転生の裏側


 距離を詰めようにも蛇口の速度は走るよりはましというもので、巡は早々に諦めた。玄関には揃えられたスニーカー、感化されて近頃は自分で直す癖がつきつつある。


「まずは一杯っと。ほれ」


 両手に缶を持ってちゃぶ台へ運んだ。巡はずっと日常の中にいる。日々の延長にいる。変わるはずがないのだ、事情を飲み込んでいるのは蛇口だけなのだから。

 差し出されたビール缶の冷たさに持つ手が震えた。冷たさのせいにしたが、臆病は消えてはくれない。


「お前があれか、俺を転生させたのか」


 単刀直入としたのではなく、思わずそうなってしまった。無敗を貫き最強を射止めんとする蛇口ですら、不思議と緊張していた。

 巡は何を想ってか、一瞬表情を固め、蛇口の持つ小刻みに震える缶に口をつけ、そのまま怠惰に傾けた。


「そうだよ。何を今更。お前が何を成し遂げたかったのかを知りたいと、はっきり言ったはずだ」


 こうもはっきり答えられると、自分が戦乙女や吸血鬼と戦ったことが馬鹿らしくなる。だから、子犬に乳を与える母犬のように、傾けた缶もそのままに、彼女に現れたちょっとしたよそよそしさを捨てることにした。


「俺はなりたいものなんかなかったよ。その日暮らしで、つまらん人間だった」

「ふーん。そうか。何にもなりたくなかったのか」

「将来の夢などと甘いことは言っていられなかった。成り行きで色々やったが、本当にしたかったかどうかはわからない」

「私はてっきり、世の中の全てをぶっ壊すとか、人類絶滅とか、良からぬ企みがあるのかと」


 そうでなければあれほど荒れた生き方はしない。巡は彼女の記憶にあるルカ・ジカルドに思いを馳せた。


「幼い妄想だな。確かにありふれた裕福や万人受けする幸福とは少し違う幼少期は過ごしたが、そんなことは考えもしなかった。つまりは、まあそれなりに幸せだったのだと思う。剣を枕に寝ることも、泥と血で喉を潤すことも、命しか懸けるものがなくとも、どれだけ忌み嫌われても俺は、根っからの楽天家なのだろう、なんとかなると常々思っていた」


 餌付けのように手ずから与えたビールの缶、そっと巡の唇から外した。


「どうだ。俺は何にもなりたくはなかった。これが答えだが、お気に召したか」

「うん。わかった」

「あっさりしているな」

「神とはそんなものだよ。それに、お前が今生で何に成りたいかはもう聞いたし」


 珍しく酒量少なく寝転がった。


「言ったか?」

「私の盾になるのだろう?」

「それは俺じゃない。黒辻らの役目だ。俺は、そうだな、盾であるより剣であった方が良い。重い荷物を背負うにはちょっと非力だ」

「だーれがお荷物だ」


 巡は頬を膨らませ抗議し、そしてぱったりと会話をやめた。酒を飲むことも腹が減ったと吠えることもなくただ寝そべっている。手慰みか、布団にのの字を描き、蛇口と視線を絡めた。


「一番強くなるって、あれは嘘か」

「本気だ。他人ならば無理だと笑われてもおかしくない夢だが、俺にあってはそうじゃない。叶えられる目標だ」


 巡の寝返り、蛇口のあぐらに足が当たり、なんとなく撫で擦った。


「それが聞ければいい。でもよかった、人には過ぎたる力を持つ者には、大概イカれた望みがあるからなあ。平和と破滅の二極、あとは復讐も多い」

「最強とはかなりありふれているだろう」

「負けたくないという願いもな。だが普通は口にするのだ。何かにすがるのだ。人生において一度は心が弱くなるもんなんだよ。それがお前にはなかった」

「俺だって、口にしたじゃないか」

「それは神がここにいて、知らぬ仲でもないからだろう。ルカ・ジカルドはそうではなかった。人知を超えた存在を目の当たりにしても、奴は態度を改めなかった」

「それは」

「不幸なのは神のせい。幸福なのは神のおかげ。信心深さがなくとも災いや奇跡はそうとする」


 それを己に浴びてきた彼女だが、湿っぽさはない。いつもの巡であるし、それはいつものフォルトナでもあった。


「私はいつも考えていた。どうしてこうも我らは、その、なんというか、誹謗や崇敬の対象となるのか。そりゃあ力はある。連中には過ぎたる力が。だが、なぜ自分の中で決着をつけないのだろうか不思議だった。奇跡は己の実力と、悲劇は選択の間違いだと。信心深い者だからといって決して幸福だけを得ているのではないと、人間はいつだって理解しているはずなのに」


 宿命のような神への怨嗟と喝采を彼女はずっと疑問視し、神ではあるが個人としての感情に身を任せていたからこその怠惰だった。運命とはわずかな分岐でも大きな結果に繋がり、そのため過干渉は求められていない。だからといって真に助けを求める者にその正当な理由や環境、境遇があったとしてもフォルトナはただ眺めているだけであった。

 重要な選択には手を出さない。そんな彼女なりの意図があってそうしていたし、もちろん性格もあるが、徹底していた。

 しかし手を出していないのにも関わらず、自分への嘆きや賛美はなくならない。それが彼女の疑問であり、そしてその当たり前から抜け出しているジカルドに興味があった。


「俺はあそこで死ぬはずだった。この現状が幸か不幸かはわからないが、俺にはどうにもできなかった。これを神の御業とせずなんとする。要は、こういうことだ」


 人力ではどうにもできないことは全て神の仕業。人間はみんなそうなのだ。饒舌なくせに口が寂しくなって蛇口は窓を開けた。ポケットを探り、ヨゼルにもらった煙草に魔法で火を灯す。


「吸うか」

「お前のせいで禁煙は失敗だ」


 二人して窓辺に寄り添い、安っぽくキラキラとひかる民家の灯りを眺めた。


「神とはなんだ」


 紅蓮がそよぐ。煙の向こう、怠惰で酒飲みの彼女は、その瞬間だけは人心に憂う神だった。


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