後編
「お帰り、菜緒」
骨みたいにやせた顔色の悪い母が玄関で微笑んだ。
「……ただいま」
靴を脱いでフローリングに上がる。
「勉強はどう?英語や国語だけじゃなくて、数学や物理もちゃんと勉強するのよ。理系なんだから。ご飯食べた後すぐに勉強しなさい」
私はうなだれたままつぶやいた。
「……今日は休みたい」
すると母は肩を怒らせて詰め寄った。
「何言ってるの。恋せず、結婚もせず、一人で強く生きてくには学歴が……」
目に入るもの、耳に聞こえるもの、全てが煩わしくて、気付けば私は怒鳴ってしまっていた。
「うるさい! 失恋したんだよ。お母さんは傷心の娘に無理させるの? 今日くらいいいでしょ?」
「あなた、何言ってるの。失恋って」
母は唖然とした表情で、それでもすぐに私を睨みつけた。
「好きになっちゃったんだよ。勝手に。望んでもないのに!」
私は母の脇をすり抜け、自分の部屋へと走った。そのままの勢いでカバンを投げ出して、ベッドに飛び込む。深く瞼を閉じると、過去のことを思い出した。
私と町田が出会ったのは、保育園の頃だ。どんな風に出会ったんだっけ。
一人で寂しそうにしてた町田に、私が声かけたんだったか。
町田は気が弱い子だから、おままごとでいつも父親役押し付けられてたんだっけ。私はそれを脇から見るだけだった。保育園児ながらに関わったら面倒くさそうだ、とか思ってたんだろう。だけどある日、町田は頑張って勇気ふり絞って、嫌だって言った。お母さん役やりたいって。
でも残念ながら、ここは頑張りが必ずしも報われる世の中じゃない。
その勇気が仇となり町田は仲間外れにされてしまった。
最初は同情だったかもしれない。とにかく私は一人ぼっちの町田に、声をかけた。私に声をかけられた町田はきょとんとしてた。警戒しながらこちらの様子をうかがう、人を初めて見た山奥の鹿みたいな反応だった。また父親役押し付けられるとでも思ってたんだろう。「なおがおとうさんやる」、って言ったら、いきなりニコっと笑うもんだから、つられてか、私も笑った。その日から、町田は私のお気に入りになった。
将来結婚しよう、なんてませた約束もしてたっけ。保育園児は模倣が好きだ。そもそもおままごと自体が模倣だ。模倣の源は両親だったり、ドラマだったり、いろいろある。多分ドラマから婚約のシーンを引っ張ってきたんだろう。当時の私は、結婚は悪魔の儀式だ、と英才教育を受けてたから、町田に合わせて仕方なく模倣したんだと思う。疑問を抱きながらも町田と婚約したわけだ。
疑問と言えば、町田は私が父親役を引き受けた理由に興味津々だった。
「どうしておとうさんのやくするの?おとうさんすきなの?」
「おとうさんいない」
「えっ。そんなわけないよ。うそつかないで。どうしておとうさんするの?」
周りの女の子は皆、父親役を嫌がってたから、当然の疑問だとは思う。だけど私はあまりその質問をされるのが好きではなかった。保育園児なりに、父親がいない事へのコンプレックスでもあったんだろう。父親役を進んで引き受けたのはその裏返しかもしれない。だけど当時の私にそんな事分かるはずもなく、町田の満足のいく返答は卒園した後も出来なかった。
目を開ける。結構昔の事覚えてるんだな。意外と記憶力良いのかも。何の埋め合わせにもならないけど。むしろ辛くなる。私と町田はずっと一緒だったから、昔を思い出すほどに町田のいない今を再確認する羽目になる。だから思い出すのはやめよう。しんどいだけだから。
だけど私の瞳は棚の中の卒業文集を映していた。中学時代のものだ。ベッドから起き上がり、のそのそと棚に向かい手に取り、そして開く。
町田が書いた文章には、私との思い出がたくさん書かれていた。最後には、菜緒と同じ高校に進めて嬉しいです。高校でも大学でも仲良くできたらいいなと思います。ずっと一緒に居たいです。という言葉があった。
なんでこんなことになっちゃったの? 私だって、ずっと一緒に居たいよ。町田。
気が付くと、涙と嗚咽がこぼれていた。
