優秀な私たち

真瑠

優秀な私たち

 時が過ぎてから気づくこともある。本当に最近になって、「結構かわいかったじゃんね」と昔の自分を少しだけ抱きしめてあげたくなる。「そんなに卑下しなくてもいい、よくやっていたじゃない」と。周りに誰も自分のことをかわいいという人間はいなかったけど、今私が手を握ってそう言ってあげたいような気持ちだ。

一生懸命に西都さいとを好きで、西都を追いかけていた。いつも成績優秀で、音楽も運動もできる西都が眩しかった。西都と自分を比べて、どうにかして釣り合うようにいつも努力していた。でもそんな風にしか自分を見られないことが、悲しいような気がして、曖昧な寂しさからいつも、逃れられなかった。だから私は西都に会うのが好きなのと同時に本当は片想いのままでもよかったのにと少し思っていた。面と向かって抱きしめられると、私はそれほどの人間ではないと説明しなければいけないような気がしていたものだ。

 親に勧められて教職課程を取り、教育実習をしたが私は教師になるのはやめようと思った。訳のわからない校則で子供たちを縛る側に存在するのは辛い。絶対にやめよう、何をやるのかは知らないが会社員になろうと思った。

 集団生活の居心地悪さを思い、普通の大企業に就職したら辛いだけだとわかっていた。かといって、大学院で研究したいこともないしフリーで何かできるほどの才能もない。両親が就職してほしいというのに逆らう気概もない。仕方なく、小規模で何をしているか分かる会社に応募した。それは留学を斡旋したり、留学についての情報誌を作っている会社だった。見ようによっては、詐欺のような物だけど、詐欺のような物ではない仕事をするにはまず詐欺のような仕事をするしかないのだ、と自分に言い聞かせた。アメリカに短期留学をしたことがあったし英語も得意だったので、私は採用された。それは自分でも驚くほど心が痛いことだった。

 西都に再会したのはそんな風にして会社員になって4年が過ぎようとしている頃だった。私はその頃、鹿嶋という仕事で知り合った助教授に交際を申し込まれていて、ほぼ、つきあおうかなという気持ちになっていた。けれど、熱を上げていたわけではあまりない。鹿嶋との関係には、高校の時からの友人の酒井仁美の結婚が少なからず影響していた。国家公務員で優秀で美しい仁美が同じく優秀な同僚と結婚したのが気になっていて、私も少しでもそのようになりたい気持ちがあったのだ。鹿嶋はそのような観点から見て、とても適した存在だったし、優しかったし、全然悪くないと思っていた。

 そのバーは会社から3駅離れたところにある。以前会社のプロジェクトで知り合ったオーストラリア人に紹介してもらった店だ。地下に降りていくと、バーテンダーが好きなカクテルを作ってくれ、おつまみみたいなものも出してもらえる。一面、壁が真っ白で、まるで宇宙に出かける前の控え室みたいで、なぜかそのせいで一人でも入りやすかった。バーカウンターは広く、コの字状になっていて店の一番奥にあり、そのほかには、立ち飲みできるスタンドがいくつか、壁際には小さなテーブルとスツールも並んでいた。それから、コーナーソファのある半個室席が3つあり、中で親密に話している人々がいつもいる。ここに来るのは、学生アルバイトのバーテンダーの小川くんと話していれば気楽だからだ。そこで私は西都に再会した。

「仁美のこと覚えてる?」

「仁美?ああ、酒井仁美?」

「今、優秀な官僚なのよ、それからね、そこで優秀な同僚と結婚したの」

「へえ」

「それでね、私、友達なのにあんまり嬉しくないの」

「へえ、なんで?」

「何でかな、何で私、仁美のようにできないんだろうって思っちゃうの」

「それで、意地悪してるわけ?」

「意地悪なんてしない、すごいなあ、おめでとうって言ったよ」

「へえ、嘘ついたってこと?」

「......それも嘘じゃないの」

お互いの近況も話していないのに、私は共通の友人の近況について語った。

「彼氏いるの?麻里香」

全然、まったく西都は私に遠慮というものがない。不思議だった。なぜ私たちは疎遠になっていたのだろうか。まあ、西都は私に飽きたのだろう、恐らく。そういうことって起こるものだ。そして西都は真面目で正直者なのだ。

