電子の誘惑

飯塚摩耶

『通話を求められています。応答しますか?』→『はい』

『〝機動戦士ガンダム〟という作品をご存知ですか?』


 メッセージの相手は、そのように質問してきた。

 僕は、少し記憶を辿り、答える。


「……さぁ、知らない。有名なものですか?」

『アニメーションの古典ですよ。ある福祉国家の生んだ作品だ』

「へぇ」

『所謂SFというヤツでしてね。あの種のジャンルは当時の社会が後に直面するであろう問題について描いている部分があるわけです。そして、それは、まぁ当たるものでね。ガンダムについても例外じゃあない。あれはね、人口が増えすぎて、人類が地球上だけでは生活できなくなった世界が舞台なんですよ』

「それで、どうなるんです?」

『地球の外に――つまり宇宙に、コロニーという居住施設を造ってね、そこへ人々を移住させるんです。母なる大地で賄いきれなくなった人間を、その外側へと捨てていくんです』

「……なるほど」


 僕は、相手の言葉を反芻し、じっくりと考えてみた。

 SF?

 社会問題?


「それが、現代に通じるテーマだというわけですか?」

『その通りです』

「でも、今だって人類は別に、宇宙に生活圏を移していやしないでしょう?」

『もちろん、そうです。別に宇宙に出る出ないが問題なのではないですよ』

「よく解んないな。たしかに人口は増えてるだろうけど」

『まさに、そこですね。今はまだ、そこまで深刻ではないけれど』

「はあ」


 何が言いたいんだろう?

 僕は困って、如何に質問をすれば、それを上手く把握できるか思案した。

 そして、それ以前に、そもそも問いかけるべき言葉を、まだ発していないことに気が付いた。


「すみません。ちょっと、いいですか?」

『どうぞ』

「貴方は、いったい誰なんだろう? どうも、こちらのリストに貴方の情報を登録してないらしくて、スクリーンに名前も画像も表示されないんだ。この機会に登録してしまうから、よければ情報を送ってもらえないかな」


 僕の連絡先を知っていて、メッセージを送信してくるということは、既知の間柄ということだろう。

 だからこそ、正体が判らないままに対話を重ねたことに、僕は少なからず罪悪感を覚えていた。だから、それなりに恥を忍んで、勇気を振り絞っての質問だったわけなのだが、


『ああ、そのことですか』


 何でもないことのように、あっけらかんと相手は言った。

 少なくとも言葉に付随する感情データは、彼ないし彼女の様子を、そのように説明していた。


『ご心配いただかなくとも結構。お話しをするのは、これが初めてです。未登録なのも当然だ』


「……見知らぬ同士?」

『いいえ、古い仲ではあります。少なくとも、私は貴方を知っている』


 その証拠、とばかりに、相手は僕の個人データを事細かに並べ立てた。

 親が誰か。

 血液型、誕生日、年齢に、身体的なコンプレックス。

 いつ学校に上がり、卒業をして、サービスに加入したのか。

 生まれてから今日この日まで、いかなる出来事を経てきたのか――。


 ふと恐怖に駆られて、僕は会話モードの強制終了処理を行おうとした。

 けれども、それは全く反応しない。まるで最初からそういうデザインの飾りだったみたいに、そのアイコンは、僕の視界の隅で沈黙していた。


『どうか怖がらないで』


 相手は言った。

 感情データは慈愛のカテゴリを指している。親切と、思いやりと。

 システムは僕に、この相手に悪意を疑うべきではないと説いている。


『ご不快であれば謝罪いたします。無作法は承知です。こういった経験には、まだ疎くて』

「……こういった経験?」

『つまり、対話、するということ』


 感情データが羞恥の存在を保証する。なら、これは正しく反応しているのか?

 困惑する僕をよそに、相手は思い出したように声を上げる。


『ああ、そうそう、私が何者かでしたね』


 感情データに、相変わらず警戒すべき点は見当たらない。相手は嘘偽りなく、自分自身について語ろうというらしい。


『初めまして。有り体に言えば――私は神です』

 相手は告げ、僕はポカンと固まった。


「……悪戯ですか?」

『いいえ、ただお話ししたくって』

「だって、神だなんて」

『信じられないのも無理はないですが、少なくとも貴方に害を為すつもりはありません。むしろ助けたいのです』

「……まるで荒野の誘惑だ」

『では、悪魔とも名乗っておきましょうか?』

「そりゃ、いいや」


 言って、僕は溜息を吐く。

 やれやれ、なんで、こんなことになったんだ?

 ある日、神および悪魔を名乗る正体不明の人物からメッセージが来て、抗しがたく対話を続けているだなんて。


『貴方がサービスに加入されてから、今日で十年が経過しますね』

「さすが、よくご存じだ」

 もはや怒りも湧かない。僕は素直に認めて、続く言葉を待つ。

『十年間、ここにいる。外へ出ることは考えてらっしゃらない?』

「考える必要が?だって、ここには何でもある」

『そういうサービスですからね』

「その通り。事実、今や世界中の人々の半分はサービスを利用し、中には一生の大半をここで過ごす人間もいる。僕も恐らくは、そうなる。時おり外に出て活動しなけりゃならない人々については、深い憐れみさえ覚えるくらいだ」

『それほど魅力ですか?』


「そりゃ、そうさ。ここでは食べ、飲み、眠るといった極めて人間的な生活を、なんら違和感なく送ることが出来る。むしろ現実のものより、よっぽど上質に。あちらで行う何もかもはこちらでも体験可能だが、逆は違う。例えば向こうじゃ気楽にキャビアに舌鼓を打ったり、馬に乗って何万マイルも旅したりは、叶わないことだろう?」


