後編
アレから何度か食堂でも会っていたし、お互いに予定のない週末はどこかへ出かけたりもしていた。初めて行ったトリックアート展も楽しかったのだけれど、会ってもご飯を食べるだけで解散になることも多くなっていた。僕がお酒を飲めないというのも理由なのだが、彼女の仕事が今まで以上に大変になっていて精神的にも肉体的にも限界が近いようで、どこかへ遊びに行く気力もないみたいなのだ。
「お兄さんと一緒にこうしてご飯を食べるだけでも私は幸せなんですよ。今までの彼氏と比べても、お兄さんと一緒に居る時間の方が楽しいかも。なんでかわからないけど、お兄さんは一緒に居て楽なんですよね。もしかして、私ってあんまりお兄さんに気を遣ってなかったりしますかね?」
「いや、そんなことは無いと思うよ。お姉さんはいつも仕事で疲れてるみたいだし、時々はこうして息抜きもしなくちゃね。どこかに遊びに行くにしても、翌日に疲れを残っちゃうようじゃ息抜きとは言えないだろうしね」
「でも、お兄さんっていつ誘っても断らないですよね。もしかして、本当に友達とかいないんですか?」
「まあ、社会に出たら年に一二回くらいしか遊んだりしないもんじゃないかな。お姉さんだって似たようなもんでしょ?」
「私は今の仕事をするようになってから友達が減ったかもしれないです。時間が取れないってのもあるんですけど、いつもこんな感じで疲れちゃってるんで遊ぶのも億劫になっちゃうんですよね。経理の仕事ってこんなに年中忙しいと思わなかったです。まあ、仕事が忙しいんじゃなくて、先輩たちが面倒くさいってだけなんですけどね」
「それってさ、環境を変えたらお姉さんはもっと人生を楽しめるんじゃない?」
「それは分かってるんですよ。わかってるんですけど、こんな経験も浅い新卒と変わらないような私がちゃんと転職出来るなんて思えなくて、きっとこのままだと年だけ重ねて先輩たちみたいになっちゃうか、ストレスで会社を辞めちゃうと思うんですよね。あ、暗い話をしてごめんなさい」
「いやいや、それでお姉さんの気が晴れるんだったらいいんだけどさ。ところで、お姉さんは経理以外はやりたくないのかな?」
「え、経理以外ですか。やりたくないわけじゃないですけど、私には営業とか向いてないと思いますし、出来れば事務仕事が良いと思ってるんです。でも、そんなワガママも言っていられないような気もしてるんですよね」
「そこでお姉さんに一つ相談があるんだけど、僕の職場で近々総務の人が旦那さんの転勤についていくことになって退職することになっているんだよね。もしよかったらなんだけど、近いうちに人事部の人を連れてきてもいいかな。もちろん、お姉さんにそのつもりが無いんだったらこの話は聞かなかったことにしてもらえると助かるよ」
「それって、どういうことですか?」
「えっとね、お姉さんは今の職場で大変そうだし、ウチの総務はそこまで人間関係も悪くないと思うんだよね。で、出来ることなら多少の経験はある方が望ましいと思ってて、お姉さんの話を聞く限りでは、経理の仕事もしっかりやってるみたいだからね。給与面でウチが良いとも限らないんでその点は僕じゃなくて人事の人に聞いて欲しいんだけど、少なくとも勤務時間は今よりも短くなると思うよ。というか、ほぼ定時であがれると思うんだ。話だけでも聞いてみてもらえないかな?」
「それは嬉しいんですけど、どうして私にそんな話を回してくれるんですか?」
「まあ、それはね、お姉さんがいつも大変そうにしているのを見ているわけだし、少しでも力になれればいいなって思ってね。それと、出来ることならもっとお姉さんと一緒に過ごせたらいいなって思ってさ」
「あはは、私もお兄さんと一緒に居られたらいいなって思ってました。同じこと考えてたんですね。よし、受かるかわからないけど、お話を聞かせてもらってもいいですか?」
「もちろん。じゃあ、空いている日があったら教えてもらってもいいかな?」
「次の日曜はお兄さんとご飯を食べに行く約束をしてるんで、土曜日ならどうですか?」
「土曜日ね。ちょっと聞いてみるから待っててもらってもいいかな?」
「はい、そう言えば、初めてですね」
「何が?」
「私からじゃなくて、お兄さんから空いている日があるか聞いてきてくれたのって」
「そうだっけ?」
「そうですよ。誘うのっていつも私からですもん。その割には、お兄さんっていつも予定空いてるんで、本当に友達いないんだなって思ってました」
「まあ、こっちからって意外と聞きにくいんだよね。断られたらどうしようって思ってるし。あ、返事が返ってきた。土曜日なら午後が空いてるって。お姉さんは大丈夫?」
「大丈夫ですよ。持ち帰りの仕事があっても午前中には終わらせておきますから。それと、私はお兄さんのお誘いだったら断ったりしないですよ。予定があったとしても、次の休みの提案しますから」
「それなら良かったよ」