「......」

「なんで睨むのさ」

「べつに、そのような人はいる」

「なんだそれ、って、なんだって」

「うるさい。小川くん、なんかほかのないの、カンパリソーダじゃなくて違うのが飲みたい」

「違うのってどういうののことですか」

「私が今飲みたそうなのってこと」

小川くんは困ったなあという顔をする。自分でもこんな風に若者をからかうのはいけないと分かっているのだけど、小川君は優しいできるバーテンダーなのでつい無茶苦茶言ってしまう。酔いたかった。

「そんなことばっかり言って小川くん困らせるなよ」

西都を見た。スーツなんて着ている。ちょっと前は制服を着てたのに。まあ、自分もだけど。もう一度西都を見た。変わらない。ちゃらちゃらしてそうに見える。ちょっと優しそうに見える。そして、まともそうに見える。きっと彼女もいる。ああ、お手頃だ。たとえちょっと遊んだとしてもストーカーになって私のことを殺したりはきっとしない。付き合ってくれ、料理してくれ、結婚してくれなんてきっと言わない。最低な女だ、好きだったのに、などともきっと言わない。きっと遊んでくれる、今の西都なら。

「麻里香」

「何」

「今俺のこと見てさあ、ああ、多少遊んでも、付き合ってとか言わなそうだし、お手頃そうだし、まあ安全そうだし、ちょっとぐらい遊ぼうかなって思ってただろ」

「何よ、失礼。そこまで考えてない」

「へえ」

「あの、お客さまは何かお飲みになりますか」

「俺は、麻里香のいつものやつ」

「は、はい」

「じゃあどこまで考えたの?」

「多少遊んでもいいかなぐらい」

「ほらね」

「人のことおばさん設定しないでよ、年同じなんだから」

私は確かに少しずつ酔っていった。小川くんが今日、何を出してくれたのかわからない。甘い、いつもより、ずっと。

「じゃあ、俺のこと好きって言って」

「はあ?好きじゃないもん、もう名前も忘れたもん」

「いいから言ってみて」

「何で」

「いいから」

「好きじゃないよ?」

「知ってるよ」

「西都、好き」

「俺も麻里香が好き」

知らないうちに隙間がなくなっている。

「......嘘ばっかり」

「嘘じゃないさ。小川くんと仲良しなの?」

「仲良しに決まってるじゃん」

「妬けるな」

「何それ、私は付き合ってる人が」

「付き合ってる男のことはあんまり好きじゃないんだろ、麻里香だし」

「そんなことない」

「小川くん、お会計」

「勝手なことしないで」

「酔ってるからもう行くよ」

西都はどこだかわからないホテルの部屋まで私を優しく連れて行き、しょうがないからみたいに私を抱いた。とても懐かしく、ふわふわした気持ちだった。本当はもっと普通に話していたかった。もう子供じゃないのだし。でも西都の手が私の体を的確に撫でるせいでできなくなる。言葉になる前に、言葉にならない声が出るせいで、全然喋れなくなる。もっと憎まれ口を叩いておきたいのに。

「言って」

「何を?」

「さっき練習したじゃん」

練習って一体何だ。

「何を?」

「もう忘れたの?麻里香、ほんと、何でもすぐ忘れるんだからさ」

何の話かわかったけれど、こんな時に言うのは嫌だ。

「西都」

「麻里香、さっき教えたじゃん」

西都は動きを止める。顔を耳に近づける。

「お願い、言って」

「......西都、好き」

「俺も麻里香が好き」

ぎゅっと体に力が入り苦しくなった。急に、もう逃げたくなる。あるいは自分から、動きたくなる。そうすれば、全部、すぐに終わることなのだから。でも、西都が乾いた手で私の腰を抑えて離さない。

「もう1回言って」

「いや」

「じゃあ、ずっとこのままだけどさ、いいのかな」

「いや、だめ」

自分でもびっくりするぐらい、悲鳴みたいな声が出る。おかしい、やっぱり飲みすぎたのだろうか。

「じゃあ言って」

「西都、好き」

「いい子」

ぎゅっと抑えられていた腰の手が緩まる。でもその手はそのままそこにあって私の体が自分からどのように動くかが西都にわかるようになっている。それだけなのに、そこに手が置かれているだけなのに苦しくてたまらない。