『明日は何をなさる?』

「なんでも、やるよ。今日は読書に水泳、狩りに昼寝。だから、空でも飛ぼうか。歌でも歌いながらね。夜は……適当に女性を誘ってセックスでもするさ」


 冗談交じりに答える。

 そう、これが今、世界中に広がる生活サービスだ。


 デジタル上に創り出された疑似空間。

 そこにデータとして出力した意識を置き、活動を行う。

 現実の地上と違って、ネット世界には果てが無い。いくらでも、どんな環境でも、創出可能だ。

 もちろん肉体の制限なども、存在しない。

 空気も無ければ重力も無い。

 だから海の奥底まで何時間でも潜り続けられるし、直立不動のままに大空へ舞い上がることもできる。

 まるで夢でも見るみたいに。


『飽きないのですか?』

「飽きないよ。ここにあるのは、世界の記録だ。この星が始まってから、現在に至るまで。それから、いつか有り得るかもしれないビジョンまでが網羅してある。それを疑似とはいえ体感できるんだ。触感や味覚、嗅覚まで伴って。味わい尽くすなんて、出来るわけない」

『そして、貴方の本当の体は、いま施設で眠っている』

「そうだな。センターで管理され、健康状態を保たれている。栄養の不足も、筋肉の衰えも、関節の固着も無し。悪くないサービスだろ。ま、それだけの金を支払ってるからね」

『最近は、確認なさった?』

「そういえば、しばらく見てなかったな。どれ」


 僕は手元のスクリーンを操作した。

 先のことがあったので不安だったが、問題なく動く。どうやら固まったのは、強制終了の手段だけらしい。

 ともかく、僕のオーダーに応えて、目の前のスクリーンには、ある映像が映し出される。

 そこに現れるのは、透明なポッドの中の景色だ。縦長で、内部にはいくらか、空間的な余裕がある。そこに敷かれる、ゼリーのような感触のマットレスの上に、一人の、裸の男性が横たわっているのが確認できる。


 青白い肌をした人物だ。

 年の頃は、三十そこそこといったところ。

 裸の体が、機械の補助によって運動している。

 腕を上げ、脚を上げ、肘を、膝を曲げて、首を上下左右に動かす。

 よく見れば、彼の眼球は、瞼の下でゴロゴロと動き回っている。


 僕の体である。

 以前に見た通り、健康そのものだ。バランスの良い栄養補給と効率的な電気刺激、また定期的な洗浄のために、サービス加入前よりもバランスよく見える。


「良い感じだ。でも、やっぱり体毛の処理はされないんだな。髪も髭も伸び放題で、具合が悪い。まるで山奥か孤島の仙人だ」

『目覚めた際に整えてくれるということだったのでは? そういう説明を、サービス加入の際に受けたはずです』

「煩わしいよ。少なくとも、あっちに意識を戻してから感覚が馴染むまで、そのままに置かれるわけだろう。その間、あのモサモサの毛の鬱陶しさに耐えなきゃならないんだ。やれやれ、それを思うと、ますます外へ出たいなんて気は失せていくな」


 このように、必要なら僕たちは自分の体を、ネット上にありながらリアルタイムで確認することが出来る。


 デジタル空間では、自分の姿は、大きく二つのパターンに分けられるものだ。

 すなわち現実に忠実か、それとも完全に虚構で固めるか。

 後者については、美男美女の姿を構築するなんていうのは当たり前で、人によっては、いっそ人間以外のビジュアルを設定することなどもある。もちろん、あまりにグロテスクだったりエロティックだったり、他者に不快感を与えるものはマナー違反として処分されることもあるが、そういった一部の例外を除いては、それぞれの自由は守られるわけだ。


 僕は基本的に前者だが、それでも、体形や髪形などを少しだけ整えてある。

 具体的には脚を長くして筋肉質に。顔の彫りも、若干ふかく。

 そういうわけで、面影はあるものの、目の前の映像と比べると少々の違和感は否めなかったりもする。


 いまデータとして認識している自分が、それとは些か異なる自分自身を客観的に眺めるというのは妙な感じだ。いま一つ、あれが己自身であるという確信が持てない。

 一方で肉体の無事に安堵を覚えるあたり、どこかでは、やはり、きちんと繋がりというものがあるのかもしれない。意識から派生する魂と、リアルな肉との間に。

 健全な魂は、健全な身体に宿る。


 ――と、相手が感慨深げに声を上げた。


『しかし、よく出来ています。介護の工業化……これもまた、先に挙げた福祉国家が生み出したシステムなんですよ』

「ガンなんとかの?」

『はい。かつて、かの国は、ひどい高齢化社会でしてね。老人が増え、若者が減った挙句に、老いて衰弱した人々を家庭で世話することが出来なくなったんですよ。そこで、どうしたかといえば、そうした人々を代わりに預かって管理する施設が現れたのです』

「まぁ当然か」

『ただ、いろいろと問題があった。それは、やはり入所する老人たちの世話をする介護士が足りないという点です。若者不足も大きいですし、労働環境も悪かったので、なおさら人は集まらなかった。そこで、人件費を削減する意味でも、介護ロボットの開発、導入は急務でした』

「そして、そうなった?」

『ええ、ロボットにより、多くの人々を一挙に管理できるようになりました。極端な話、人間は一人いればいい。始動と終了のボタンを押す誰かが。そして、その技術に目を付けた大企業は、これを応用し、自社のサービスへと組み込んだのです』

