第8話

 重たい湿気を孕んだ空気が、泥のように肌に粘りつく。




 カジュアルだが高機能繊維で仕立てられた耐湿速乾性衣類も、飽和状態の湿度には耐えきれず、じっとりと重たく体にまとわりつく。




 高原の冷涼な気候を模した、と言えば聞こえは良いが、要するに、快適温度よりは幾分ひんやりした空気の中。


 直接水をかぶったわけでもないのにすでに半分濡れ鼠状態の『彼ら』は、それでも大人しく震えながら、目の前で繰り広げられるウォーター・ショーに見入っていた……わけではない。




 トン単位の水の塊が空中に持ち上げられ、支えを失ったそれが再び水面に戻り。




 衝撃で水しぶきが飛んでくるのもかまわず、彼らは水面に、正確にはその底に目を凝らす。




「ホントに、あんなの、役に立つのかよ……」


 やや離れた位置で、エア・バイクのハンドルにもたれながら、男は無感動に呟いた。




 初めて目にした時は驚愕動地だったウォーター・ショーも、見慣れた今は湿気と轟音でウザイだけの現象に過ぎない。


 他を知らないが、「能力者」というのはそういうものだ、と認識した今は、ホバー・カーやエア・バイクが空中に浮くことと大差がない現象だととらえている。




 原理は分からないが、なのだと。




 とはいえ、チームの幹部連中ほど事情に通じていない、詳しい説明も受けていない下っ端の男にとっては、言われたから仕方なく従っているだけで、その行動に何の意味も見出せていない。


 そもそもこのウォーター・ショーだって、近隣住民に脅しをかけるための、単なるパフォーマンスだと思っていた。


 まあ、その意味もないではないのだろうが、幹部連中が目の色を変えて水面に見入っている様子は、別の目的を感じる。


 それを教えてもらうにはまだチームに加入してからの日が浅く、かといって積極的に事情を探りたいと思うほどの興味はない。


 勉強が嫌いで劣等生の自分が、そこそこ世間に幅を利かせて生きていくのに都合が良いからすり寄っているに過ぎない。


 見張りとしてやや離れた場所で待機することを命じられ、これ幸いと傍観者に徹していた。


 恒例のウォーター・ショーついでに、見かけないホバー・カーの持ち主を見つけて来訪の目的を問い質してやろう、と誰かが言い出したのだ。


 普段からメンバーの行動には無関心なリーダーは、それでも最近この辺りでは見かけない来客に興味があるのか、当たり前のようにホバー・カーの上に陣取っていた。


 その体が宙に浮いているのも、もはや男の中では、ごく当たり前の『現象』だった。




「……あの、ちょっと」




 女性にしてはハスキーな、男性にしてはやや高く甘めの声が、男の背に降りかかる。




 慌てて振り向くと、くるぶしまである長い丈の白いコートを身にまとった、可憐な姿がそこにあった。


 すらりと背が高い、けれどたおやかな印象の、麗人。


 露を含んでしっとりと重たげな黒髪は、晴れた時ならばきっとさらさらとつややかに輝くのかもしれない。頬にかかる肩より少し長めのその髪を煩げにかき上げるその指先が、なんとも色っぽい。