「違うの」

「何が」

「違うの、本当は違うの」

「何が」

だから、普通にしていたい。こうしてる時も、さっきまでみたいに。よく小説なんかでもあるじゃないか。こんな風にしてる時も普通にしゃべっていたり、笑っていたり。だいたい三大欲求の一つに過剰なロマンチシズムを付加するのはやめてほしい。特に女にだけ。少しは遊ばせてほしい、昼ごはんを食べるように。もう私は少女ではないのだし、昼ごはんを食べてるだけなのだ。だから、誰にも見せたくない。西都にも見せたくない。弱くなりたくない。ただ必要だからしているだけというようにしたい。でも息ができない。

「西都」

西都の名前をもう一度呼んだ。彼は耳たぶの外側だけに唇の輪郭の外側だけに優しく口づけた。

「これがいいの?麻里香」

「...」

「どうして欲しいか言って、麻里香」

「やだ、やめないで」

「どうして」

理由を聞かれただけで私は背中をぎゅっと硬くした。

「どうしてか言って、麻里香」

 彼女がしてほしいと言ったからしたんだけど、途中でやっぱりやめてほしいというのでやめたら、もっと強い口調でやだと言われて、どうしたらいいかわからなくなった、というようなふりをして彼女を抱いていた。だんだん息が上がっていくのが愛しくてそのまま、ずっと、なるべく、じっと動かないように耐えていた。

 久しぶりに会った彼女に彼氏がいるのか聞いたら、はっきりと答えないのでやはりいるのだろうと思った。でも、彼女が若いバーテンダーと愉快そうに絡んでいる様子を見ていたら、このまま帰してはいけないという気持ちになった。酔った彼女を置いて、トイレに行き、近くにある少しだけ大きなビジネスホテルを予約した。席に戻ってすぐに彼女を連れて行くことにした。もちろん、彼女にその気があるのか確認してみた。彼女は遊びたそうに僕を見ていて、遊びたいのだと言ったので、それはそんな意味だとわかった。つまり、それは僕たちの以前からの語彙なのだ。いくら彼女と付き合っていたからと言って、無理に連れて行くような気持ちはなかったけれど、どちらかといえば、ちょうど良いと思われていたのは自分の方みたいだった。エスカレーターでもエレベーターでも僕たちはキスした。ほとんど人はいなかったせいだし、顔を寄せて振り返ったのは彼女の方だった。ホテルに入る前に彼女はコンビニに行かなければいけないと言い、アイスだの避妊具だの楽しそうに選んで買った。

 人間の一生を80年ぐらいと考えれば、自分たちはまだ若い方だと思う。でも彼女と付き合っていたのはもっと若い時に起こったことだった。高校生の時、それから大学に入って途中まで。麻里香と付き合って別れてから、会いたくなかったのは、きっと彼女は昔のまま、世間に抗ってたとえ小さなことでも自分が納得する生き方を踏みしめるような、そういう生き方をしてるだろうなって知っていたからだ。そういう、ふらふらと人気を気にして流されながら生きてる自分とは正反対の。でも彼女に会ったら、欺瞞が自分の中で明らかになるのは避けられない。そういうのが苦しいから、会いたくなかった。

 でもその店に偶然同僚とやってきて、バーカウンターを見たら、その日突然彼女は目の前に現れた。彼女は僕の予想通り、いらいらするほどの真面目さで、わざとらしく、不真面目に、生きていた。不思議なくらい、自分は彼女がどうして欲しいかわかった。付き合っていた時にはこんな風に思ったことはなかった。彼女の小さな不満みたいな物に触れていた気がしたけど、それが何なのかはずっとわからなかった。でも、今は彼女にそれが何なのかを言わせてあげたらきっと喜ぶだろうとわかった。実際に、どう思っているかが重要ではないのだ。安全にただ、主導権を手放させてあげれば気持ちが良いと思うだろうと思った。そして彼女にそう言って欲しかった。自分でも、驚くほど。

「西都、好き」

「俺も麻里香が好き」


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

優秀な私たち 真瑠 @marufror

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