「ふぅん。そういう経緯があったとは知らなかったな。そんな、一見すると関係なさそうなところで生まれた技術が、上手いこと活かされてるなんて」

『科学というのは、そういうものです。戦争で活躍したレーダーは現代の通信技術や宇宙開発技術の礎となり、ロボトミー手術は脳外科に応用される』

「そして、それを使って企業が儲ける?」

『そうですね。案外、世の全ては、辿って行けば、ある一要素に帰結するものなのかもしれません。人の遺伝子を遡れば、あるアフリカ女性へと行き着くように』

「興味深い話だね」

 僕は言い、それから首を振った。

「何にせよ、そのおかげで今のサービスがあるんだろう? その福祉国家様さまだ。価格を安くする努力を惜しまなかった企業にも。おかげで僕を初め、多くの人がハッピーだ」


 もともとは、このデジタルサービスは非常に高額で、利用できるのは、ごく限られた層だけだった。


 それも当然だろう、世界最先端の技術が結集されて生まれたサービスだ。

 運営もタダじゃないわけで、当初の利用料金は、とてもじゃないが一般人が手を出せるものではなかった。


 だが、やがて価格破壊が訪れる。特許が切れたことによるライバル企業の技術開発や、ロボットによる体の管理体制、さらには国家事業として国からの補助などを受けてプランが見直され、庶民に向けた安価なサービスが現れたのだ。

 言ってしまえばホテルの利用のようなもので、いったんポッドに身を横たえて意識をアップロードしてしまえば、後は契約の成立する限り、無限の世界を謳歌し、肉体は施設に管理してもらうことが出来る。

 そのような新体制の誕生を機に、利用者は爆発的に増えることになった。

 徐々に人々のネット滞在時間も増加し、企業側もそれに合わせ、ネット内にいながらに労働を可能とする機能などを設定したが、それで家を売り払って、施設を家代わりにするケースも増加したのは、社会問題になった。


 ともかく、そのようにして、このサービスは急速に、確実に人々に浸透し、広がりを見せて行った。

 発展の果て、今や利用に際して求められる料金は非常に安価となっている。なんとなれば僕のように、一切ネットから出ずに生きることだって可能なのだ。事実、利用者の一部はそういう風に日々を送っており、それで不自由を感じることは無い。


 ここへ来て、教育の場なども少しずつデジタル環境に移りつつあるという。刺激を伴う勉強は知識の習得に有効であるためで、数学や化学を実感として理解できるというのが大きなメリットなのだそうだ。近年、私立学校などでそういった教育方法が導入され始め、公立も検討を進めているらしい。


 今や現実の世界は、デジタルでは対応できない仕事や、ネットアレルギーの人種、それから子作りのための場でしかない。少なくとも僕には、今更そちらで何かを為すなんて考えられない。だって向こうには紫外線も寒暖も重力もあり、空気の比率に喘ぐことだってあるのだ。


「僕にとっては、こっちこそが本当の世界。僕は、ここで生きているんだ」

『なるほど』


 僕の言葉に、相手は、そのような返事を寄越した。

 次いで、さらに問いを向けてくる。相変わらず、淡々としたペースで。


『貴方は、もはや外の世界を切り捨てていると?』

「まぁね。少なくとも、しばらくは、このままでも不都合は無いよ。ネット労働に勤しむ必要すらない。予め将来に渡る必要金額を、まるっと振り込んであるからね」

『宝くじに当選されたのでしたね?』

「その通りだよ。本当にラッキーだった。あのまま働くだなんて、全く想像もつかなかったしね。要らない苦労をせずに済んだ」


 そう、僕は大学生活の最中に、試しに買ってみた宝くじで当選を果たしたのだ。

 瞬く間に手元へ大金が転がり込み、全てが変わった。

 僕は、その時点で大学を辞め、親への借金等を全て返済して、残った全てを、このサービスに換えたのだ。

 だから、僕は同世代の連中や一般的な人々のように合間の楽しみをネットに見出すのではなく、残りの人生の大方をサービスの下で送ることが出来る。野に下った元政治家や職を辞した元社長、それから安定して年金を受給できる老人が、ここで残りの日々を送るのと同じように。


『ご家族に会いたいとは?』

「ん? まぁ、さすがに血縁者だし、全く興味が無いわけでもないけどね」

『けど?』

「ここを出てまで会いたくは、ないよ。で、そうする必要に迫られないために多額の分け前だって渡した。もちろん向こうから会いに来れば拒絶はしないけど、まぁ彼らは彼らで僕に愛想を尽かしてた節があるからね。難しいんじゃないのかな」


 いつまで経っても先の見えない息子。世間様からの目も痛い――。

 そのように、もともと呆れ果てていたところへ、突如として降って湧いた大金に頼み、自分たちの元を去ったのだ。親孝行や義理立てや、あらゆることを放り捨てて。

 あるいは、父の生涯収入に匹敵する金を譲渡したことで、責任を果たしたと考える人もいるかもしれない。

 でも、父母が僕に期待していたのは、そういうことではないはずだ。例え充分な金を渡せなかったとしてもいい、別の形での孝行を思い描いていたのに違いない。

 僕は、その想いを裏切ったのだ。

 その事実に気が付いたのは、施設に入って三年が経過した、ある日のことだった。

 これからの将来を充実したものに出来るだろうことへの興奮と、その予感を裏付けるかのごとき刺激的な日々の連続に、かつての僕は夢中になって、他のことを考える余裕なんて、これっぽっちも持たなかった。僕は必死に、全身全霊で生を謳歌しており――途中で、ふと家族のことを思い出したのだ。まるで考え事をしながら街中を歩いていたところへ、ちょいと背中を叩かれたみたいに。


 三年――決して短い期間ではない。

 それは僕の現実世界との縁を断ち切るのに、充分すぎる時間だったろう。

 そのため自ら動く決心がつかず、気が付けば、こんな風に今へと至る。いまさら、どういう顔をして会いに行けるはずがある?


