第50話 約束

 護送されるアオに帯同していたのは三人。担ぎ手と役人が一人。

逃亡の恐れ無しとみなされて腰縄のみで両手両足には縄を打たれずの護送だった。

 必死に駕籠を追いかけて来た少年に役人は些かの同情を覚え、しばしの間駕籠はその歩みを止めた。


「この者はお前の縁者か」


 役人にそう尋ねられたアオは、縁者ではなかったが必死にそうだと頷いた。そうでも言わねば会わせて貰えないと思ったからだ。


「長いことは待ってやれぬぞ。良いな?」


 そう言うと、担ぎ手と役人は、しばし木陰に腰を下ろして煙草をふかし始めた。煙草一服の温情だった。


 祐之進は必死にアオの元へと這いずり、アオは駕籠にしがみついた。今は駕籠の薄い隔たりも分厚い壁のように二人には思えた。


「祐之進!大丈夫か?!何故お主こんなところにいるのだ!元服はどうしたのだ!」

「元服どころでは無い!これはどう言うことなのだ!何故私にこの事を黙っていたのだ!黙っていなくなるつもりだったのか?!」


 アオは唇を噛み締めて辛そうな面持ちで目を伏せた。

そんなアオに祐之進が思わず声を荒げた。


「なんとか申せ!ずっと其方は…ずっと…っ、う」


 祐之進の胸の中に怒りにも似た悲しみが競り上がり、言葉は途切れ、代わりに涙が盛り上がる。


「…だからだ…。だから言えずにいたのだ。お主のそんな顔が見たくなかった。縄を打たれて唐丸駕籠で連れて行かれる俺を見せたくなかった。こんな風に別れればお主はきっと一生、俺のことが忘れられぬ。俺が例えいなくなっても、俺はふらりと何処かの空の下で呑気にやっていると思ってくれたなら、俺はそれで良かったのだ。或いは薄情だと恨んでくれたって良いとさえ、」

「馬鹿!そんなの、そんなの要らぬ世話だ!こんな小細工などせずとも、どんな別れ方をしたとしても私が其方を忘れられる筈など無いだろう!ましてや恨むなど…っ」


 互いに見つめ合う瞳からは涙が溢れてくると言うのに、言葉はなかなか出てこない。漸くアオが口を開いた。


「出会った時、すっぱりと俺がお主を遠ざけていたら、二人とも傷はもっと浅くて済んだのだ…。なのに、意気地なしの俺はどんどんお主を好きになってしまった。その度に俺は怖くなって…」


 その言葉を聞いた時、祐之進はずっと不思議に思って来たことが腑に落ちた気がした。けして偏屈で人嫌いと言うわけでは無いアオが、あれほど村人を遠ざけた理由が分かった気がした。

 人と深く交わればそれだけ別れが辛くなる。相手に対して情が湧くことが何よりもアオは恐ろしかったのだ。それはアオが偏屈ではなく、人が好きだと言う事の証でもある。そんなアオが人恋しさとの狭間に立って、どれほど苦しんで来た事だろうか。そして己の一途な恋慕がどれほどアオを苦しめていたのか、この時になってはっきりと分かった。


「其方一人でさぞや辛かった事だろうな。私は喜助さんに足袋を貰った時も、村人に其方が認められたと思った時も単純に嬉しかった。

だが其方は…苦しかったのだな…。

そして私の闇雲な恋慕が其方を苦しめていたとは思いもせずに…、すまなかったアオ…!」

「何を言う!そんな風に思わないでくれ祐之進」


 アオの優しい声を聞けば聞くほど、愛しい面差しを見れば見るほど、今が夢ならばどれほど良いかと思う。

 流刑は死罪の次に重い刑罰だ。島に放り込まれれば否応なく自活を余儀なくされる。大の大人でも過酷な環境に耐えきれず死んでしまうものもいると言う。アオはまだ十六歳、そんな過酷な中で果たして生きていけるのか。そう思うと祐之進の胸は張り裂けてしまいそうだった。