 その優美な線を描く頬の上には、潤んだ、こちらも黒い瞳がある。


 吸い込まれるような深い色合いのガラス玉のような双眸は、今は不安げに愁いを帯びていた。




「あのホバー・カーくるま、うちのなんです。どいてもらうように言ってもらえませんか?」


 やや強めの口調だが、その固さと、わずかに震えた声音から、怯えを抑え込もうとしているのが分かる。


 形の良い唇が、緊張のためかやや色を失っているのが、何とも哀れで……庇護欲をそそる。




「ああ、君が持ち主なんだ? うん、返してあげたいんだけど……君、ひとりなの?」


「ううん。おにい……兄と一緒。私は、荷物を取りに来たの……」


「そうなんだ? お兄さんは、ここにはいなんだね? 困ったな……」


 本心から、男は『彼女』に同情する。




 何事にも無関心なリーダーは、こと色事には嫌悪感を示すので表立って話題にはしないが、裏では閨事に目がないメンバーの面々を思い浮かべる。


 今では男らしくがっしりとしてきているが、かつては繊細な美貌の少女と見紛う容姿だったというリーダーを、こともあろうか押し倒そうとして返り討ちにあい、絶対服従を誓ったメンバーがいるとかいないとか……ともかく、リーダーの前では色事の話題は禁忌である。


 とはいえ、こんな見目麗しい、ちょっと強気な感じの、それがまた征服欲をそそりかねない美女が目の前に現れたら。


 リーダーの目を掠めて、我が物にしようと考えるかもしれない。


 ……自分もまた、同じ穴の狢だという自覚は、十分にある。


 リーダーが『保護』すれば、その毒牙から守ることもできるかもしれないが、確実に自分との接点も断たれるだろう。


 いや、こんな『美女』、堅物のリーダーすら、心を動かされるかもしれない。




「お兄さん、ここに呼べるかな? 君ひとりっきりだと、その、危険かもしれないし」




 あわよくば、その兄を生贄に差し出して、『彼女』を連れて、どこかに身を隠して……。


 そんな安易な目論見を悟られないよう、男は気の毒そうな表情で、兄への連絡を勧める。




「でも、おに……兄は、すぐには……」


 困ったように伏せた目元は、ゾクゾクするほど魅惑的で……男は思わず、その顔に手を伸ばす、と。




「何やってんだ? ちゃんと見張り……ん? ……へえ」




 状況確認にきた幹部のひとりが男に文句をつけようとして、『女性』の存在に気が付く。


 その声に瞬時に劣情が宿る。




「あ、いや、この子は……」


「あの、車から荷物をとりたいんですけど」


 誤魔化そうとした男のを意にも介さず、『彼女』は自分がホバー・カーの持ち主だと暴露してしまった。


「へえ? じゃあ、あっちに行こうぜ? 荷物を取り出したいんだろ?」


「いや、持ち主はこの子の兄さんらしくて……」


「でも、荷物取りに来たんなら、キーも持ってるんだろ? ……大丈夫。俺らは男には厳しいが、アンタみたいな可愛い子には、優しいからよ」




 ニヤリ、と下卑た思惑を隠しもせず、幹部は『彼女』の腕をサッと掴む。


 一瞬身をこわばらせて、身を引こうとする『彼女』を幹部は強引に、引きずるようにして岸辺のホバー・カーの元へ連れて行った。




「……あーあ、可哀想に……」




 本当は、来訪の目的なんて、どうでもいいのだ。ただ、いたぶる理由が欲しいだけ。




 その相手が、あんな可憐な美女ならば、楽しみが、増えただけ。




「へえ、意外と優しいんだな、アンタ」


「そりゃ、あんな可愛い子がひどい目に遭うのは、俺だって気持ちよくはないさ……って?」




 どこからともなく聴こえてきた耳触りの良いバリトンボイスに素直に返答してから、男は違和感に気付く。




「え? 誰……」


 その声の主に見定める間もなく、男は昏倒する。


 うまいことハンドルにもたれかかるように、遠目には、暇を持て余して、ぼんやり遠くを眺めてでもいるかのような体勢で、男は意識を失い。


 ゆえに、男は、目にすることはなかった。耳にすることも。




 遠方で、次々と倒れていく、仲間たちの姿を。その悲鳴を。




「目を覚ましたら、少しはマシな生き方、考えろよ? あんなのとたむろっていたって、ロクなことになんないぞ」




 たった一撃の手刀で男の意識を奪った、『彼』の言葉も知らないまま、ひと時、安穏とした眠りの世界に入っていった。


 

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あの青い空の下で、君は笑う 清見こうじ @nikoutako

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