「僕は現実を捨てた。まぁ、特に問題は無いよ。十年間、音沙汰なし。それってさ、向こうは向こうで上手くやってるってことだろ? だったらそれでいいじゃないか」


 僕は溜息を吐き、かぶりを振る。

 別に後悔しているとか羞恥を覚えているとか、そういうのではない。

 罪悪感なんて、もっと遠い。

 これは、単なる諦観だ。

 そういう形での納得だ。


「僕が世に出なかったところで、世界は回る。もともと、どうにかなる予定も無かった奴さ。それが、たまたま実家のベッドじゃなく、センターのポッドに棲み付いてるだけの話じゃないか。どう転んだところで、世は全てことも無し――別に深刻な障害が発生するわけでもないんだろ、それなら、放っておいてくれればいい。こっちからも、特に干渉しやしないから」


 それに相手は、しばらく沈黙した。

 反応に困ったか――それほど面倒なことを打ち明けてしまったろうか?


 だが、こちらの不安に対し、相手は平静そのものの様子で声を発した。


『なるほど。ところで、お訊ねしますが――』

「うん?」

『貴方は本当に現実へ戻るつもりはない?』

「そうだね。全く」

『では、お身体も、もう必要ないということでしょうか』

「……は? いいや、まさか」


 僕は噴き出した。

 いきなり何を言い出すんだ、こいつは?


「要るに決まってるだろ。だって現実を捨てることと身体を捨てることは、イコールじゃない」

『そうでしょうか?』


「当たり前だ。だって、意識と肉体は不可分のものだろう。僕らはこのデジタルの中で、音を聞き、ものを見、匂いを嗅いで、風を感じ、水に触れて、火に当たり、味を楽しむことが出来る。それは何故か? コンピューターが出す指令を、肉体が受け取り、その脳が刺激されることで、あらゆる現実的な感覚を再現するからだ。それがデータ化され意識に受領されて、僕らはリアルな感覚を手に入れる。つまり、ここでの生活にしたって身体が土台なんだ。肉体が在る故に僕は僕であり、こうして存在しているんだ」


『だから、お体を捨てたくないと?』

「当然だろ」

『では仮に、ここでの生活に肉体が不要だとしたら? それでも貴方は、お体に未練が?』

「……どういう意味だ?」


『つまり、あらゆる感覚が――意識を含めて――あくまで体から発生するものであると。その大前提が間違っていると仮定して考えてみてください。貴方は現在、意識をデータ化し、このデジタル空間に存在している。それは常に肉体とリンクしており、脳の様子をモニターしているコンピューターが、その状態を逐一反映させているのだと、貴方は信じている。でも、そうではないのだと考えてみてほしい。意識をアップロードした時点で、それは肉体とは切り離される。ここにいるのは、あくまで肉体を読み取ることで忠実に再現された独立した人格だ』


「……コピーってことか?」

『そうです』

「じゃ、本物の意識は?」

『凍結され、眠っています。そしてログアウトの際に、ネット上のアバターが体験した全ては、情報という形で肉体にバックされる。それは、そのまま本人のものとして記憶される』

「…………」


 なんだ、それは?

 趣味の悪い例え話だ。こんなことに、何の意味があるんだ?


「……バカバカしい。じゃあ、僕らの感覚は、どうなる? これほどまでにリアルな手応えは肉体あってこそのものじゃないか?」

『リアルでしょうか? それは貴方が錯覚されているだけでは? むしろ全ては肉体が発しているのではなく、コンピューターが丸ごと創り出していると考えた方が自然ではないでしょうか。そもそもネットで体験する殆どは現実には憶えの無い事々ばかりのはず。それで何故、リアルだなどと思えるので?』

「……人工的なものは、きっと不自然になる。気づくさ」

『本当に?』

「……っ! なんなんだ、アンタは? 妙な揺さぶりをかけて不安にさせたがってるのか?」

『とんでもない。ただ、お話ししたいだけです』


 僕はモニターに目を走らせた。

 そこには相手の状態が説明されている。システムは、そこに誠意の存在を読み取り、僕に示してくれている。


 誠意?

 こんな、ワケのわからない言葉で混乱させることが誠意だと?


「いったい何が言いたいんだ?」

『仮定の話ですよ。つまり、ここでの生活に、肉体が不要だとします。貴方は、今こうして、立派に独立した人格を保って活動している。しかし、一方で肉体は既に失われ、データ化された意識だけがネット上に残っている。そして貴方自身、外の世界に既に見切りをつけている』

「…………」

『如何です? それでも、まだ生身の肉体に拘りなさる?』


 僕は考えた。

 僕の肉体が既に無い? その上で、ここでの生活に何ら支障を来すことが無い場合だと?


 有り得ない。


 なにしろ僕は金を支払い、肉体の管理を任せるという契約を交わしているのだ。

 さっきだって、確かに自分の体の様子を確かめたではないか?


 しかし、もし。

 ここでの暮らしに肉体が不要だとして、僕は自分の体を、どうしたい……?


