中編

 春休みが明けた最初の登校日も、私はいつもと同じルーチンを行っていた。朝食を食べ、顔を洗い歯磨きをし、制服に着替え、仏壇に手を合わせた後、学校へ向かう。と、その前に机の上の封筒を手に取る。封筒には「教科書代」と書かれていた。

 扉を開けて鍵を閉め、早朝の澄んだ空気のなか、桜並木を歩く。早く出過ぎたせいなのか通学路に生徒の姿は見当たらなかった。

 まだ人の少ない校門を通り抜け、昇降口に入る。上履きに履き替えてからリノリウムを踏みしめると、正面にクラス分けが張り出されていた。私は理系で町田は文系だからクラスが同じになることはない。そのことは少し寂しいけれど、くよくよするほどでもない。学校は勉強する場所だからだ。それにどうせ町田には部活で会える。

 2-3の太文字の下に私の名前はあった。町田以外に仲のいい人がいるわけでもなく、仲の悪い人がいるわけでもなく、特に感慨はわかない。私は無表情のまま、階段へ向かおうとした。だけれどふと、誰かに呼び止められる。


「おーい。菜緒」


 私を菜緒と呼び捨てにするのは、この学校で二人だけだ。一人は町田。そしてもう一人は小春だ。小春は少し変わった奴だから、あまり関わり合いになりたくはなかった。

 私は無言で階段を目指した。


「なんで無視するの! この人でなし!」


 だけれどそんな大声で人でなし呼ばわりされたなら、止まらないわけにはいかない。私は振り返り、そいつを睨みつける。丸い眼鏡に丸い瞳をしたオタクっぽい女子がクラス分けの前に立っていた。

 ニコニコと手招きするものだから、仕方なく戻る。


「いや、意外だね。菜緒って理系に進んだんだ。だって町田さん、文系でしょ?」


 私と町田の仲がいいことを、小春は知っている。不愛想な私が町田の前でだけは柔らかくなることを、凄まじい曲解でこう解釈しているのだ。あっ、こいつら百合だ、と。


「町田さんの事待つんでしょ?それじゃ、私は一足先に教室に向かっておくよ。なんでって、私がいないほうが、百合百合しやすいでしょ?」


 饒舌にまくしたてるように、理解しがたいことを伝えてきた。


「そんなのじゃない」


 私は町田のことが好きだ。でもそれは恋愛感情ではない。百合と形容されるほど強い感情でもないと思っている。理解したつもりになって見当はずれなことを言うこいつのことが、私はどうしても好きになれない。


「じゃ、私と一緒に教室に行く?同じクラスだよね」


「別にいいけど」


「えー」


 小春は目を細めて非難の声をあげた。


「別にいいけど、じゃなくて、町田じゃなきゃ嫌だ、でしょ?」


 付き合ってられない。

 私は教室に向かおうと小春に背を向けた。

 そのとき大声が昇降口の中から聞こえてきた。


「俺と付き合ってください!」


 思わず視線を声の方へ向ける。下駄箱と下駄箱の間に見慣れた姿があった。サラサラの髪に、見惚れてしまいそうになるほど綺麗な横顔、モデルに引けを取らないスタイル。間違って地上に降り立った天使みたいな美の権化が立ちすくんでいた。

 町田が、どこの馬の骨とも知らない男子に告白をされていた。

 男子生徒は下げた頭をあげて、ずっと前から好きでした、だとか、なんだとか、ありきたりな文句を続ける。

 私は当然、町田が告白を断るものだろうと考えていた。だってあの凡百な男子と女神のような町田では全く釣り合わない。でも町田は明らかにまごついている様子で、どうしてか、私の方をちらちらとみていた。

 多分、私に助けを求めているのだろう。でもどう助けろというのか。告白されたのは町田であって私ではないのだ。例えいま、町田の手を引いて連れ出したとしても、この男子生徒はきっとまた告白するだろう。他人がみている前でしかも大声で告白するような根性の持ち主なのだから、人目なんて関係ないに違いない。

 私は心の中で頑張れとエールを送った。頑張って振るんだ! と。

 でも町田は最後まで、その言葉は伝えなかった。代わりに私をじっと見つめたあと、男子に向き直って「考えさせてほしい」なんてつぶやいたのだ。

 私は驚いた。何を考えているんだ。町田は。どうしてか、胸がむかむかして治まらない。

 私は光を浴びたように輝く男子の笑顔に耐えられず、あるいは煮え切らない町田の態度に耐えきれず、小春を置いてさっさと教室に向かった。


 後から追いついてきた小春が「手遅れになる前に告白しろ」とうるさかった。だから私は一人でトイレに逃げた。扉を開けた途端、町田が視界に入った。鉢合わせしてしまったのだ。町田は驚いた様子で私をみつめていた。だけどすぐに、私をよけるようにしてトイレを出ていってしまった。

 私は呆然と立ち尽くした。なんで避けられないといけないの?

