蛇口と巡

「神とはなんだ」


 蛇口は少しだけ考えたが、すぐに素直な言葉を口にする。


「そりゃ心の支えだろう。神は存在こそしているが、ほとんどは人の目に触れないがな。俺は人外と出会い、幾度も屠りそう実感した。奴らが崇め奉る存在は確かにあって、しかし奴らの求める何かを有しているとは限らない。考えれば当たり前のことだ、良い奴もいるしそうじゃないのもいる。絶世の美女もいれば、力自慢もいる。当然ながらぐうたらも、酒好きも」

「それは私のことじゃないだろうな」

「力自慢などと吐かすつもりか?」

「いいや、違うけど」

「ではあっているじゃないか」


 春の風が部屋を洗い、吐き出す煙は草木の匂いにかき消され、飲み干した缶の中に吸い殻を入れた。


「あっている、のか」


 納得いかない巡はぱたりと横たわる。大の字になると布団から手も足も出てさすがに狭い。


「あっているとも。まあ俺が神にすがらないのは、ただそうしなかっただけで特に理由もないのだ。したい奴はすれば良い、俺はしない。理由はあってないようなものだな」


 巡はもう興味を失っているのだろうか、返事も適当に「ふぅん」とするだけである。


「運命の神よ、俺をすがらせてみたいか?」


 蛇口は新しい缶を開けた。


「別に」


 引っかかることがあるのか、巡はアルコールに目もくれない。


「ははあ、もしや酒好きと言ったのが気に入らなかったか」

「違う」

「ではぐうたら」

「うるさいな」

「ならば善悪?」

(こいつ、わかって言っていやがるな)


 睨み付けると蛇口はほろ酔いの頬をなお赤く染め、彼女らしいうざったさで、


「これが気になったか? 絶世の美女、俺がお前をぐうたら酒飲みと評するなかで、力や良し悪しのハズレまで差し込んだこのなかで、お前はこれが一番気になったか?」

「この野郎!」


 照れるだとか恥ずかしいとか、そんな単純な感情でさえ巡には難しいようで、酔いを演じることもなく、拳を固めて飛びかかった。


「うわっはっは! こら、暴れるな」

「馬鹿野郎! 神をからかうとはこの野郎!」


 巡は真剣な喧嘩のつもりでも、蛇口からすれば子猫がじゃれついているようなもので、傍目からは子どもの喧嘩、もっといえば溺愛する猫の甘噛みを享受する飼い主のようである。


「絶世の美女よ、俺の女神よ」

「うるさい! 良い加減に」


 蛇口は涙目になっている巡の腰に手を回し、暗殺者のような体捌きで彼女を自分の膝の中にしまった。あぐらの中に収まる巡、何が何やら混乱し渡された新しいビールに口をつけた。


「運命とは気まぐれで、時に絵にもかけぬ美しさを見せてくれる。俺の表裏を知る女よ、俺がお前に言った台詞にはたった一つの嘘もない。冗談はあるが嘘はない。美女だとか、咥えろだとか色々言ったが、それも全部親愛の証だ」


 蛇口がどんな顔をしているかはわからない。声音は真剣そのものだが、彼女に限ってそれはないだろう。


「ふん。神は残酷だぞ」

「もちろんそういう一面だってあるだろう。お前は俺の股をひどく打った」


 あれはさすがに効いたわ。蛇口の顎が真っ赤な髪に乗っかってぐりぐりと揺れた。


「お前にすれば、どちらかといえば俺が負けた方がよかったのだろう、そうすることで俺がどう変化するのかを知りたかったはずだ。なのに励ました。気まぐれだろうし、やり方は実に阿呆だったが、俺は確かに気力が満ちた。弱気が死んだ。あの瞬間だけは神に、いや違うな。神じゃない、俺の友人に感謝したよ。美琴、お前が俺を助けたのだ」