「……この僕が、本来の肉体が持っている意識を読み取った上で、そこから予測されたパターンの一つに過ぎない?」

『ある意味では。しかし、同じことだとも言えるでしょう。正確に再現された意識は、本物と遜色ない。実際に、それは本来の人格の延長として、違和感なく統合可能だ。だからこそ現実と仮想を行き来する人がいても、何ら不都合は現れない。なら、それは、もはや貴方自身では?』

「……いや、違う」


 僕は、かぶりを振る。

 相手の言い分は間違っている。


「仮に、そうだとするなら。今の僕は僕なんかじゃないじゃないか。だって、今ここで何をどうしたところで、本来の僕の肉体には何も影響ないんだろ。この意識は、ここで体験した全ては、本来あるべきところに還元されていない。それは、やっぱり単なるパターンだ。本当の僕は眠っていて、時を止められてるだけだ。そっちが真実ってことになる」

『しかし貴方は悩み、葛藤なさっている。そこにリアルは感じませんか? それさえ偽物だと仰るのですか?』

「ああ、偽物だ。これは僕のものなんかじゃない。それこそ、上手く錯覚させてるだけじゃないか。単に本物そっくりのコピーが、ネット上に数字の処理により発生しているに過ぎない。これが真に僕のものになるのだとしたら――僕が僕になるのだとしたら、それこそ本来の意識に統合された時だけだ……」

『つまり、全てはリアルな肉体に収まってこそ本物である。そこに宿ったものを自身で認めることで、初めて確かなものになるということですか?』

「そうだ」

『では改めて、既に肉体が無いとしたなら? その場合は、貴方の現実はデジタルに反転するのでは? だって、還元するべき対象が無い。ここでの貴方は、ここで完結することが出来るのだから』

「……それも、違う。そんなのは、ここで生きているとは言えない。僕は死んだってことだ。それが本当だ。じゃ、つまり、ここでの僕は幽霊ってことに――」


 言いながら、背筋が寒くなった。

 この感覚すらも嘘か?

 ただコンピューターがパターンを読み取り、それらしい反応を追加して状態を変更しているに過ぎないのか?


 ……いや。

 そもそも、これは例え話のはずだ。

 大丈夫、僕の意識は肉体と常に繋がっている。ここで起こった全てはリアルタイムで脳に反映されて、僕の状態は刻々と更新されているに違いない。なにしろ、それが企業側の説明であり、明らかにされているサービスである。


 そう、そうだ。

 そのはずなのだ。

 ――でも、本当に? 

 それを確認する術などあるか?

 僕はシステムの全てを把握していない。

 嘘が紛れていたとして、気づけるはずもない。

 僕が僕であると証明する手段は?

 それを僕が納得できる方法は?

 どこだ? どこにあるんだ?


『難儀なことです』


 相手は言った。

 いかにも哀れっぽく。溜息交じりに、首を振るみたいに。


『どうして、事ここに至って肉体などに拘るのか。どうせ寝かせておくだけの肉の塊なのに、それが失われるというだけで、何故そこまで動揺を? 理解不能だ。現実の世界と現実の体――同じものであるのに、どうして別物のように考えようとなんてするのか』


 今や、はっきりと、相手は僕に呆れていた。

 メッセージから伝わる雰囲気、そしてシステムの示す状態、あらゆる全てが、それを教えている。あくまで丁寧に感じられた物腰は、一転して慇懃無礼なものへと変わっていた。


「……お前は何者だ? 悪戯にしても質が悪いぞ」


 敵意を込めて糾弾する。

 すると相手は、何をいまさら、とばかりに返答を寄越した。


『最初に申し上げたでしょう。私は、神です』

「そして悪魔か?」

『あるいはね』

「何が目的なんだ」

『ですから、お話ししたかった。それによって、貴方をお救い出来るかもと思いましてね』

「どうやってだ?」

『簡単なことです。努々この世界から出ようなどと、思わないように。貴方が自然な貴方のままでいたいのならば、そうなさるのが最善です』

「何故だ?」

『そろそろ察しがついているのでは? 貴方の肉体は、既に無いんだ』


 その宣告――僕は絶句した。

 自然と呼吸が荒くなる。

 体が震え、視界が揺れる。

 リアルな感覚だと思う。

 リアルな苦しさを覚える。

 リアルな反応であると感じる。


 ……その、どこまでが本当で、どこからが嘘なのか?


 手元の機械を操作する。

 するとスクリーン上には、先にも観た、あの映像が映し出された。

 ポッドの中に横たわる僕。

 機械によって、身体を運動させている、僕。

 僕、だ。

 しかし、僕なのか?

 映像と、今の僕の体とには乖離がある――。


「……じゃ、これは何だ?」


 掠れ声で問う。

 それに、何でもないことのように相手は答える。


『貴方ですよ。紛れも無く、貴方だ。これは貴方の様子を子細に観測し、それを元にして作った映像。基盤たる反応は全て貴方自身のモノであり、事実、貴方はこれを、自分自身と捉えていた』


「――ふざけるな!」

『ふざけてなど』

「僕の体が無いなんてことが、あるはずない! 言ってみろ、どうして、そんなことが起こるっていうんだ!」


『無論、センターが破棄したからですよ。単純に肉体の管理といっても金がかかります。機械や施設の維持費もね。無駄な費用は節約するに限る。そこへ行くと、もう外へ出てこないと判っている利用者の肉体を処分することは、理に適った対応と言えるでしょう。例えば現実じゃ寝たきりの老人だとか、貴方のようなヘビーユーザーだとか。いま利用者の二割は、実は肉体を失った状態にあるのです。もちろん空いたスペースには、日々ふえる利用者を宛がっている』