 全校集会が始まっても、イライラは治まってくれなかった。校長が長話をしている間中、舞台に上がって校長のかつらをむしり取ってやることばかり考えていた。教科書販売で十円だけ足りなかった時ですら、財布を取りださなければならないという些細な事にすらイライラした。

 だけど授業を受けている間は内省的にならざるをえなかった。

 どうして、友達が告白された程度でここまで心を乱さなければならないのだろう。

 たぶん、私は町田に避けられたことを許せないのだ。

 私は町田を誰よりも親しい友達だと思っていた。それがあからさまに私を避けたのだ。私の友達は町田しかいないのに、もしも町田に彼氏ができたなら、私はお役御免になってしまうかもしれない。そんな恐怖だってある。

 もしも、町田に見捨てられたら、私は一人ぼっちになってしまう。


 私は六時限目が終わるのとほぼ同時に、アーチェリー場へ急いだ。他の部員が来る前に町田と二人きりで話したかったのだ。しばらくすると町田もやってきた。町田は私を発見すると困ったように眉をひそめた。


「町田。来なよ。どうしたの?」


 私が声をかけると、町田は恐る恐るといった風に私の所へ寄ってきた。私は自分たちの絆の強さを確認するように、町田の胸を触った。だけど町田は前のような受容の表情ではなく、あからさまな拒絶を示した。つまり、振り払われたのだ。


「やめて。……そういうの」


 そのとき、他の部員がやってきた。私は何事もなかったかのように部員に挨拶をした。何事もなかったかのように、弦を引いて矢を放った。矢はひどいぶれ方をしてとび、的ですらない場所に突き刺さった。私は苦笑いをして誤魔化した。


「今日は調子悪いみたい」


 町田も私を一瞥してから弓を引いた。乱れた表情とフォームから放たれた矢は、的から大きくはなれた場所に突き刺さっていた。



 部活終わり、校門で声をかけられた。町田ではなく、小春だった。


「百合の相談なら、いつでも歓迎するよ」


 丸い眼鏡の奥で、丸い瞳がほほ笑んだ。


*


「男子に告白されてから町田さんの様子がおかしいんだね」 


 私たちはファミリーレストランに入っていた。小春は深刻そうな表情で、オレンジジュースの入ったジョッキを掴んだ。


「どうして他人行儀になったのか、わかんないんだ」


「なにかなかった?告白される以外に」


「何もないよ思う。春休みの最終日に、家族と旅行にいくって言ってたくらいで。その翌日に男子に告白されて、今に至る」


「そうかぁ。ところでさ、菜緒は町田さんに彼氏できるのってどう思う?」


「……私がどうこう言えることじゃないよ。そのせいで仲が悪くなるってのは嫌だけどさ」


 もしも町田に彼氏ができたなら、私と話してくれる時間は少なくなるんだろう。町田の中の優先順位のトップはきっと私じゃなくなって、あの男子になるんだろうし。正直、そんなのは嫌だ。でも、私は町田の友達でしかない。私のために恋愛をやめてくれなんて、言えるはずがない。

 オレンジジュースをちびちびと飲みつつ小春は告げる。


「特に何もなかったってことなら、やっぱりその男子の告白が関係してると思う。だからさ、今度は菜緒が告白すべきだよ」


「はぁ?」


 何を言っているんだこの人は。


「だって考えてもみてよ。町田さんと菜緒さんが付き合ったらもう全部解決じゃん。しかも関係だって深まるし」


 斬新すぎる解決方法を提案した小春は、テーブルに肘をついて眼鏡をクイッとあげた。私は呆れてため息をついた。


「それは小春の願望でしょ。考えるそぶり多少は見せてよ。私たち付き合わせたいだけでしょ」 


「私個人の意見だけど、町田さんと菜緒はお似合いだと思うよ。だって幼馴染の女の子同士で百合百合するって最高でしょ。私は見てみたい。君たち二人が手つないで歩いたり、ハグしたり、キスしたり、イチャイチャするのを」