 巡は黙って缶を傾けている。唇は湿るが、舌にも喉にも触れない。


「救われている、と言った方がいいかもしれない。黒辻も火素も、お前の性格や在り方にかなり良い影響を受けていると思う」


 巡は煙草の箱に手を伸ばす。火は蛇口につけてもらった。小さな尻が動くたびに蛇口の胸が、流れてきた血流の温かみで高鳴る。


「何が言いたいのだ」

「別に」


 素直じゃない。巡は差し出された空き缶に灰を捨てた。


「感謝しているのは、私が神だからか」

「断じて違う。お前は友人で、同居人で、そして守るべき」

「お荷物」


 巡が先んじて、蛇口が頷く。


「そう。お荷物。そして」

「呑んだくれ?」

「そう。それだ」


 素直じゃない。じれったくなった巡は柔らかい背もたれに体を預けた。


「馬鹿にするなよ。お荷物の呑んだくれに盛って、ここをこんなにしやがって」

「俺だって相手は選ぶ。あなた様はただのお荷物じゃない。美しいお荷物だ。そこらの呑んだくれじゃない。愛すべき呑んだくれだ」

「どうせ私がいないと剣の管理ができないから、そうやって」

「そうとも剣の鞘みたいなもんだ。ついでに俺の剣のさやにもなってほしいのだが」

「殺す! 今殺す!」

「ガッハッハ! 収まらぬか、無理もない。天下に轟く逸品だ。俺ァ若いころ三日三晩しめて六人を相手したからな」

「うりゃぁああぁあああ!」


 巡の拳もなかなかやる、的確に蛇口の顎を撃ち抜いたが、殴られた本人はまだ何か言いたそうである。


「この! もう! 寝ろ! 糞ったれ!」


 缶が飛び中身が舞い、ちゃぶ台まで転がった。窓ガラスが割れず襖が破れなかったことは幸運だが、蛇口は巡の剣幕にただ苦笑しながらかなり長い時間逃げ惑うことになった。


「まて、一人を相手にしたこともある! おおシェリー、あの日の決着はいつつくのだろう!」

「念のため聞くが、それは刃のぶつけ合いか」


 肩で息をする巡は、蛇口の口先からでた悪ふざけで小休止をする。


「もちろん。俺の硬さと奴の柔らかさ、硬軟どちらが上かを競う術勝負よ」

「つまり」

「野暮だな、お前もよく知る俺の十八番の営みよ」

「お前なんか嫌いだ!」


 投げつけられたのは煙草の箱だった。軽々と受け止めて、


「わっはっは! 助平美琴め、俺の十八番だ、これ以外に何がある」


 と、そこから一本抜き出して、剣のように振った。刻まれた煙草の葉と風圧が春の空気を切り裂いてキッチンの冷蔵庫に小さな傷をつけた。二メートル以上はあったが、この斬撃飛ばしは彼女の剣の腕前を褒めなくてはならないが、こんな場所とタイミングで披露するものではなかった。


「落ち着け。ほら、こっちに来い」

「糞ッ、お前なんか嫌いだ」


 しかしのこのこ煙草に惹かれ、当然であるといわんばかりに蛇口の膝に座った。彼女はこれが蛇口に対する罰になると思っている。


「これはな、お前が雇った吸血鬼からもらったのだ」

「ああ、あの男か」


 ヨゼルのことを考えると、本当は女だとも言い辛い。男として生きているからには過去は隠しておきたいのだろうと、


「奴が白状したのだ」


 と、話を前に進めた。


「お前に頼まれたと」

「そうだとも。頼んだよ」


 ふっと吐かれたその煙が夜空のパレットにぶちまけられすぐに色を失う。眺めることさえできない速度で、しかしどうにか留めておきたいような心が満たされない自分でもよくわからない感覚、解決策は吐き出される口元を見つめること、官能的ですらある巡の唇にしか求めることができなかった。