「こんなのあんまりだ!アオは充分苦しんだ。なのに今更島流しなど…っ、これが其方と今生の別れになるかもしれぬと思うと…私は…」


 肩を震わせながら子供のようにしゃくりあげる祐之進に、アオは精一杯微笑んで見せた。この場に立っても、アオは懸命に祐之進を宥めていた。


「あのな、祐之進。流されても悪いことばかりではないぞ。島へ行っても己の才覚一つで生き抜いて行けるのだ。役人や島民の為に畑を耕したり家を建てたり、魚を釣ったり、俺がずっとあの村で習得して来たことが俺の命の役に立つのだ祐之進。過酷に耐えて一人で立派に暮らしていけるよう、俺はあの中洲で暮らして来たのだ。今日という日のために。

だからそんなに心配せずとも大丈夫だ。だからそんなに泣くな、男前が台無しになるぞ」


 何故こんな所で一人でいるのかと問うたびに、アオは「生き抜くために」と言っていた。その時は良く分からなかった言葉も今なら全てが理解できた。祐之進の中にある全ての疑問が今解けた気がした。遠島が決まった時、アオは誰にも頼らず一人で生き抜く決意をしてあの中洲にやってきたのだ。アオの身の上の過酷さを思うと祐之進の涙は止めどなく流れた。

 そんな祐之進の涙をアオは拭ってやることもできず、駕籠越しに何度も何度もその頬を撫でるように唐丸駕籠を撫で付けていた。祐之進も必死にしゃくりあげる声を押し殺して顔を上げた。


「アオ、約束してくれ、其方は簡単に死んではならぬぞ」

「…分かった。約束する。俺はそう簡単には死なぬ。

生きて俺に関わって死んだ人達の御霊を供養するためにも俺は死んではならんのだ」


 そう言いうアオに祐之進は涙を振り散らせながらかぶりを振った。


「違う…っ、そうじゃない…! 私のために生きると言って欲しいのだ!」


「祐之進…」


 アオはその言葉を噛み締めるように何度も何度も頷いた。


「うん。うん。そうする。お主のために俺は生き抜く。だからもう泣くな祐之進…」


 とっくに覚悟はしていた筈なのにいざ祐之進を目の前にするとアオの心は挫けてしまいそうだった。今まで押し留めていた思いが一気に溢れ出してくる。本当はもっと一緒に居たかった。もっと触れたかった。思いのままを口にしてみたかった。だが今は抱き合う事も、その愛しい唇に触れることすら出来ない。

 ここに至ってなす術なく二人はただ黙って駕籠越しに額を擦り寄らせ、互いの存在を心に刻みつけていた。


「そろそろ行くぞ」


 一服し終えた役人の声が無情にも響いた。担ぎ手が再び唐丸駕籠を担ぎ上げると駕籠はゆっくりと地面から持ち上がった。


「アオ!」


 動き出す駕籠に祐之進が追い縋ったが、役人に引き離された。

そんな姿にアオは堪えきれずに駕籠に齧り付いて叫んでいた。


「祐之進!達者で暮らせ!」

「アオ…っ!アオ!」


 心に手足があったなら、抱きしめて決して離さない。

互いにそんな想いだった。早まる駕籠に諦めきれぬ祐之進は必死に追い縋ってくる。何度も役人がそれを突き放し、その度に祐之進は地面に倒れては立ち上がった。


「祐之進!もう着いてくるな!俺は気づくのが遅過ぎた。どんなに否定しても人の情は避けては生きられぬ。だが最後にお主と心が通じ合えた事、俺は一生忘れぬ!」


 これは覆らぬ現実だ。どこまでも着いていきたい気持ちはあれど何処かで歩みを止めねばならぬ時が来る。祐之進は自らの意思でその歩みを止めた。

 これが最後と去り行く唐丸駕籠に向かって祐之進は叫んだ。


「私も其方の事は決して忘れぬ!心はどこまでも其方に着いていく!アオ!!」


 その時、アオが笑ったように見えた。


 遠ざかる唐丸駕籠を見つめながら祐之進は膝から崩れた。斜陽に落ちたその影は、何処までもアオに追い縋るように長く長く伸びていた。

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