裏切りと罪の味

知らない人

前編

 雑木林のすぐそば、金網一つが隔てる空間で私たちは部活動を行っていた。とはいっても、今は私と町田だけだ。そのほかの部員は大会終わりということもあって、出席してきてはいない。今は春休みなうえに土曜日だし、みんな各々で遊んでいるのだろう。

 私と町田は三十メートル先にある的を見据えて、洋弓に矢をつがえた。背筋を伸ばし重心を固め、限界まで引いた弦から指先を放す。するとほんのわずかな空気を切る音と共にカーボンの矢が勢いよく打ち出された。パン、と乾いたような音と同時に、的に矢が突き刺さる。

 町田の矢はど真ん中だったけれど、私の矢はわずかに中心を外れていた。

 ふと隣を一瞥すると、町田は横顔だけでなく残心まで信じられないほど美しく、ついため息をついてしまいそうになる。

 いつも通りで、見飽きたような現実だ。

 私は町田には勝てない。

 容姿でも、成績でも、運動神経でも、スタイルでも、私は勝てない。

 南国の砂浜のように美しい肌をもち、勉強すればそのすべてを吸収してしまうような明晰な頭脳をもち、走れば誰をも置き去りにしてしまうような身体能力を持ち、そこらのモデルでは太刀打ちできないような素晴らしい身体バランスをしている。

 町田は、いわゆる完璧超人という奴だ。

 だからなのだろう。ちょっかいをかけたいと思ってしまうのは。嫉妬がそうさせるのか、憧れがそうさせるのか私にはよくわからないけれど、私は町田の矢筒が空になったのを確認してから、ごく自然にそのすべすべの頬をつねった。


「町田、明日遊びにいかない?」


 問いかけると、つねられて歪んだ表情のまま町田は答えた。


「ごめん。家族で旅行する予定だから」


 私には父親がいないし、お母さんも少し様子がおかしい。毎日働きづめなせいで疲れているから、旅行になんて行く余裕はないし、町田のことは素直に羨ましかった。だって普通にお父さんとお母さんがいて、旅行にもいく余裕があるなんて、まるでこの世の天国みたいだから。

 私はほんの少しだけイラついた。理不尽な苛立ちだってことは理解しているから言葉にはしないけれど、どうしても我慢できず動作にあらわれてしまう。私はまず、正面から頬をつねっていた両手を離し、町田の髪の毛をくしゃくしゃにしてやることにした。

 町田の髪の毛はサラサラだ。若干癖毛の入った私の頭髪とは天と地ほどの差で、清流に手を浸しているような気分になってくる。いくら荒らしまわってみてもその美貌も相まってどこか芸術的な印象を与えてくるものだから、私は呆れを含んだ目線で、町田をじっと見つめた。

 町田も私をみつめているけれど、どうしてか何も言わない。憐れんでいるのかもしれない、とふと思ったけれど幼いころからの付き合いだ。人を見下すような人間でないことは私が一番理解している。そうでなければきっと私たちは今日まで仲良くすることはできなかっただろう。

 とはいえ、その端整な表情が歪むことを望んでいた私は、いささか消化不良感を否めなかった。

 だから私は友達同士でもなかなか触らない場所を触ってやることにした。

 胸当ての上からでも分かるその膨らみを、すれ違う男どもはみなみつめる。下卑た妄想の中で、いったい何回嫌な目に合ったのだろうか。町田は自分の胸の大きさをひどく嫌っていた。町田の一番のコンプレックス。流石にそこに触れられたなら、嫌な顔一つくらいはしてくれるはずだ。

 そう思った私は、町田の胸に手を伸ばした。

 でも期待外れだった。町田は大きな反応は示さなかった。せいぜい、ほんの少しだけ目を見開いて頬を染めたくらいで、そこに非難の色はなく、むしろ女神のような優しさが柔らかく手のひらを席巻するばかりだった。

 私は少なからず困惑した。いくら友達と言えども胸を触らせるのはどうなのか。

 やめて、の一言くらいないと、私だってこの状態から次の状態へどう遷移していいのか分からなくなる。

 というか、なんか恥ずかしい。顔が熱い。

 さわさわと風が吹く。雑木林が慌しく騒ぐ。時間は確かに動いているはずなのに、私たち二人だけが止まってしまったみたいに動かない。どうすればいいのか悩み困り果てていると、ふと町田がこんなことを口にした。


「……菜緒って、変態?」


 確かに私は変態にみえるかもしれない。突然友人の胸に触れたのだ。でもそれは断じて自らの欲望を抑えきれなかったからではない。ただ、町田に泣き顔の一つくらいみせてもらいたかったからというだけだ。