赤ん坊は、みんな泣く。母親とへその緒のつながりを断ち切り、自力で呼吸するために泣く。外の世界で生きるための第一ステップが泣く、と言う行為だとは私も知っている。だけど、今だけは、産声の理由が、この世に産み落とされた辛さ故なのだろうと思えてならなかった。
*
私は泣き疲れて深い眠りに落ちた。
カーテンの隙間から差す朝日に照らされてもなお、まどろみの中にいた。
起き上がる気力がなかった。学校に行かないとな、とは思うけれど目覚めることはできなかった。私の人生は町田なしには成立しない。お母さんが私なしに生きられないように、私だって町田なしには生きられない。
体から力が抜け落ちていく。人付き合いなんてお母さんの言う通り、毒でしかなかった。いまなら人を拒絶するお母さんの気持ちもよく分かる。持たないものは、失いようがないのだ。裏切られて見放されることがどれだけ恐ろしいことか。心に深い傷を残す行為か。ため息をつく気力すらもない。
私は掛布団にくるまって、まぶたを固く閉ざした。
突然、鞄の中の携帯が振動した。私は薄目で音のする方をみつめた。私のスマホの電話番号を知っている人は、お母さんか、あるいは町田。その二人だけだ。でも後者はまずあり得ない。
私は布団から出て、カバンを開いた。昨日はお母さんにとんでもないことを話してしまった。失恋しただなんて信じていた娘から伝えられたお母さんは、きっとまた精神を不安定にさせているに違いない。お母さんの味方は、生きる意味は、この世に私だけなのだ。
私の生きる意味が、町田だけであるように。
電話に出てあげないといけない。重い体のまま、私は携帯を手に取る。
だけど暗い部屋で煌々と輝く画面には、信じられない名前が表示されていた。
「町田」
心臓がほんの一瞬止まったような気がした。目をそらしたいのに、そらせない。その二文字は信じがたいほどの重力を孕んでいた。近づきすぎれば押しつぶされてしまいそうな、だけれど遠ざかることもできないような。
私は震える指先で、電話に出た。
「……もしもし」
「菜緒。今日、一緒に学校休もう」
まどろんだ空気が一気に晴れるのを感じる。
「……どういうこと?」
「一緒に出かけようよ」
これまでどこかに出かけるときは、いつも私が菜緒を誘っていた。町田が私を誘うことなんてほとんどなかった。だから私はその言葉に違和感を感じずにはいられなかった。不吉だとさえ思った。
もしかすると、町田は、私に今生の別れを宣告するつもりなのではないか。そんな恐怖で足がすくんだ。
それでも私は町田に会いたかった。直接、町田と話したかった。
「……どこに?」
「水族館とかどうかな」
「分かった」
「待ち合わせはいつもの場所でいいよね?」
「うん」
*
おしゃれな服なんて私は持っていない。一人で生きるあなたに、おしゃれなんて必要ない。母はそう言って私に制服と寝間着以外の服を買い与えてくれなかった。
私は制服を身に纏い自分の部屋から出る。いつもならもう出勤しているはずの母が、どうしてかリビングの椅子に座っていた。気だるそうに背もたれにもたれかかっている。
「あなた、今日学校休むつもりでしょ」
「……なんで」
「昨日の様子をみてたらわかるわ。一体どこに行くつもりなの?」
眉間にしわを寄せた母が、凄い剣幕で問いかけてくる。幼いころぶたれた恐怖や、包丁を向けられた恐怖のせいなのかもしれないと客観視してみるものの、体の震えは抑えられない。
「……なんで教えないといけないの」
「教えなさい!」
怒鳴られて体が跳ね上がる。気付けば、手にためた水が指の間をすり抜けていくみたいに、真実を話してしまっていた。
「……水族館」
「一人で?」
「……二人」
「誰と行くの。まさか、昨日振られた人と? やめておきなさい。女と違って、男は性欲で動くのよ。そいつはあなたの体のことしか考えてない。遊ばれて捨てられるのが関の山。お母さんが断ってあげるわ。さぁ、電話、貸しなさい」
まるで人の全てを理解しているような気になって、ご高説を垂れてくる母を今日ほど憎たらしく思った日はなかった。町田はお母さんのいうような人間じゃない。あの人は、私の理想だ。