「どうせお前は転生など望まぬだろうと思ってな。それに判事は高潔な人物だったらしい。私のわがままなど聞いてはもらえないだろうから」

「だから吸血鬼と、魔族と取引を」

「ああ。悪いか?」


 悪戯っぽく微笑する巡は、すでに酔いが回っていた。蛇口はその赤らむ顔を直視できず、適当に視線を動かした。


「悪くはないが、他の方法があったかもしれない」

「だろうな。まあいいじゃないか。それを選んで、こういう結果になったのだから。それでもまだ悪いと思うか」

「最高だとも」

「だろう。私がいなければこうはなっていない」

「ああ。大会での優勝もなかっただろう」

「この、また足手まとい扱いしやがって」

「喧嘩をするつもりはない。親愛の証さ」

「なら、もっと別な何かで示してもらいたいものだな」


 ビールが巡の喉を鳴らす。蛇口の喉は生唾によって鳴った。


「アルミテラが、よろしくと」

「げ、あいつに会ったのか。どうせ規則正しい生活とか、酒は控えるようにとか、そういえば黒辻に似ているかもしれないな」


 会話が途切れ、蛇口はこの火照りをどうすべきか悩んだ。


「こほん。感謝の心、この滾りでなら、いつだって示せるが」


 片手で抱き寄せる蛇口の手つきには下心など一切ない。しかし巡の尻には何かが触れた。甘く優しきその腕の中、アルコールと火の香る口元、囁かれるは「どうする」という有無を言わせぬ誘い。

 そして、やはり何かが触れる尻。このせいでかなり台無しになっている。


「蛇口よ、どうもこうもない。襲われると知った羊はもう草など食むものか」

「か弱く可愛い羊こそを狙って食うのが狼よ」

「だろうな。だが私は羊じゃない」


 巡は腕から脱出した。そしてされたことを同じようにし、いくらかアルコールは強く、そして「どうする」などとは言わず、蛇口の首に手を回し、さらには布団へと押し倒した。


「がお。狼だぞ」


 首筋をついばむ柔らかな刺激。唇はいやというほど熱かった。吸血鬼との激闘がフラッシュバックするも、この行為に伴う快楽の激痛が全身に広がった。蛇口は無意識で動く抱きしめるための腕を意識的に布団へと縫い止めておかなくてはどんな痴態で朝を迎えるのか想像もできなかった。

 食い殺すか食い殺されるかの二者択一、彼女は初めて殺されてやろうと思った。


 そこまで覚悟を決めると、首筋に食らいつく狼から与えられる痛痒が消えた。

 覆いかぶさった赤い髪を指ですくうと、安らかな寝息がしまらない口元から発せられているではないか。

 蛇口は珍しく絶句した。何が起きたのかわからず、巡の頬を軽く打ってみても現実は変わらない。


(黒辻に頭でも下げようかしらん)


 最低であると自覚はあるが、そのくらいには凹んでいる。お預けをくらい、流れの中とはいえよしの声がかかったかと思えばそれもまた幻想であり、生殺しの上でまた半殺しにされたような、血の気の失せた彼もしょんぼりとしていた。

 これほどまでに力んでいたのかと、深呼吸をすると全身が柔らかく布団に沈むのを感じた。同居人の重さが心地よいのが腹立たしくもあり、嬉しくもある。


(剣があって鞘もあるのに、この白刃はまだ下着の中か)


 便所で、と思うものの、掛け布団から抜け出すのも惜しい。このままするには無理があるし、何よりこの窮屈さの中で眠りにつきたかった。


(攫われて、ヴァルキリーと吸血鬼を相手して。最後に神を寝かしつけて。素晴らしい一日だよ)


 背をさすってやるとくすぐったそうに身をよじる。やけに温い。


「ああ素晴らしい一日だった。こんなのが続くんだ、楽しいねえ、まったく」


 目を閉じる。どんな夢を見るか、夢から覚めたあと虚しくならないか、それだけが心配だった。

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