第4話

 父様の名が刻まれた記念碑の前に立つ。記念碑の目には誰かが捧げた花が活けられていた。周りの記念碑を確認すると何かが捧げられている記念碑は半々だった。生前の父様の知り合いが捧げてくれたものだろうか?

 「父様、一か月後僕は十六になります」

 父様の名が刻まれた記念碑に話しかける。いつからか何かあった時、迷った時はノーブルさんに相談するか父様の記念碑に話しかけるようになっていた。ネヴァーマインドの街では十六歳で成人とみなされ、多くの人は親の仕事を継ぐための準備を開始する。僕も本来であれば父様の後を継いで領主になるための準備を開始するはずだった。

 「でも、まだ進むべく道は決まっていません」

 自分の中では”ある道”に進みたいという希望があった。でも、父様の死がその道に進むことを躊躇わせる。仮に希望を持ってその道に進んだとしても何か自分の力ではどうしようもない大きな力によって望む結果を得ることが出来ずに絶望して父様と同じ道を選んでしまうのではないか?だったら最初から希望は持たない方がいいんじゃないのか?希望がなければ絶望もないだろうから……。

 いつも未来のことを考えると思考は同じ軌跡を描いてしまう。

 「また、来ます」

 沈んだ気持ちを抱えたまま記念碑を後にする。


 「あれ、カートじゃん」自宅に帰る途中でバッタリ、クリスに出会う。「何してんの?」

 「父様の記念碑から帰る途中。クリスは?」

 「俺?俺はこれ」

 クリスがポケットから何を取り出してこちらに見せる。よく見るとそれは石工ギルドのメンバーであることを証明するバッチだった。

 「石工ギルドのバッチってことは親父さんの後継ぐの?」

 「ああ、そのつもり」

 「前まであんなに嫌がっていたのにどうして?」

 「確かに親父の後を継いで石工になるのなんてゴメンだと思ってた。正直、親父の姿を見てたら俺は親父のようになりたくないと思ったから。そんな時にあの災厄が起こった。あの災厄で多くの建物が壊れて、親父が誇りにしていた礼拝堂も瓦礫と化した。それを見てやっぱり石工はないなって思いが強くなった」

 「……」

 この世界は不条理だ。自分の力ではどうしようもない事が多すぎる。

 「どんなに汗水たらして頑張ったって今回みたいな災厄が起きたら脆くも崩れ去る。だったら……ってそう思ってた。でも、カートの記念碑を見て考えが変わったんだ」

 「僕の、記念碑?」

 「ああ。カートが記念碑を完成させてから何故か無性に気になって時間があったら様子を見に行ってたんだよ。時間はバラバラだったけど、訪れる度に記念碑には人がいた。故人の名が刻まれた記念碑の前に立って物を供え、祈りを捧げて話しかけてた。その人たちと故人がどんな関係だったのかは分からないけど、みんな記念碑を立ち去る時は満足気な表情を浮かべていた。そして、ふと思ったんだ。今回みたいな災厄がまた起こって記念碑が瓦礫と化してしまったとしても多くの人たちが記念碑で過ごした時間はなくなってしまうのかなって……」

 「なくならない」

 すぐにクリスの問いかけに答えていた。僕が父様のことを決して忘れなかったように”思い出”は消えない。

 「そう、なくならない。俺たちはニルヴァーナに旅立つことが許されなかったデラシネやエーテンダーの人たちのことは忘れるように教えられて育った。それにも関わらず多くの人たちが記念碑が訪れた。俺にはデラシネやエーテンダーになってしまった親しい人はいないけど、もしそういう人が出来たらきっと記念碑を訪れると思う。その事実を受け止めて、消化し、前に進むために……。もし仮に自分のつくったものはいづれ瓦礫と化す運命なのかもしれない。例え、そうだとしてもつくる価値が、自分の人生を賭けてつくる価値がきっとある。そう、信じられるようになった。だから、俺は親父の後を継いで石工になると決めたんだ」

 クリスの言葉にハッとさせられる。

 虚無から生まれ、虚無に帰る存在だとしてもその過程までもが虚無だと決まっているわけじゃない。年老いた男に対して自分が言った言葉。そうか、そうだよな。答えはもう自分の中にあった。しっかり出来上がっていた。明日にはデラシネとなる身かもしれない。エーテンダーとなることを選んでしまうかもしれない。でも、今は?今はデラシネでもエーテンダーでもない。出来ることがある。だったらそれをやるだけだ。例え明日には無駄になったとしても……。

 「ありがとう、クリス」クリスの手を力強く握る。クリスに構わずに礼をのべる。「クリスのおかげで大切なことに気付けた。ホントにありがとう。じゃあ、行かなきゃいけないところがあるから」

 クリスの言葉を待たずに走り出す。

 「お、おい急にどうしたんだよ?」

 「進む道が決まったんだよ。うまくいったら今度話すよ!」

 僕の”お願い”にグラーフさんはどんな反応を見せるだろうか?


