いつにもまして不審な蛇口
「必要なものは揃っていますので。ご健勝を祈っております」
戦乙女によって案内されたのはウェストリード首都近郊にある小さな村だった。ヨゼルと一緒に来た戦乙女はきっちりと護衛の任務だけを行い、さっさと帰ってしまったので、一人安い宿場に置き去りにされたヨゼルはとりあえずはとベッドに腰掛けた。
「家まで結構あるんだよねえ。観光でもしてのんびりしようかな」
必要なものが入っているらしい袋を逆さにすると、だいたい三日分の旅費しかない。アルミテラの熱弁通り、かなり乏しい。
そしてひらりと紙片が落ちた。
「次はないぞ、か。あの女、鋭いな」
気がついていたのであれば旅費代は最大限の優しさであろう。
油断ならないとアルミテラを見直すと急にワクワクしだしてきた。蛇口との戦闘の火がまた別なところへ燃え移った。
「会いたいなあ」
吸血鬼は宿の窓を開けた。足をかけ宙に身を投げると、晴天の下に黒い霧がわっと散布され、陽光にしずしずと溶けていった。
「ぐわ!」
黒辻飾は授業を受けていた。それも真面目にだ。隣の赤毛の少女のように睡魔と戦うこともなく、後ろにいる愛すべき阿呆のように睡魔に降伏することを望むということもない。
それどころか授業を抜け出した蛇口のためにノートまで取っている。廊下で消えてから二時間も経っている。休み時間に良順に訊ねても、
「再戦か? 違う? じゃあなんだ、蛇口だと、知るかァ」
と怒鳴られる始末である。
そんな黒辻の悲鳴は、五時限目の最中に響き渡った。
虚空から降ってわいた蛇口に押しつぶされ、机を巻き込んで派手に地に伏せったのだ。
「お? 教室か、よう赤毛。全く美琴はいつもの通りで嬉しいわ。はて黒辻はどこだ。便所か」
その蛇口はなんの偶然か、黒辻が座っていた席に収まっている。
ちょいちょいと火素が下に指を向ける。眠気は完全に去ったらしい。
ぐったりしながらも黒辻は、そこは彼女らしくお姉さんっぽく振る舞いたいのだが、唐突も暴力にも慣れているにせよ、激情を抑えよというにはあまりに非現実的すぎた。
「蛇口ィ、どうして廊下から出て行って頭の上から帰ってくるんだ!」
ガクガクと揺らすと首ふり人形のようにされるがままで、蛇口は黒辻のもっともな怒りを受け止めた。
「喜べ、武勇伝が増えたぞ。明日にでも聞かせてやるから、な、落ち着いてくれ」
「だァからなんだ! この」
何が何だかわからないが、楽しそうなことになっているなと火素は「へえ、どんなやつ」と武勇伝の中身を聞いた。楽しそうではあるが、二人の興味を移すことによって騒動を収束させようとした。
このクラスはおかしい。化学教師は明らかな授業妨害をする集団を、むしろ誰も止めないことに危機感を持った。注意してもきかなそうだし、早く進めろと目で訴える生徒を無下にするわけにもいかない。
「そこ、席について大人しくするように。教科書は次のページ」
当たり障りなく教員の義務を全うし、意外にもその迷惑な生徒たちは指示に従った。
「吸血鬼との戦いだ。それそれは激しいものだ」
「そりゃあよかった」
「糞ッ、ノートなんか取っていた私が馬鹿みたいだ」
「口が悪くなってるぜ、いい眠気覚ましになったじゃないか」
「私は寝てなどいない!」
黒辻はホームルームまでぐちぐちと文句を言っていたが、下校になると蛇口は表面上しおらしく言う。
「機嫌を直してくれ、我が王よ。俺の小さな心が霧で陰る。あなたの太陽のような御心で振るわれるべき言葉の矛を収めてくれないだろうか。頼む、わがままを許してくれ、霧などしばらく見たくもない」
(こいつ、下手な詩人みたいなことを言いやがる)
新入生大会で優勝した蛇口たち、その中でも圧倒的な存在感を放ったのは、黒辻でもなく火素でもなく、蛇口でもなかった。巡美琴というダークホース中のダークホースが密かに注目されていたのだ。各員が激闘に次ぐ激闘で疲弊し流血する中、彼女は終始見守り続けるという謎を通り越してそういう作戦であるかのように見えていた。
現にそうである。しかし巡がそういう指示を受けていたとはいえ、彼女ができることといえば基本的に彼女ができると宣言したことに留まっており、かなりハラハラしたり喜んだりしていた。ただ、衆人には気づいてもらえず、
「眠れる獅子」
などという大げさすぎる渾名をつけられていた。動じない彼女の性格が大いにこれを助けていた。
その巡は結局ホームルームの最中に宝に叩き起こされて、寝ぼけ眼での帰り道である。
「で、なんで降ってきたんだ。よりにもよって私の上から」
「だからヴァルキリーがだな」
「北欧神話じゃん。ネタがなくなったのか?」
「ネタじゃない。いるんだよ。なんか人さらいみたいなことをするんだ」
「はっはっは。フォルトナ様も似たようなことをなさっていたわ」
「おーい、お前らにしかわからない符丁を使うなよ」
にやけた蛇口は、黒辻たちにはなんら変わりないいつもの彼女に見えた。ただ、蛇口をよく知るものが、もしくはルカ・ジカルドをよく知るものならば気がついたであろう異変がある。
四人がそれぞれの帰路へと別れる交差点、夕日はまだ元気を保ったまま夜の足音をかき消している。追い越せずとも振り切れぬ天地の定めを空に描き、にやけた女は仰ぎ見て、
「それでは」
と、素早く顔を隠して背を向けた。巡を置いて独り家路を急いだ。
「なんだよあいつ」
「変なものでも食ったんだ。廊下と頭の間でな」
「まだ言ってら。機嫌直せよ飾ちゃん」
ぎゃあぎゃあと騒ぐ赤黒に手早く別れを済ませ、巡も足早な背を追った。
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