羨ましいと思ったことはなんどもある。嫉妬心がなかったと言えば嘘になる。それでも私が今日まで生きてこられたのは、町田がいてくれたからなのだ。不幸になって初めて幸せに気付くみたいに、私も町田に距離を置かれてはじめて気付いた。
恐怖は抑えられなかったけれど、それ以上の怒りが湧きあがってくる。こぶしを固く握りしめて叫んだ。
「……嫌だ!」
「何言ってるのあなた!」
「女の子だから。私が好きなのは、女の子なんだよ。町田をかすめ取る男なんて大嫌い」
「町田? まさか。菜緒。だめよ。女の子もだめ。今すぐお母さんに携帯貸しなさい。早く!」
母はひどくうろたえた様子で、私に手を差しだした。だけど私は睨みつけて拒む。
「女子も男子も好きになるなって、それじゃ私、誰を好きになればいいの? 犬? 猫?」
「今まで信じて来た相手も、これから先ずっと信じられるとは限らないの。ある日突然裏切られるなんてことが、この世ではよくあるの。菜緒もその子にひどい目にあわされたんでしょ? お母さんは菜緒に苦しんでほしくない。だから、苦労せず一人で生きていけるように理系を選ばせた。勉強をするようにも言った。諦めなさい。金輪際、人を好きになってはだめよ。菜緒は一人で生きていくの。楽しくはないかもしれないけど、苦しくもない。菜緒は、お母さんみたいにならないで。信じて裏切られるくらいなら、最初から信じないほうがいいのよ。賢い菜緒なら分かるわよね?」
私には町田しかいない。お母さんには私しかいないのかもしれないけど、私にだって町田しかいないのだ。
「町田がいないなら、私、死んでもいい。この先ずっと一人で生きて行くらいなら、今ここで死ぬ」
「菜緒」
「全部お母さんのせいだよ。私が、こんなに苦しんでるの。会いたくないのに、会いたい。こんな矛盾した気持ち、お母さんにわかる?私が町田を好きになったのは、お母さんのせいなんだよ!」
私に父親がいれば、町田とは出会わなかったんだ。町田の事、好きにならなかったはずなんだ。でももう手遅れ。好きになってはいけない。自分を苦しめるだけだと分かっていても、町田に会いたいという気持ちをどうしても抑えきれない。
私は母を振り切り、玄関に向かった。
「菜緒も私を裏切るのね」
母が寂しそうに、つぶやいた。私を失った母の未来が脳裏をよぎる。
「私は町田って男に捨てられたのよ。あなたもどうせ捨てられるわ。その町田って女に」
不意に聞こえた捨て鉢な声に、足が止まりそうになる。それでも私は無理やりに進んだ。名前が同じなのは、きっと偶然だ。町田は私を捨てない。そう心の中で繰り返しながら。
*
曇り空の下、待ち合わせ場所につくと、制服姿がすぐに目に入った。私に私服がないことを気にかけて、同じ格好で来てくれたんだろう。いつだってそうだ。町田は私のことを思いやってくれた。だからこそ理解できなかった。どうして男子に告白された程度で、あんなに冷たい態度をとるのか。
恐怖で足がすくんで、私はなかなか町田に声をかけられなかった。気が遠くなるほどの間、逡巡した。もういっそ帰ってくれたらいいのに、とさえ思った。だけど町田は時計の下から動く気配をみせなかったし、ついには私を見つけてしまった。その上、にこりと微笑んだのだ。まるでこれまでのことを全て忘れたかのように。
だけどすぐに笑顔は消えうせる。まるで人でも殺したみたいな、これまでみたことのない重苦しい表情に変わる。もしかすると私も似たような表情をしていたのかもしれない。歩み寄ってきた町田はそのままの顔色で私を抱きしめた。
「……町田?」
「ごめんね。菜緒。ごめんね」
周りの人の目も気にせずに涙をこぼす町田は、まるで別人のようだった。保育園の頃にタイムスリップしたような気持ちになって、私は「どうしたの」と背中をなでる。それでも町田は泣き止まない。涙を流したまま、こんなことを私に告げた。
「菜緒のお父さん、私のお父さんなんだよ」
凍えたみたいに震える声が耳に届いた。
その瞬間、驚きよりも納得感の方が先に来た。そして母の言葉が思い返された。
「私は町田って男に捨てられたのよ。あなたもどうせ捨てられるわ。その町田って女に」
