三 いしゅたるの呪い

「我はイシュタル。この世の大権を握る明星みょうじょうの大神なり」

 濃密な薔薇ばらの香りをまき散らしながら、声の主は高らかに宣告した。

 はていしゅたるとは聞いたこともない。狐憑きか何かの類であろうか――。

 私は姿を見せぬ尊大な物言いの存在をいぶかしく思った。


 とは言えここが異界であるならば、生前の世とは道理が違っても受け入れる他はあるまい。

「物わかりの良い男だな」

 いしゅたると名乗る声の主は読心術どくしんじゅつけているようだ。

 声質は強いが、どことなくきるけえを思わせる響きがある。




「たわけ。あのような小娘と同じにされてたまるか」

 きるけえは恐ろしい女で、人を馬や犬に変えるなどと散々聞かされてはいた。

 だが実際にきるけえをこの目で見た私には、寂しさの余り見知らぬ男にいきなりまたがり愛を乞う、愚かで哀れな娘としか思えなかった。


「ふん。男というものはいつの世もあのような媚態びたいにころりとだまされる」

 ふと私を取り巻く空気が密度を増した。




「あれを愚かで哀れだと思うなら、あれをめとってやらぬか」

 突然の質問に唖然あぜんとしつつも、私の脳裏には妻子の顔が浮かんだ。

 私は首を横に振った。


「やはりな、また拒まれたぞ。愚かなキルケ、哀れなキルケ、裏切り者のキルケ」

 薔薇ばらの香りで窒息ちっそくしそうなほど、濃密な芳香ほうこうがさらに密度を増した。


「愛の神イシュタルをあざけり裏切った罰じゃ、罪じゃ。お前は未来永劫みらいえいごう誰にも愛されぬぞ。愛されて良いわけがない」

 『これ』は九尾きゅうびの狐の如き物の|怪『け』であろうと私は身構えた。


「キルケよ。お前は決して誰にも愛されぬ。目にする男全てを狂おしいほど欲し、全ての男に拒まれ続けるのだ。哀れよな、辛かろうな。生きたまま胸をさそりに食われ続けるように苦しかろうな」

 いしゅたると自らを名乗る存在は、残虐ざんぎゃくで力に満ちた気で私を圧した。

「キルケよ。我にひれ伏し許しを乞うても無駄だ。神の言葉は絶対ぞ」

 落雷したかのような衝撃が部屋に走った。




 「キルケよ。世の終わりまで命を与えられた裏切り者よ。その命続く限り己を愚かで醜いと嘆き悔み一人寂しさにさいなまされ、決して叶わぬ愛を乞い続けよ」

 姿は見えぬもののいしゅたるの哄笑こうしょうが直接脳内に響いてきた。


『わたくしを愛してはいただけませぬか』

 砂浜で聞いたきるけえの声が、哀切あいせつさを以て私の胸に蘇った。

「同情は毒ぞ。あれは大人しく哀れで従順な女の振りをして、男を食い荒らす妖魔ようまよ」

 楚々として大人しく従順、そして哀れみを感じさせる女は男の欲をそそるのかもしれない。

 だが妻子と再び会えればそれで良い私にとっては関係の無い事であった。




聖呪せいじゅに動かされるままに男に狂い、愛を乞い愛に飢え男に憤怒し取りすがるキルケの姿は滑稽こっけいで良い暇つぶしよ」


「男と体だけは通じるように呪いを掛けておいたのがキモでな。我の与えた力が中途半端に残っておるがゆえに、キルケ自身が望むと望まざるとに関わらず、体を通じ合わせた男は獣となってしまうのだ。神の力を分け与えられながら神に背いた小娘に似合いの末路よ」

 神を名乗る割には率直に言って随分と下種げすな趣味だ。


「きるけえに罰を与えるにしても、男達に対して余りに酷い仕打ちではありませぬか」

 私は思わず口をはさんだ。

「ほう、神に差し出口をするか。いや、我を邪霊じゃれいと勘違いしている様子じゃの」

 笑い声と共に、透き通った鈴のような音がかすかに響いた。


「男はいくつになっても女が好きだろう。キルケは呪いのせいで相手が老爺や醜男でもその心身を欲するのだ。これが男にとって救いでなければ何だ」

「私には妻も子もおります。少なくとも私にとっては救いではありません。貴方が真に神だと言うならば、今すぐ私を妻子の元へお戻しください。私を生の世界へ返してください」

 私は畳みかけるように目に見えぬ存在へ食らいついた。


「生の世界へ返せ、だと。何を馬鹿な事を。死後の世界にでも来たつもりか」

「ここは生の世界だとでも」

 帰ってきた言葉に私は意表をつかれた。

 私は妻子と再会できるかもしれぬと、希望に体を震わせながら尋ねた。


「何と愚かな事を問う。死の世界だと決めつけたのはそなたであろう。ここはそなたが死の世界と思えばそうなり、生の続きだと思えばそうなる世界に過ぎぬ」

 いしゅたるは私に雷撃を落とした。

 そして私は気を失った。





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