第51話 春

 鶯の囀りが、そこかしこから聞こえてくる田舎道。萌え始めた若い草いきれの中を身なりの整った若い侍が歩いてくる。麗らかな日差しを浴びた顔は懐かしそうに里をぐるりと囲む山々を見渡していた。

 村里は薄紅の山桜が春を謳歌せんと咲き誇り、若い侍は意気揚々とした足取りで田んぼの畦道を歩いて来る。その前から頭に頰被りをした百姓がやって来ると若侍はふと足を止めた。百姓もそれに気がつくと頰被りを取って微笑みながら頭を下げた。


「こりゃあ、若様。お久しぶりでございます」

「やあ、喜助さんじゃ無いか。一年ぶりだな息災にしていたか?」

「へえ、何とか生きております」


 若様と呼ばれたのは無論この祐之進のことだ。畦道を行き交う村人達は皆親しげな様子で祐之進に頭を垂れ、祐之進もまたにこやかに会釈で応えている。

喜助と祐之進は畦道の真ん中でしばし立ち話に興じた。


「美緒も息災にしておるか?」

「へえ、今年は美緒も十七になりまして、先日やっと祝言をあげましたもんで」

「なんと!それはめでたいな!」

「へえ、何もねえ家になんぞ入婿だなんて、ほんにありがたい話でございます。今年の田植えは婿が手伝ってくれますんで、だいぶ楽になります」


 いつも無口な男がよほど婿が出来たのが嬉しいのか随分と饒舌だ。


「夏にはまだ早いと言うのに、今年はどうなさいましたか」

「うむ、この十年毎年のように村に参っていたのだが、春にはまだ一度も来た事が無いと思ってな。一区切りつけに参ったのだ」

「一区切り…?」


 喜助は不思議そうな顔で祐之進を見たが、祐之進はそれには応えずに長閑な風景を眺め、心地よさげに胸いっぱいに息を吸い込んだ。


「春の里はこんなに美しいのだな。こんな事ならもっと早くに訪れていれば良かった。

ところで屋敷はまだ崩れてはおらぬか。今年は雪がかなり多かったと聞き及んでいるぞ」

「へえ、庄屋様が若様がいつおいでになっても良いようにと手入れなさっておいでです。ちょうど今頃はお庭の桜が満開でございますよ」

「そうか、では行ってみよう。皆によろしくな喜助さん」


 そうか、あの桜。あの屋敷を出た時にはまだ蕾であったか。


 屋敷を去る時に見た庭を脳裏に懐かしく思い描きながら、祐之進は再び足取りも軽く、すっかり己の故郷になりつつある屋敷に向かって歩き出した。


 そう、あの別れから十年の歳月が流れていた。あの時するはずだった元服もあんな事があって烏帽子親の逆鱗に触れてお流れになり、ようやくその二年後に元服が叶ったのだった。今はもう背も高くなり、前髪も無い二十三歳の立派な若侍だ。それから毎年のように一年に一度祐之進はこの山里を訪れるようになっていた。夏から冬を共に過ごしたアオとの日々をなぞるように。

 祐之進は懐かしい中洲を土手から眺めながら歩いて来ると、あの人斬りと対峙した一本道を登っていく。相変わらず美しく連なる生垣が見えて来るとその先にあるのが屋敷の裏木戸だ。何度となくあの裏木戸をアオと共に出入りした事だろうか。今にもあの木戸から十五歳のアオとまだ前髪の自分が飛び出して来そうな気さえする。

 裏木戸を開けて一歩中に入ると目の前には裏庭が広がっている。この庭で自分とアオと千之助で花火をしたのがまるで昨日のことのようだ。何もかもが思い出深い。そんな感慨に耽っている時だった。

 どおっと風が吹き、祐之進の顔に桜の花びらが舞い落ちる。上げた視線の先に飛び込んで来たのは満開の桜。今を盛りの振袖姿の娘のように、柔らかくたおやかに、祐之進にかいなを広げて立っていた。仄かな甘い香りと不思議な温もりに触れた気がして祐之進は何故か安堵感に包まれていた。