 執務室の一室―前にグラーフさんと話した部屋―でグラーフさんを待つ。指で机を規則正しく叩いて気持ちを落ち着かせる。ドアが開いてグラーフさんが部屋に入ってくる。慌てて立ち上がろうとするもグラーフさんが手で制する。

 「そんなかしこまらなくていいよ」そう言って正面の椅子に腰かける。「急いで片付けなきゃいけない仕事があってね。待たせてしまって悪かったね」

 「いえ、そんな。こちらこそお時間をつくって頂いてありがとうございます」

 「お母さんの様子はどう?元気でやってる?」

 「ハイ、おかげ様で」

 「それはよかった。で、話しっているのは何かな?」

 「ハイ。来月で僕は十六になります」

 「もうそんなになるのか。年が経つのは本当に速いものだね」

 「ネヴァーマインドの街では十六歳で成人とみなされ働き始めます」

 「そうだね」

 「そこで……」小さく息を吐いて気持ちを落ち着かせる。「来月から僕にグラーフさんの手伝いをさせてもらいたいんです」

 グラーフさんからの返答はなく、無言でじっと僕を見つめてくる。僕はただその視線を受け止め続ける。

 「理由を、聞かせてもらえるかな?」

 「おじい様はニルヴァーナを信じていて、ニルヴァーナに旅立っていきました。父様はニルヴァーナを信じていませんでした。ある日、父様は僕に言いました。『ニルヴァーナというあるか分からないものを目標とするべきではなく、街の発展という具体的なことを目標とすべきだ』と。そう言っていた父様は自ら死を選びエーテンダーとなりました。僕はフェニックス家の人間として周りから将来は父様の後を継いでネヴァーマインドの街の領主となると思われていました。未来の領主さま……それが私のアイデンティティだったのです。でも父様がエーテンダーとなってしまったことでそのアイデンティティは呆気なく失われてしまいました。幼い頃から信じていたアイデンティティがなくなって空っぽになった僕は考えました。僕が信じるべきものは何か?ニルヴァーナか?街の発展か?それとも別の何かか?そんな時にあの災厄が起こりました。あの災厄で大切な友だちを失った少女が教えてくれたんです。その人がその人たる所以は何か?僕は”思い出”だという考えに行きつきました。その人が過ごした時間こそが今のその人を作っていると。僕は幼い頃から父様の仕事を見て、父様の仕事がいかに人々の暮らしに影響を与えているかを見てきました。全く望んでいない結果を招いてしまいましたけど、父様が建設した診療所は今まで見捨てられた人たちを救ったはずなんです。道を失った時に相談にのってくれた人は言いました。『犬のように鳴き、犬のように食べ、犬のように駆けるならそれは犬である。では、どのように考え、どのように行動するのがカート・フェニックスと言えるのか』と。どうすれば人々が安心して暮らしていけるのかを考えて行動していくのがカート・フェニックスだと。それが僕の出した答えです」

 「ドナルドさんの失敗をすぐ傍で見てきたにも関らずドナルドさんと同じ道を歩むのかい?そうしなきゃいけないわけでもないのに」

 「はい」

 間髪入れずに答える。

 「何故?」

 「父様は自ら死を選びました。それでも父様の仕事は決して無駄ではなかったと信じているからです」

 力強く、ハッキリと告げる。

 「君が進もうとしている道は茨の道だよ?君が建設した記念碑には多くの人が訪れている。デラシネやエーテンダーに対する人々の考え方は確実に変わりつつある。しかし、考えは変えない人もいる。その人たちから見れば君はあくまでエーテンダーという忌むべき存在の息子でしかない。他の、多くの子が進む職人の道なら成果が目に見えやすいので君の働き次第ではその考えを変える機会も得やすいだろう。でも、君の進もうとしている執務の道はそうじゃない。成果が出るまで何年もかかるのはガラで成果は非常に目に見えにくい。それを見て非難の言葉を浴びせる人もいるだろう。もう一度あえて言うけど、君は執務の道を進まなきゃいけない立場ではない。それでも君はその茨の道を歩みたいとい言うのかい?」

 「ハイ!」

 「それがカート・フェニックスだからかい?」

 「それがカート・フェニックスだからです」

 「ドナルドさんには随分お世話になった。だから私に出来ることなら何でもするつもりだった。でも……」苦笑いを浮かべて言葉を続ける。「一緒に仕事させてくださいと言われるとは思わなかった。私はドナルドさんのように優しくはないよ。それでもいいかい?」