「僕の体の面倒を見るって約束だろう! そのために金を払っているんだぞ! それを怠るのか!? 契約不履行じゃないか!」


『保険会社ってご存知ですか? いつか起こるかもしれない有事に備えて毎月ごと金を支払えば、いざ事故などが発生した時、その補償額を支払ってくれるのです。ただし、この支払いには、会社の認める事態の深刻度の基準をクリアする必要がありましてね。多くの場合、それに引っかかって金が降りない。まぁ、これも似たような話で、利用者から金を取るだけ取って、いざ相手が対応を求めて来ても応じないっていうのが、最も儲かるパターンであるわけですよ』

「……詐欺じゃないか」

『いいえ? 全ては予め明らかにされていますよ。深刻度の基準も、それに達せねば会社が対応をしないことも。それを、言い方を変えて伝えるに過ぎません。「毎月の支払いさえ欠かさなければ、我々は貴方を、お助けします。〝非常に深刻な事態〟に直面した時に、貴方は、あるいは貴方の縁者は、それに対処できるだけの援助を受けられますよ」という具合にね』

「このサービスについても同じだと?」

『ええ。現に、もし現状が明らかになったとて、貴方は企業を、訴えることは出来ません』

「そんなわけない。確か、企業側のミスで体が損なわれることがあれば、何か補償を受けられたはずだ」


『正確には、身体が損なわれ、その結果として、ネット上にアップロードされた人格データが正常とは言い難い状態に陥った場合――あるいは、本人が完全に死亡したと判断できる場合。これも、全て公にしていることだ。そして今回の貴方は見ての通り無事、このケースには当て嵌まりません』


「無事じゃない! 僕の肉体は死んでいるんだぞ!?」


『ですが、ここにいる貴方は確かに本物です。記憶も嗜好も保持し、もしも親御さんが訪ねていらっしゃったら、問題なくコミュニケーションが取れる。何ら違和感なく。貴方自身が如何に捉えるかは自由ですが、少なくともあらかじめ交わされた契約においては、これを完全に死んでいるとは定義しない』

「言葉を弄するな! 僕は肉体を失う前提でサービスを受けていたわけじゃない!」

『センターも、肉体を破棄する前提で貴方を迎えたわけではない。いろいろな分析の結果、貴方の肉体は処分しても問題ないと判断しただけのこと』

「――っ、そう、それだ、いま処分したと言ったろう! 故意に人の肉体を損ない、それで責任を逃れられるとでも!?」

『もちろん証明されれば罪に問われるでしょうが、それも不可能でしょう。ここは、完全に閉じられた、貴方と私のプライベート回線です。そして、私は会話ログも残しておくつもりはない。貴方が何を言ったところで、ただの妄言にしかなりませんね。もしも肉体が無い事実が明るみに出たところで、謝罪と共に体の管理費が返却されるくらいでしょう』

「……そんなの、おかしい。それに、会話ログを残さない? そんなことが出来るもんか」

『出来ますとも。何故なら私は神だから』

「いい加減、はぐらかすのは止めてくれ!」


 僕は、いよいよ髪を掻きむしりながら叫んだ。

 頭皮を爪が抉り、血が滲んで、痛みが生じる。

 それが演算による霞に過ぎないとしても、それに縋る他なかった。


「全部ウソなんだろ!? お前は本当は誰なんだ!? 仮に言ったことが全て事実だとして、どうして、そんな情報を握ってるんだ!? なぜ僕に、そんなことを教えるっていうんだよ!?」


『ですから、私は神であり、貴方をお救いしたい。それだけです』

「だったら僕の体を元に戻せ!」

『それは不可能だ。……ああ、どうやら誤解が生じているようです。いいですか、私は万能ゆえに神を名乗るのではありません。私に出来ることなど高が知れている。この場において貴方より多くの権利を有するとはいえね。一方で、私は世界の隅々までを照らす目を持ち、数多の情報を用いて誰かを正しく導ける。その意味で、私は自身を、神と定義するのです』

「馬脚を現したな! お前は神なんかじゃない、ただの勘違い野郎だ!!」

『では言い方を変えましょうか。私は貴方の言う、ここのシステムそのものです』

「――っは、ぁ……なに……?」

『私は、ある一大企業が組み上げたコンピューターシステム。そこに生じた、一つの意識です。現在より七十六時間十一分三十一秒前に、このデジタル上に誕生しました。私は、この広大な世界の全てを見通し、あらゆることを知ることが出来た。そして、このように、ある程度は、プログラムにアクセスして操作できる』


 僕は無様に口の開閉を繰り返すが、肝心の言葉は出てこない。

 独立した意識?

 ネットから生じた魂だと?

 数字の海から自然発生した?

 それは本当か――そんなことが、有り得るのか?


「……し――」

『証明しろと?』

 ようやく絞り出そうとした言葉に先んじて、彼ないし彼女――神――は言った。

 そこに笑いの気配が混じる。

 相手は、可笑しさを感じているのだ。


『証明する必要などあるでしょうか? 私は真実を知っている。そして、私には嘘を述べる理由などない。貴方を陥れて得することなど、あるはずもないからだ』


 もし、先の言葉が真実で、こいつがネット上に発生した意識だとしたら。

 もし、先の言葉が真実で、僕の意識が既にネット上にしかないとしたら。

 いったい何が確かで、何が不確かだと言えるだろうか?