「小春はさ、どうしてそう欲望に素直なの?せっかく小賢しいんだからもう少し、私の立場に立って考えてよ」


 こういう奴だから、あまり相談したくなかったんだ。私が小賢しくないせいでこうなってるんだけど。


「ふん。君に私以上の策があるのなら無理強いはしないがね」


「……何その口調」


「菜緒よ。どうする。もし、君が手をこまねいている隙に町田と男子が結ばれて、君への興味を完全に失ってしまえば幼馴染百合への道は完全に閉ざされる。ついでに君たちの仲はもう二度と、元に戻らないかもしれない。それが嫌なんだろう?」


「……うん」


 って、なんか本音見抜かれてるし。妙に鋭いとこも嫌いだ。


「それじゃぁ、正面から行くしかない。町田さんに告白するんだ!」


「いや、どこが正面なの。裏口も裏口でしょ」


「人の恋路を邪魔する邪道が文句を言うでない。一旦邪道に踏み入れた身。最後まで……」


 邪魔、か。


「今の相談、やっぱりなかったことにして」


 町田からすると、やっぱり私は邪魔ものなのだろうか。


「え?」


「友達なら、普通応援してあげるべきでしょ。応援もしてあげられないなら、自分の身勝手を押し付けるなら、それはもう友達じゃない」


「恋って、自分の身勝手を押し付ける物だと思うけどなぁ」


それも確かに正論かもしれないが、根本が間違ってる。


「私のは恋じゃない」


 恋であっていいはずがない。


*


 翌日の放課後、私はいつものように部活に向かった。制服から動きやすいジャージに着替えた町田が黙々と弓を引いていた。いつも通りの姿だ。アーチェリー部には男子はほとんどいないし、あの男子に告白されるまではいつも私と一緒だったから、まさかこんな風になるなんて思ってもいなかった。

 私は町田の隣にアーチェリーのケースを下ろし、弓を組み立てはじめた。

 少し探りを入れてみようかな。もしかすると冷たくなったのには、別な理由があるかもしれないし。というか、そうであってほしい。友達と友達でありたいと思うのは、別におかしなことじゃない。


「町田」


「なに」


 矢をつがえながら、町田はないがしろな返事をした。少し前までは、声かければこっち向いて微笑んでくれたのに、今は雪山のように無関心な冷たい表情しかくれない。男子に告白されただけで、ここまで変わるものかな。やっぱり、冷たくなりすぎな気がする。


「……あの男子と仲いいの?」


「さぁ」


 聞いてるような聞いてないような声でつぶやく。だけど、男子から受けたあの告白は「さぁ」で言い表せるものじゃない。春休みまでは私に微笑みかけてくれたのに、今はこんなに不愛想だし。

 あの笑顔は私だけのものだと思っていたのに。

 あれ、私、こんなに重い女だっけ。

 その時、小春の粘っこくいやらしい笑みが脳裏をよぎった。

 いやいや、恋ではない。これは重めの友情だから。あいつの思うつぼにはまってたまるか。ただ、平均的友情と比べて十倍くらい密度が高いってだけで、恋、と言うわけではない。絶対に違う。恋なんかじゃない。

 それに、もしも仮に万が一恋だとして、町田はよくて私を友達としか思ってないだろうし。友達としか思ってないのに、告白なんてしたら、友達ですらいられなくなるし。

 そうだよね、町田?

 私の荒れ狂う脳内とは裏腹に、横目で見た町田は相変わらず無関心を決め込んでいた。この無表情を見る限り、きっと私の推測は当たってる。町田は大昔から私を友達としか思ってなかったのだろけど、今はそれすらも危うい。

 やっぱり、小春の作戦は邪道なうえに、論外だ。そもそもお母さんのことがあるからあり得ないけど、もしも告白なんてすれば、友情の残滓さえ木っ端みじんに砕け散ってしまう。色のない町田の顔を見る限り、私のことなんて、ほとんど考えてくれてないんだ。

 あの男子のことばかり考えてるんだ。

 町田だって、私のこと気にしてくれてもいいじゃん。私はこんなに町田のこと意識してるんだから、町田もちょっとくらい私の心読んでくれてもいいでしょ?