 「もちろんです!」

 「分かった」立ち上がって手を差しだしてきれくれる。「これから、よろしくカート」

 「ハイ!」

 立ち上がって手を握る。

 「一緒にこの街のために頑張ろう」

 「ハイ!」

 この日、カート・フェニックスの新しい道が定まった。


 ノーブルさんの屋敷を訪れると壊れた正門を前にしてノーブルさんがスケッチに筆を走らせていた。

 「ノーブルさん」

 「おお、カートか。久し振りじゃの。元気にしとったかの?」

 「ハイ。ノーブルさんもお元気そうで」

 「我はヒトと違って病気にかかることはないからの」

 「何してるんですか?」

 「ああ、これか」筆をこちらに向ける。「我は正門は壊れたままでもよかったんじゃが、テオさんが正門が壊れたままでは高貴なるクリムゾン・ノーブルの沽券に関わると譲らなくてな。石工も街の復興で忙しそうじゃったからそのままにしといたんじゃが、ついに直す日取りが決まっての。折角じゃからあの日起こったことを憶えておく意味も込めてこうして筆を走らせているわけじゃ」

 「そうだったんですか」

 「で、今日はどうしたんじゃ?また何か相談事か?」

 「いえ、今日は報告に来ました」

 「報告?」

 「ハイ。僕は来月から執務館で働くことになりました」

 「来月……ああ、そうか。この街では十六になったら働くようになるんじゃったな」

 「ハイ」

 「執務館ということはドナルドと同じ道を歩むんじゃな」

 「執務補佐の補佐ということで立場は随分違いますけど、目指すべきものは父様と同じですね」

 「そうか」

 ノーブルさんが目を細めてじっと僕のつま先から頭の上まで全身に目を走らせる。

 「ど、どうしたんですか?」

 「いや、初めて会った時のことを思い出していた。初めて会った時は同じ目線だったのに、今はこうして見上げるようになった。それにいい顔をするようになった。道に迷える子羊のような表情の少年はいないのじゃな」

 懐かしさと悪戯っぽさが混じった笑顔。

 「ノーブルさんのおかげです」

 「そんなお世辞は言わなくてよいぞ」

 ノーブルさんの顔に影が差す。

 「お世辞なんかじゃありません。ノーブルさんに出会うことがなければノーブルさんが言ういい顔になることはなかったと思います。本当に、ありがとうございます」

 深々と頭を下げる。すると、全く予期していなかった言葉が降ってきた。

 「……礼を言うのは我の方じゃ」

 「ノーブルさん?」

 頭を上げると抱き着かれる。

 「高貴なる紅……ネヴァーマインドの街の人たちは我のことをそう呼んで敬ってくれたが我は一方的に受け取るだけで何も返すことが出来なかった。我はこの世界で唯一人のクリムゾン・ノーブル。ヒトとは違う種族ゆえにヒトが何を望んでいるか我には分からぬ。分かろうとヒトを観察し続けたがその差に唖然とするばかりじゃった。そんな事が重なり、諦めかけていた時にカートと出会えた。クリムゾン・ノーブルであること……我にとってはそれは只の事実であり、よいとか悪いとかの対象ではなかった。でも、カートの相談にのることが出来て初めてクリムゾン・ノーブルでよかったと思えた。初めて我という存在に価値を感じることが出来た。クリムゾン・ノーブルはカート・フェニックスに出会えて本当によかった」

 ノーブルさんが体を離して、今まで見たどんなものよりも輝く笑顔を見せる。

 「ありがとう、カート・フェニックス」

 この日見た笑顔は色あせることなく僕の中に残り続けることだろう。


 「ニルヴァーナは……」お父様が話始めると、ざわめきがぴたりと止む。熱い視線でお父様の次の言葉を待つ。「私たちの目的地です。ニルヴァーナとは何か?この世界の反対、大いなる静寂が約束された場所です」

 二十人ほど集まった村の集会。一番後ろで村の人たちと同じようにお父様の言葉に耳を傾ける。

 「ニルヴァーナ」

 小さく呟く。その響きには不思議な力が感じられた。

 「この世界にはたくさんの苦難があります。飢え、病、寒さ……みなさんもそうだと思いますが、”死”はいつもすぐ隣にいる存在であり、私は幼い頃から死を感じながら育ちました。明日は隣で笑っていた友人が明日にはいなくなってしまうということが日常の出来事だったからです」

 小さな嗚咽が漏れる。見渡すと小さく肩を震わせている人があちこちにいた。

 「私はずっと考えてきました。何故私たちの住む世界にはたくさんの苦難があるのか?何故たくさんの苦難があるような世界なのか?その答えが分からずに多くの同胞の死を見てきました。そして、ある日尊敬していた兄を失いました」