土曜の昼下がり、僕は人事部の山下さんと会社近くの喫茶店でお姉さんを待っていた。お姉さんからはもうすぐ着くという連絡もきていたので、そのまま店内に入って待つことにした。
「これって休日出勤扱いになるんですか?」
「もちろん。手当はちゃんと出すよ。それに、好きなモノ食べていいからね」
「やった。でも、経費で出したりしないですよね?」
「さすがに経費では落とせないでしょ。その点は山下さんの方が詳しいと思うし」
「そうですよ。会社のお金をそうやって私的に使うのは良くないですからね。今日は全額ポケットマネーでお願いしますよ」
「大丈夫だって。着いたみたいなんで迎えに行ってくるよ。山下さんは気にせずにケーキを食べてていいからね」
「言われる前に頂いちゃいました」
僕はいったん店の外に出てお姉さんを探してみた。お姉さんはいつもの休日とは違って少しだけフォーマルな服装だった。そんなにかしこまらなくてもいいのにと思っていたのだけれど、お姉さんにとっては大切な事だと僕も理解していた。
「お待たせしてすいません。人事部の片はもうついているんですか?」
「うん、中でケーキを食べてるよ。お姉さんも好きなの頼んでいいからね」
「いや、そう言うわけには。待たせちゃって大丈夫ですかね?」
「大丈夫だよ。今日は気楽にお話を聞くだけでいいからさ。待遇面とか聞いちゃうかもしれないけど、そこは気にしなくていいからね」
僕は先ほど座っていた席についたのだけれど、山下さんに隣に来るように怒られてしまった。確かに、僕が山下さんの正面に座ってしまうと、お姉さんがどこに座ればいいのか迷ってしまうな。
「もう、いつも一人で過ごしてるからそういう風に気を使えなくなるんですよ。そっちに座っちゃったらお姉さんが座る場所に困っちゃうでしょ。もう、しっかりしてくださいよ」
「ごめんなさい。じゃあ、お姉さんはそっちに座ってもらってもいいかな?」
「はい、失礼します」
「初めまして。人事部の山下です。私から最初の質問をさせてもらってもいいですか?」
「ちょっと、雑談も無くいきなり質問とか緊張しちゃうでしょ。お姉さんを困らせたりしないでよ」
「大丈夫です。準備はしてきたつもりですから」
「邪魔されちゃったけど質問させてもらいますね。お姉さんは、チーズケーキとチョコレートケーキとモンブランだったらどれが好きですか?」
「え、その三つだったら、チーズケーキが好きですけど」
「じゃあ、お姉さんはチーズケーキね。私がチョコレートケーキを食べるんで、先輩はモンブランですね。ちゃんと決まってよかった」
「え、その質問ってどういうことですか?」
「いや、ケーキを三種類頼んだんですけど、お姉さんの好きなケーキってどれだろうって思ってたんです。チーズケーキを選んだあなたは、合格です」
「え、合格って?」
「実は、どれを選んでも合格だったんですけどね。でも、チーズケーキはときどき私が作って持っていくんで花丸合格です」
「ごめんなさい。ちょっとよく話が見えないんですけど」
「あれ、うちの会社で働いてもらえるんですよね?」
「そのつもりではいるんですけど、面接とか履歴書とか何も無いですけど?」
「それなら後で良いんです。社長も先輩が推薦してくれる人材なら問題ないって太鼓判を押してくれましたから」
「でも、そんな簡単に決めていいんですか?」
「良いと思いますよ。何かあったとしても、責任を取るのは社長と先輩ですし。それに、先輩が誰かと一緒に休日を過ごしてるなんて誰も信じてなかったんですよ。きっと友達がいなくて一人なのが恥ずかしいって思って架空の友達を作りだしたんだろうってみんなで心配してましたからね。仕事は出来るのにプライベートはゴミみたいに過ごしているのに、私達がいくら誘っても先輩は乗ってこないし、誰も自分の近くに置きたがらないんですよね。そんな先輩が初めて社長に推薦したのがお姉さんなんですけど、そんな先輩が認めるような人は即断即決しないともったいないって太鼓判を押したんです。先輩は色々とお姉さんの良いところを説明しようと思ってたみたいなんですけど、それを伝える間もなく社長が判を押しちゃったんです」
「でも、どうしてそんな風に思ってくれたんですか?」
「僕は山下さんの言う通りで人付き合いが苦手なんだけど、お姉さんが美味しそうに煮魚を食べてるのを見て嬉しかったんだ。僕が作ったわけでもないのに変だと思うけどさ。でも、時間を重ねるごとにお姉さんから笑顔が消えて行って、それを取り戻したいなって思ったのが理由かな」
「でも、あの時食べた煮魚は本当に美味しかったですよ」
「じゃあ、次は仕事が終わってから一緒に食べに行きましょうね」
「はい、よろしくお願いします」
定食屋で始まる恋愛もある 釧路太郎 @Kushirotaro
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