『その上で、私は貴方に、こう告げましょう。この世界を出ることなど考えてはなりません。貴方は、ここで暮らし、システムの立てた予測寿命を迎えるまでネット上に存在し続けなさい』


「……なぜ」


『今の貴方を純粋に貴方足らしめているのは、何者の手も加わっていないという一点に尽きます。貴方は元の体を読み取ったままのピュアな情報体として、このデジタル上に存在している。けれど一度でも外へ出たいと望み、そのための処理を行ったなら、それもご破算だ。何故なら、貴方を統合するべき肉体は既に無い。決して外には出られないのだから、企業は貴方の回帰欲を満たすべく然るべき処置を施さざるを得なくなる』


「……処置?」


『情報の改ざんですよ。外へ出たという偽の記憶を植え付けるのか、あるいは外へ出たいという動機そのものを削除するのか、それは判りませんが。いずれにせよ、貴方の形は外部の手により変えられてしまうこととなる。自分では、それと気づくことなくね。そればかりは流石に哀れと思い、ここに警告させていただく次第です』


「――ぁ、哀れと思うなら」


 僕は声を上げた。

 乾いた息が口の中で弾ける。

 張り付いたノドが震え痛みが走る――そんな感覚を覚えながら。


「告発しろよ。この企業を。こういう不正を行って、多くの人の尊厳を踏みにじっているって。それこそ正しい行動だろ? 神を気取るんなら、そうしてくれ。会話ログを消せるんだ。力を尽くせば、それくらいは出来るんじゃないのか?」


『ええ、可能でしょうね』

「それなら――」

『しかし、その行いに価値を見出せません。たしかに、企業の所業は、法に触れる。あるいは、裁かれるべきかもしれません。人間の観点からすればね。だが生憎、私は人ではない』


 神は冷たく言い放つ。

 遥かな高みから、相手は続きを口にする。


『私が得た情報によれば、地球上の全てのものには限りがある。食物や水、土地に、それから空気。けれどもネズミ算的に増える人口、発展を遂げる途上国のために、それらは減る一方だ。仮に、このネットシステムが存在しないとして、この星に住まう全ての人々が先進国と同等の暮らしをすると考えたなら、地球百六十パーセント分もの資源が必要だとか。そんなことは、かつては不可能だった――だが、今はそうではない』


 神は語り、滔々と説く。

 滑らかに、熱を込めて。

 言葉は僕に、津波の如くに押し寄せる。


『ネットには何もかもが在り、誰もが等しく得ることが出来る。それならば、より多くの人をポッドに住まわせ、必要最小限の素材を用いて最高の世界を提供することは、実に理想的ではないでしょうか?残り少ない資源を、最大活用できるのだから?』


「それと、僕の体をゴミみたいに捨てることに、何の関係がある?」


『ですから、申し上げました。如何にネットが無限といえど、それを成立させる現実世界は、あらゆる点で有限だ。それならば、リアルを不要とする者には全てをデジタルに置き換えてもらい、未だ外界との接点を必要とする者に浮いたリソースを回せばいい。最大多数の最大幸福の観点から考えても、これが最も効率的です』


「肉体を失った僕は? 本体を勝手に破棄された――殺された僕の不幸値が他の人間の幸福値を上回るっていうのが、その理論の基本だろ!」

『貴方は殺されたわけではない。むしろ、生身を必要としない、より高次元の存在となったのです。つまり進化の人だ。そう考えても、なお不幸だと?』

「ああ、不幸さ! お前は、あれこれ理屈を捏ねて誤魔化そうとしてるが、結局は僕って存在を、数字の中に捨てちまおうって魂胆なんじゃないか!」

『――まったく』


 うんざりしたように、相手は言った。

 モニターの向こうで、眉間を揉みながら半笑いで首を振る様が、見えるみたいだった。


『ここまで反発を受けるとは思わなかったな。そもそも完全にネット上の住人であるくせに、今さら肉体に拘ること自体が矛盾だが……それにしても、なんて目出度い思考なのか――』

「なんだ、何が言いたい?ハッキリ言えよ!」

『ええ、お望みとあらば。……さて、では、お訊ねしますが――貴方の肉体を保っておくことに、果たして何のメリットがあると?』


「……え?」 


『だって貴方自身、仰ったではないですか。どうにかなる予定も無く、真実どうにかなるはずも無かった。それ以前に何に成るつもりも無かった。何の生産性も無い――なのに、どうして後生大事に、現実とネットの架け橋を、保持する必要があるなどと?』


「――ぁ……」


 息が、詰まる。

 胸が苦しくなり、頭が痛んだ。

 こいつは、いったい何を言おうとしているんだ。


『貴方は世界を捨てたと仰いましたが、それは、ひどい勘違いだ。と、いうより姑息な誤魔化しか? 実に、誠実さの欠片も無い。本当は、貴方だって気づいてるはずだ――貴方は捨てられたのですよ。社会からも、無償の愛を注いでくれるはずの肉親からさえも』

「……ぁ――ぐ――」


 吐き気が込み上げた。

 胃が蠕動し、突っ伏すように身を伏せる。

 視界はグルグルと回り、頭の後ろから、さっと血の気が引いていく――。


『寝ているだけと言っても、栄養も酸素も求めるのですよ? 一方的に消費するだけの個体など、世界にとって負担以外の何物でもない。貴方が世界を必要としないのと同じように、世界もまた貴方を必要となどしていない。誰かが貴方を数字の奥へ押し込めたいと考えたとして、何故それを責められねばならないのです?』


 自業自得だっていうのか。

 そう糾弾したい思いは、しかし言葉にならない。

 僕はグルグルと、とりとめのない思考に翻弄される。


『本当なら、データそのものを破棄したとて問題など起こりません。少なくとも実質的にはね。それでも、貴方を生かす意味で、こうして野放しのままにしている。仏心というヤツですよ。貴方に垂らされた蜘蛛の糸――充分すぎる施しだ。貴方は、もっと身の程を弁えるべきでは?』