「…やっと、其方に会えたな。まだあの時は其方は蕾であったが、こんなに美しい姿をしていたのだな」


 桜の花影から降り注ぐ淡い陽光をそのかんばせに受けながら、祐之進はしばしその美しき薄紅の海原に見惚れて目を細めた。

 夏も秋も冬すらも村里に訪れておきながら春を見る事が躊躇われ、今まで一度もこの桜を見る事は出来ずにいた。だが十年目の今年、ようやく祐之進の中で何かが一区切りついた気がして一人で桜を見る勇気が湧いたのだった。

 一頻り桜と見つめ合った祐之進は浜路が持たせてくれた握り飯があった事を思い出し、花見気分で桜の梢に腰を下ろしたその時だった、遠くから小さな鈴の音を聞いた気がして耳を澄ませた。その音はこちらに向かって段々と近づいて来る。見えぬ音を視線が追いかけていると生垣からひょいと托鉢僧の編笠が現れた。長い丈の先に付いている鈴が僧侶が歩くたびに鳴り響いていた。


ああ、この鈴の音だったか…。


祐之進がしばし眺めていると、その僧侶は裏木戸の前で立ち止まり、屋敷に向かって一礼して手を合わせたのだ。

何かのえにしを感じた祐之進はふらりと立ち上がって声をかけた。


「あの、お坊様。すまぬが…、あの桜に経をあげてはもらえまいか。偲びたい人がいるのだ」


 そう言って祐之進は木戸を開けて中へと僧侶を促した。

僧侶は桜の元へとやって来ると、鈴を鳴らしてから数珠を持つ手を合わせた。その手に何故か祐之進は懐かしさを覚えた。


 何処かでこの手を見た様な…。


 チラと僧侶を見たが、目深に被った托鉢笠で顔はよく見えない。

やがて僧侶はその痩身に見合わぬほど朗々とした声で経を唱え始めた。


「観自在菩薩行深般若波羅…」


 その声を聞いた瞬間、祐之進は全身が弾かれた。桜の色が屋敷の全てを塗り替えて行くように、あの日あの時の屋敷の情景が色鮮やかに脳裏を駆け巡った。


「…アオ…」


その声に、今度は僧侶が驚いた顔を上げた。


「その声は…祐之進…」


 向かい合った二人はもう子供の頃の二人では無い。片方はきっちり剃り上がった月代の美しく逞しい若侍に、そして片方は頭を丸めた荒々しくも清廉な僧侶となっていた。ひと目ではわからぬほどの歳月が経っていたにもかかわらず、見つめ合う二人はあの時のままの祐之進とアオだった。二人はどちらともなく両腕を伸ばし、互いの身体を抱きしめていた。


「今日はここに区切りをつけに来たというのに、なんて其方は酷い奴なんだ…!」

「すまぬ、祐之進…すまぬ…」

「馬鹿!すまぬことなど何も無い!良く無事で帰って来てくれたな、アオ!」

「将軍様が変わられて恩赦を賜ったのだ」

「もう其方とは会えぬものと覚悟していた。なのに…こうして生きて会えるなど…っ、」

「俺も生きてお主に今一度会えるとは思わなんだ」


 島の暮らしがどれほど過酷であったか、祐之進はその変わり果てた容貌から想像がついた。アオの片方の目は白く濁り、まだ二十六だと言うのに顔には皺が刻まれていた。二人の男は互いの顔を指で弄り、確かめる様に抱き合った。見つめ合う顔は涙でくしゃくしゃだったが、別れたあの時の涙とは全く違う涙だった。

 二人は微笑みながらようやく十年越しの口づけを交わした。

しっとりと互いを食む唇の熱さは確かに死ぬほど焦がれた愛しい男の唇だった。


「それにしてもすぐに私と気づかぬとは其方あんまりでは無いか!」

「無理も無いだろう、こんなに立派な男になっているなどお主こそ卑怯では無いか!」


 笑いながら罵り合った。

 ただただ愛しさが溢れた。


「…だが私の心はずっと其方のそばにいた…」

「俺もだ。俺もずっと心にお主を抱いていたぞ」


 抱き合った腕は片時も離れなかった。互いに相手は違えど其々の初恋は若い心には酷なほど苦しみ抜いた初恋だった。きっとこれから先の二人の人生にも幾多の苦難や困難が待ち受けているだろう。二人の行く末を思うと、喜ばしいことばかりでは無い筈だ。

 

 だが時は爛漫の春。

 満開の桜の下で、二人の春は今始まったばかりなのだ。










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初恋。 mono黒 @monomono_96

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