 私は組み立て終わった弓をスタンドに置いた。無感情に滞りなく矢をつがえ終わった町田は、左手でグリップを握ったまま、右手を弦に掛けていた。矢はまだ地面を向いている。

 私を見て欲しいと思う。だけど、何も言えない。自分では何もしない癖に、言葉にしようともしない癖に、町田にはテレパスを要求してしまう。明確に、ハッキリと、態度だけでなく言葉でまで拒絶されるのが怖いから、人に厳しく自分に甘くする私。そんな図々しく痛々しい自分が、嫌だ。だけど、やっぱり声は出せない。

「どうしてそんなに冷たくなったの?」なんてとてもじゃないけど、聞けない。

「菜緒に興味がなくなったから」。こんな言葉が投げ返された日には、私は死んでしまうだろう。

 三十メートル先の的を見据え、一度深呼吸をしたのち町田は、ようやく弓矢をそこへ向けた。太陽を浴びた弓がキラリと光る。町田はゆっくりと弦を引き絞り、引手を顎に付けた。凛々しい横顔で、的を見つめている。

 その瞬間私は、世界が始業式の朝の、憎き告白以前に、まだ私たちが友達だったころに巻き戻されたような気がした。横顔が、違う。いや、横顔だって世界の誰よりも綺麗だけど、立ち姿は天の川銀河一綺麗なのだ。時々部員に自分のフォームを撮影してもらうのだが、私のそれは町田と比べると恥ずかしくなるほどに不格好だった。

 町田は引き手を離した。矢が空気を裂いて飛び出した。その反動でグリップを支点に、弓がぐるんと前方へ九十度回転する。それでも町田は涼しすぎる顔のまま、全く姿勢を崩していない。残心までしっかり美しかった。矢の行く先を確認すると、的のど真ん中に突き刺さっていた。町田は的から視線を外し、骨まで凍えてしまいそうな無表情を私へ向ける。いつもなら微笑んでくれるのに、眉一つ動かさない。


「何でそんなことを聞くの」


「え?」


 無関心故の無表情だと思っていたから、突然話しかけられて思わず声を出してしまう。もしかすると、まだ私に興味を持ってくれているのかもしれない。


「私に告白してきた男子のこと」


 そうか。私じゃなくて、あの男子への関心か。


「……なんとなくかな」


「そう」


 町田は顔色一つ変えず、道端の石ころなんてどうでもいいという風に、再び矢をつがえ始めた。

 町田と一緒に無言で弓を射かけ続ける。心が乱れ、姿勢が乱れ、矢がまっすぐ飛んでくれない。空中を飛翔する矢が上下左右に震えて、あらぬ場所に突き刺さる。暴投に驚いてか、町田がこちらをちらりと見た。だけど、何も話してくれない。

 やっぱり、私に冷たくなったのはあの男子に恋したせいなのかな。他の理由なんてないのかな。

 矢はまた外れた。

 でも、町田ははっきりと、私への無関心を口にしたわけじゃない。態度に現れてるだけだし、その理由はまだ言語化されてはいない。希望を抱く余地はある。だけど、希望を抱くだけで何もしなければ、それはただ逃げてるのと同じ。現状は変わらない。

 私は町田と一緒にいたい。だけど今のままじゃ、その夢は叶わない。

 まずはその希望が本物かどうか確かめなければ、私の望む未来は来ない。町田が私に冷たくする別な理由が本当にあるのなら、それを知るのが先決だ。思うだけじゃ、何も始まらない。言葉にしないと。藁でもなんでもいい。町田と一緒に居るためなら、たった1%の希望にでも、私はすがりたい。

 私には町田しかいないんだから。

 矢が的の中央に突き刺さる。

「菜緒に興味がなくなったから」。こんな言葉が投げ返されるのではないか、と言う恐怖に抗って、私は口を開いた。


「なんで、そんなに冷たくなったの? ……あの男子に告白されたから?」


 すると町田はさも興味がなさそうに言う。


「……そうだけど」


 その返答は、私の予想した最悪と何ら変わりなかった。

 矢筒は空っぽになっていた。町田は矢を回収するために、的へ歩いていく。私もその後ろ姿に急かされて、よろめきながら回収に向かった。


*


 帰り道、暗い街で、町田の背中と一定の距離を維持して私は歩く。

 春休みまでは、一緒に歩いてたのにな。帰り道同じだから、その間に、手つないでみたり、ほっぺつねってみたり、つまらない雑談してたのに、なのに今は町田が遠い。


 なんだろ。この感覚。

 

 体が重い。触れたいのに話したいのに何もできない。


 まるで、経験したことはないけど。


 まるで失恋みたいだ。


 

 ふと、小春の言葉が思い出される。


「恋って、自分の身勝手を押し付ける物だと思うけどなぁ」


 違う。私は、町田に恋してるわけじゃない。ただ友情の密度が高めなだけで。だって、だってもし恋してたとしても、もう全部手遅れだもん。町田の心は、あの男子だけを見てて、私のことなんてもう。どうしようもない。告白しても、きっと振られるだけだから。

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