「もー。こんなに大きなの付けて、自分の弓も持ってて、町田は色々と恵まれてるんだから、少しくらいその柔らかさ分けてくれてもいいでしょ。もっと、弱者にやさしくしてよ。不道徳だよ」


 こう切り返すとなんと町田は信じがたいことをつぶやいた。


「……菜緒がしたいならいいんだけど」


「……えっ」


 私は完全に固まってしまった。聞き間違えを疑うには声がはっきりとし過ぎていたし、言い間違えを疑うには堂々とし過ぎている。町田は頬をほんのり赤く染めたまま、じっと私の瞳の中を覗き込んでいた。


「そ、そんなこと言わないで。もっと自分の体大切にしないと」


「……うん」


 町田は残念そうに肩を落とした。

 え、なんだ。つまり町田は私に胸を触られたがっているってことなのか。ちょっと理解が追い付かない。心なしかあたりの空気がひんやりし始めている気がする。どうすればいいんだ。この微妙な空気。


「……とりあえず、矢回収しに行こうか」


 とりあえずその場を立ち去りたかった私は、一足先に的へ歩いて矢を引き抜いた。

 まぁ別に悪い気はしないけれど。コンプレックスだと思っている場所を触らせてくれるのは、それだけ私を信用してくれてるってことだし。でも、正直、その心の余裕が気に入るかと言われれば、気に入らない。もしも私が町田の顔と体をしていて、さっき私がしたのと同じことをされたなら、あんなに落ち着いてはいられなかっただろう。

 だって、そもそも私の毎日には余裕がない。お母さんは行事ごとがあっても見に来てはくれないし、お昼ご飯だって作ってくれない。親が余裕のない毎日を過ごしているから、子供の私からも余裕が失われる。心が不安定になる。例えば、親友の泣き顔をみたいなんて思ってしまう。


 そうだ。この間の大会でお昼ご飯を振る舞ってもらったお礼、まだ言ってなかったな。

 私のお母さんはアーチェリーの大会には来てくれなかった。町田はお母さんも、そしてお父さんも来てくれてたのに。ま、だから何だって話だけど。お母さんだって私のために頑張ってくれてる。私のために働いてくれてる。私には文句を言う権利なんてない。

 二本目の矢を引き抜くと同時に、町田が私の隣にやってきた。


「……私、変態じゃないからね」


 深刻そうに話しかけてくるものだから、つい笑ってしまう。


「知ってるよ」 


 町田は変態じゃない。ただ、心が優しいだけなのだ。恵まれた家庭に恵まれた能力があれば、そりゃ当然、心も優しくなるってものだ。


「あ、そうだ。こないだの大会のお昼のお弁当。お礼言うの忘れてたよ。行事ごとにお世話になってる気がするから、当たり前になっててついお礼いうの忘れてた。ありがとうって伝えておいてくれる?」


「いいよ。この間も思ったんだけど、菜緒とお父さんってなんか気が合うよね」


「へ? そうかな」


「私、お父さんとあんなに仲良く話せない」


 町田のお父さんは明るく気のいい人だった。なのに仲良く話せないということは、町田には反抗期がきているということなのだろう。私にはお父さんがいないからわからないけれど、いや、だからこそか。私は町田のお父さんに父親への憧れを素直にぶつけられていたのかもしれない。


「反抗期? あの人いいお父さんなんだから、大切にしてあげなよ」


「……うん」


 町田は複雑そうな表情で頷いた。父親との不仲を思い出したのだろうか。あるいは、私に父親がいないということを思い出したのだろうか。でもなんで町田がそんなに暗い表情をするんだろう。憐れんでいるわけではないってことはわかる。多分、共感してくれているんだ。町田は本当に心の優しい人だから。


*


 部活を終えた私たちは学校を出た。帰る頃には日が沈み始めていたから、途中で寄り道をすることもなく帰路についた。途中で町田と別れた私は何時間かぶりに孤独を思い出した。

 

 足早に夕暮れの道のりを帰った。


 古ぼけたアパートの一室が私の家。さびた階段を上って扉の前にたどり着く。鍵を開いて中に入り、仏壇へと向かう。祖父母が入っている仏壇だ。正面の座布団に正座し、りんを鳴らす。手を合わせ、目を閉じる。

 私に二人の記憶は一切ない。だけど母が無限に繰り返す思い出話から、大まかな人物像は想像できていた。多少理想化されている側面はあるだろうけど、私は毎日その姿を思い起こして冥福を祈ることにしている。