保育園のとき、私の頬をぶったのも「真」が原因ではなく「町田」が原因だったのかもしれない。
「そうだったんだ」
私は自分の想像以上に落ち着いた声で、町田の頭をなでた。
「春休みの終わりに、家族で旅行に行ってね、旅館で、酔ったお父さんが、学校はどうだとか、友達はいるのか、とか聞いてきて、私は菜緒と一番仲が良いって言った。
そしたら、実はあいつ俺の子なんだよ、って。
最初は冗談かと思ったけど、その場にやって来たお母さんが、本気で怒ってるの見て、私、お母さんに聞いたんだよ。お父さんの、ホントなの?って。そしたらお母さん、何も答えなかった」
ぼんやりとした意識の中で、お母さんを狂わせてしまったのが目の前にいる町田の父親であること。そして狂わせたくせに今ものうのうと暮らしているということ。想像以上に近くで生きているということ。いろんな事実が泡のように浮かび上がって、なにもなかったかのように消えていった。
だって、私はお母さんを裏切った。町田の父親と同じように。
そんな私に非難する権利なんてないし、非難したところでどうにかなるわけでもない。最後に残ったのは、身勝手な安堵。たった一つだった。
「よかった」
弾むような声色でそういった。
「良かったよ。町田。私たち、一緒にいられるんだね」
「……いてくれるの?」
町田はきょとんとした表情で私をみつめる。
町田は知らないのだ。私がいかに町田のことを好いているのか。
私だって知らなかった。自分がこれほどまでに町田を好いていたということを。
曇天の中を歩く。たどり着いた水族館は薄暗い。ガラスの向こうで泳ぐ魚たちを興味深そうにみつめる町田は、いつも通りの町田のようにみえた。
だけれどいつもと違うことは確かだった。いつもは私から町田の手を握るのに、今日は町田が私の手を握った。それも力加減を忘れてしまったみたいな強い力で、決して私を離すまいとするように。
天井まで伸びる大きな水槽の前で、不意に町田は私をみつめた。私も見つめ返して問いかける。
「あの男子、どうするつもり?」
「私は……」
「付き合わないで欲しい。私と付き合ってほしい。私、町田のことが好きなんだよ」
「でも、菜緒」
町田は明らかに戸惑っている。自分の思いの重さは知ってる。だけど、私はもう自分勝手を押し付けることを、躊躇しなかった。町田を手放してなるものか。私にはもう町田しかいないんだから。
お母さんは町田のお父さんに裏切られて以来ずっとおかしい。そもそもまともな頃のお母さんを私は知らない。彼氏や彼女って言葉を発するだけで私に刃物を向けてきた。いつだって厭世観に飲まれた瞳で私をみつめてきた。地獄に残されたたった一つの光でも眺めるみたいに。
そんなお母さんを、町田のお父さんが裏切ったお母さんを、私は、今朝、裏切ってしまった。
「私にはもう誰もいない。町田しかいない。町田は、私のそばに居てくれるよね?」
「うん。私も……」
「町田は、私を傷付けないよね?裏切らないよね?」
「うん。私……」
「絶対に私を……」
繰り返し問いかけていると、不意に町田は私にキスをした。唇に初めて感じる柔らかい感覚が広がっていく。
羽のようなキスの後、薄暗い中を離れていく町田の表情にはほのかに朱がさしていた。
「罪悪感で縛らなくても、私は、自分の意志で、菜緒の傍にいる。菜緒に許してもらえるか、それだけが私の心配だった。私も菜緒が好きだよ」
だけれど申し訳なさそうに、眉をひそめてもいた。町田が私に向けている感情は、純粋な好意ではないのかもしれない。単に罪滅ぼしの意味を込めて、キスしたのかもしれない。
一生、罪悪感で私に縛り付けることになるのかもしれない。
それをよしとは思えない。だけど今、私の心は幸せだけで満たされていた。
もう一度、今度は私から町田にキスをした。
甘くて苦い、罪の味がした。
町田は仄暗く笑う。私も静かに笑い返す。
私たちは手を取り合い、暗い道のりを歩み始めた。
裏切りと罪の味 知らない人 @shiranaihito
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