輝く大型犬が、のそのそとやってきた。

 彼らも元はここらの若者だったのだろうと思うと、急に全身の血液が極寒の海にさらされたように冷たく感じた。

 そして食卓から湯気をたてている肉も牛や豚にされたという――。


「そのような噂が町では流れているのですね」

 思わず身震いした私をちらりと見て、きるけえは悲しげに目を伏せる。


「いや、いや。ただその、あなたはすっかり人の心が読めてしまうのですね」

「出来るだけ聞かぬようにはしているのですが、気を抜くと聞こえてしまうのです。本当にまわしい力です。捨ててしまいたいのですが捨て方も分らぬのです」


 叱られた幼子のようにうつむくきるけえの腿に、大型犬が金色の前足を乗せた。

 きるけえをなだめるようなしぐさと垂れ下がった耳の動き、そして何より大粒の涙をこぼさんがばかりに濡れた黒く大きな瞳は、若く美しい男のそれであった。


 私もこの料理を食べたからには彼らのような獣にされてしまうのか。

 再び戦慄せんりつが走ったが逃げる宛もない。

 頼みの綱になりそうなのはいしゅたるだけだが、簡単に助けてくれるような存在ではなさそうだ。


「イシュタルですって」

 私の心の声を聞き取ったきるけえの顔色が青ざめる。


 しまった。絶対に言うなと厳命されていたのに。

 いや、口には出していないから約束をたがえたわけではないはずだ――。

 私の心の臓がいつもの三倍ぐらいの速さで飛び跳ねた。


「旦那さまはイシュタルに会ったのですね。イシュタルは何と」

 きるけえの口調は切迫していた。

 だが、明星みょうじょうの大神を自称するいしゅたるとの誓約を破れば、故郷に戻ることは叶わぬだろう。


 私は大きく息を吸って都の賢者仕込みの呼吸を繰り返し、頭に何も浮かべぬようにした。

「答えてはくださらぬのですね」

 きるけえは力なさげに黒真珠の瞳を伏せた。


 頬に影を落とすほどの長いまつげが微かに震えるのを視界の端に入れながら、きるけえの力になってやれない自分をもどかしく思った。

 私はきるけえに妙な哀れみと一種の情を覚え始めていた。


※2024/4/25 終盤部を五「一人は寂しい」に移行および微調整(内容は変わらず)



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