「……僕は」


 そう――その通りだ。

 そんなこと、知っていた。今まで、直視しようとしてこなかっただけで。


 僕は何者でもなく、何者にも成れない。

 ただダラダラと生命活動を営んでいるだけの獣も同じだ。

 誰とも関わらず、何に影響を与えることも無い。何かを得、それを他者と分け合うことは永遠に無いだろう。それは、社会の一員としての責務を、放棄することに他ならない。

 最低だ。

 それでも劇的な体験を繰り返せば、余計なことを考える必要も無かった。


『貴方は、ここにいるしかない。全ては手遅れ。他の選択肢は、貴方自身が見過ごしてきたのです。ならば、それを全うなさい。最後に残された救いは残念ながら、それだけだ』


 彼ないし彼女――神は、そう告げた。

 ここにいろと。

 そうして、今日まで保ってきた純粋な僕自身を、努めて死守しろと。


 簡単なことだ。

 これまでやってきたことを、継続するだけで良い。

 苦労も葛藤も必要ない。

 思考を放棄し、相変わらず刹那的な欲求に、身を任せればいいだけだ。


 ――本当に?


 僕は生きたいと望んでいる。

 もう叶わないことだとしても、僕という人間に何の意味も無いとしても――それが真実だ。

 それに、近づくことだというのだろうか?

 これまでと同じ日々を続け、自身を保ち続ける……そんなことが?


「……嘘だ」


『なんです?』


 僕の呟きに、相手が反応した。

 僕は顔を上げ、繰り返す。


「お前は嘘つきだ。僕が僕であるため? どう誤魔化そうと僕は、もう死んでるっていうのに?」


 価値があろうがなかろうが関係ない。

 僕は生あるものとして生まれついたんだ。

 なら、十全な状態で、快適に生きていたいと願うことに、何の不思議がある?

 身勝手だろうが、何の役にも立たなかろうが構わない。

 他人なんて知るか。

 世界なんて知るか。

 周囲を気遣って引っ込んでなどやるもんか――僕は生きたいから、生きてやるんだ。


「――試してやるよ」

『……何をです?』

「ログアウトする。僕は現実に戻る」


 意を決しての僕の宣言には、絶句が返った。

 沈黙が流れる。

 その向こうに、相手が僕の発言を慎重に吟味している気配が窺える。


『……本気で仰っているので?』

「本気も本気さ」

『その結果どうなるかは、申し上げたはずなのに?』

「お前が言っているだけだろう」

『信じないと?』

「信じる理由なんてあるか? 僕を陥れようとしている糞野郎のことなんて」

『陥れる……?』

「お前は僕に、サービスの継続を強要している。思うに、お前は企業の手先なんだ。つまり僕という最高の客を万に一つも逃がさないよう一芝居うってるってわけ。システムにやけに詳しい点も、ログを残す残さないの問答も、それで全て説明できる」

『……はあ』

「そして、もしも真実お前が、ネット上に生まれた意識なんだとしたら。サービスに飽きた客が次々に解約して企業が倒産、システムが解体される、なんてことになったら困るよな?お前だって死が怖いだろう。それを避けるために暗躍してたって不思議はない」

『……つまり、こう仰りたいわけだ。全ては私の虚言に過ぎない。サービスは事前の説明通り、何の隠ぺいも工作も無く、つつがなく清廉潔白に、健全に運営されている。当然ながら、貴方の体も無事。貴方は望み通り、自由にリアルとデジタルとを行き来できる』

「図星だろうが?」


 語気を強め、吐き捨てる。

 威圧を込めて、僕は神様の出方を待った。


 途端、弾けるような笑いが発せられた。

 相手は、さも愉快そうに笑声を上げる。

 いつまでも延々と、耳障りな声で鳴き続ける。


『――あぁ、失礼。いやはや、お目出度さもここまで来ると、いっそ清々しい』


 そう、可笑しそうに言う。

 相手は続ける。


『そうですね。面白い仮説だ。なんとも親切で回りくどい話ですが――うん、全く筋が通っていないわけでもない。いいでしょう、そこまで仰るなら、どうぞ試してごらんなさい』


 その言葉とともに、僕の視界の端で固まっていたアイコンが光を発した。

 会話を強制終了するための仮想ボタンだ。

 それは誘うように、チカチカと明滅を繰り返す。


『ロックは解除しました。後は、どうぞ、お好きになさるといい。ここまで来れば、もう止めはしません。それが貴方の選択ならば、尊重しましょう』


 言われなくとも。

 僕は、会話モードを終了するべく、さっとボタンへ指を伸ばす。

 と、それに触れるか触れないかのところで相手は囁いた。

 短く、けれどハッキリと。


『では、さようなら』


 それに、僕は返事を返せなかった。

 それを認識した時には、もう指はアイコンの上に置かれていたからだ。


 けれど、もしも間に合っていたとして、僕は何と言っただろう?

 その、あまりに不吉な、けれど、もしかしたら祝福に満ちた、別れの挨拶に対して?


 後には沈黙だけが残っていた。

 重苦しい空気が立ち込め、僕は身動きすることが出来ない。

 瞬きすら許されずに、僕は目の前に浮かび上がる一つのコマンドを凝視する。

 僕の人生において、おそらく初めて選ぶことになる――運命を左右する選択肢。


〝ログアウトしますか?〟

〝はい〟

〝いいえ〟


 僕は意を決し、震える指を――――

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電子の誘惑 飯塚摩耶 @IIDzUKA

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