 その後は適当に料理をして、自分の分と母の分を作る。これも日課だ。母は早朝に家を出て、夜遅くに帰ってくる。

 食事を終え、風呂に入って自室で勉強していると、扉が開いて母が帰ってきた。

 足音が私の部屋に近づいてくる。扉が開いて現れたのは、顔色の悪いげっそりとした姿だった。


「菜緒は今日も図書室で勉強してたのよね」


「うん」


 私は母に部活をしていることは隠している。三者面談で母に部活のことを話さないように、教師を説得するのには骨が折れた。もしも知られてしまったなら、どうなるか分からない。

 母は不満そうな表情で、私の頭をなでた。


「まだ春休みなんだからわざわざ外なんかに行かなくてもいいのに。どんな悪意があるか分からないんだから。菜緒が信じていいのはお母さんだけなのよ。……お母さんも菜緒を信じてるからね」


「でも効率いいから。図書室にはいろんな本があるし、分からないとこがあれば先生に聞ける」


 すると母は語気を強めていった。


「人に聞くのはやめなさい、聞くにしてもせめて女の先生にしなさい」


 私は肩を落として言葉を返した。


「分かってるよ。ご飯、冷蔵庫の中にあるから食べて」


 そんな私の様子をみて、母は眉をひそめた。


「……菜緒は、私を裏切らないわよね?」


「大丈夫だよ。お母さん」


 私は少し背伸びをして、母の頭をなでた。母は私に為されるがままで、子供みたいにじっと目をつぶっていた。もうしばらく撫でていると、満足したのか目を開いた。「信じているわよ」と私を抱きしめて、部屋を出ていった。 

 これじゃ、どっちが娘なのやら分からなくなる。だけど女手一つで娘を育てるために母がどれだけの苦労をしているのか知っているから拒もうとは思わない。掛け時計の短針はもう十一時を指していた。


 私はお父さんの顔を知らないし、名前も知らない。何があったのかも分からない。でも、母の立ち振る舞いを見ていればおおよそ見当がつく。

 保育園の頃の私が「町田 まことって言う名前の友達ができた」と発言するのを聞いた瞬間に、母は私の頬をぶった。そして叫んだ。「そんな奴と友達になるな!」。おそらく母は、まこと、から男性を連想したのだろう。当時の私は、その振る舞いを理解できなかった。だけれど私は、殴られたくないの一心で、その日から外での出来事を一切話さなくなった。

 私は母が三者面談や、仕事以外で男と話すのを見たこともない。本屋やスーパーで箸やブックカバーを付けるか聞かれても、母は道路わきのふんでも見るみたいに店員を睨みつけ、無言でうなずくだけ。あまりにあからさまだから、誰もが立場を忘れて不快感をあらわにしてしまう。

 とはいえ母はそれなりに美人だから、街を歩いていると時折ナンパじみた声掛けをされることもある。すると母は唐突にカバンの中からスタンガンを取り出し、腕を突き出し、ナンパ師をビリビリと威嚇する。もちろん返事は一切しない。そうして男を追い払った後は、私の頭を優しくなでながら、お決まりのようにつぶやく。


「菜緒は、彼氏なんか作って私を裏切らないわよね」


 「彼氏」と言う言葉は、母にとっては裏切りの象徴であり、タブーに他ならないのだ。しかし、だからと言って、対義語の「彼女」が許されているわけでもないらしい。

 リビングで英語の勉強をしていた時、何気なくつぶやいた‘She plays tennis’の日本語訳、「彼女はテニスをします」これを聞いた母の行動は今でも忘れられない。

 中学一年生の私に、母は包丁を差し向けたのだ。


「……彼女って、今、言ったわよね」


 あの頃は特に気がたっていた。私が寝る頃、家を出ていくこともあったし、私が寝るまでに帰ってこないこともあった。どんな仕事をしているのかは聞かなかったけれど、きっと碌なものではなかったのだろう。教科書を読んでいたのだと弁明すると、正気に戻りすぐに刃物を下ろしてくれたが、立て続けに涙が母の頬を下った。


「ごめんね菜緒。ごめんね」


 今度は私が頭をなでてあげる番だった。

 私はそこで初めて気が付いた。母は男が嫌いなわけでも、女が嫌いなわけでもない。人が嫌いなのだと。

 母は私に自分と同じ考えでいて欲しいのだ。志を同じくする仲間が欲しいのだ。理解者が欲しいのだ。

 祖父は私が生まれる前に死に、祖母も私が保育園児の頃に死んだ。母のよりどころは私しかいない。

 だから私は、「彼氏」「彼女」は作らないし、「友達」である町田の存在を明かすつもりもない。

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