 沈黙。小さく息を吐いて再び言葉を紡いでいく。

 「兄はいつも私を支え、励ましてくれました。兄がいなければ私はここまで来ることはなかったでしょう。兄の死によって再び何故世界はこうなのか?という問いが無視できないくらい大きくなってきました。その時、兄がよく言っていた言葉が蘇ってきたんです。『この世界で起きる事には全て意味があるんだよ』と。その言葉を初めて聞いたのは兄と一緒に狩りに行った時のことでした。一匹も獲物を仕留めることが出来ずにむくれていた私に兄は諭すように言いました」


 『ジョン。ジョンは何で鹿を仕留めることが出来なかったんだと思う?』

 『鹿が逃げるからです』

 『鹿は何故逃げることが出来るんだと思う?』

 『そう産まれたからです』

 『何故そう産まれたんだと思う?』

 『必要だから』

 『何故逃げることが必要なんだと思う?』

 『僕に仕留められないように』

 『そうだね。鹿が今のような形なのは人間に簡単に仕留められずに生き延びることが出来るためだ』

 『じゃあ、僕は何で鹿を簡単に仕留められるように産まれてこなかったんですか?』

 『何でだと思う?』

 『分かってたら聞きませんよ』

 『もし、ジョンが簡単に鹿を仕留められるように産まれていたらどうなっていたと思う?』

 『たくさん鹿を仕留めて毎日お腹一杯食べられて嬉しいと思います』

 『そうだね。最初は毎日お腹一杯食べられて嬉しいかもしれない。でも、そんな日々が続いたらどうなると思う?もうお腹一杯だからといって肉を捨てるようになるかもしれない。鹿を取りすぎてしまって鹿がいなくなってしまうかもしれない』

 『あっ……』

 『もちろん、だからと行って空腹の状態で今の世界が何よりも素晴らしいと思うのは難しと思う。でも、この世界で起きる事には全て意味があると考えたら今の世界も悪くないと思えない?』

 『確かに……』

 『だから、そんなむくれてないで笑顔笑顔。僕が仕留めた獲物を分けてあげるから』

 『本当ですか!』

 『本当、本当。だから早く村に帰ろう。笑顔でね』

 『ハイ!』


 「村の掟で例え子供であっても獲物を仕留めることが出来なかった男は食べることが許されていませんでしたが、兄は掟をこっそりと破って私に食べ物をくれました」

 愛おしい過去を慈しむかのような笑みを見せる。

 「『この世界で起きる事には全て意味があるんだよ』

 何故、兄は若くしてこの世を去らなければならなかったのか?兄の死に顔を見つめながら考えていると急に声が響きました。『ニルヴァーナ』と。訳が分からずに慌てて周りを見渡すも兄以外に誰もいません。呆然としていると再度声が響きました。『大いなる静寂を目指せ』と。そのとき、私ははっきりと理解したんです。兄の死の意味を、この世界の真実を!」

 村の人たちが固唾を飲んでお父様の次の言葉を待つ。

 「私は悟りました。兄の死は私に世界の真実を、ニルヴァーナに気付かせるためにあったのだと。何故この世界は苦難に満ちているのか?それはこの世界がニルヴァーナに行くための準備をする場所だからです。この世界に意味のないものなど一つもありません。多くの苦難にも意味があります。苦難は私たちを磨き、強くし、向上させるために存在するのです!」

 両腕を広げて力強く語りかける。

 「苦難を受け止め、乗り越え、強くなりましょう。その果てには大いなる静寂が待っています。行きましょう、ニルヴァーナへ!」


 「お帰りなさい、あなた、バズ」

 笑顔で迎えてくれたお母様に駆け寄って抱き着く。

 「ただいま、お母様」

 お母様の匂いを全身で感じる。

 「コラコラ、この子はいつまでたっても甘えん坊なんだから。離してくれなきゃ夕ご飯の準備が出来なくてご飯が食べられなくなっちゃいますよ」

 お母様の言葉に渋々体を離す。お母様をいつまでも感じていたかったのに……。

 「バズ、大切な仕事があるだろう?」

 お父様の言葉にハッとする。お盆に木皿とパンをのせ、木皿にエンドウ豆のスープを盛り付ける。

 「では、行ってきます」

 「気を付けてね」

 お母様の言葉に見送られてお盆を手に”彼女”のテントに向かう。

 彼女は何の前触れもなく突如現れた。金髪、紅い瞳、白い肌と僕らとは全く異なる姿に怖がって誰も彼女に話しかけようとはしなかった。彼女も遠巻きに見ているだけで近付いてこようとはしなかった。決して交わることがなかった僕らと彼女だったが、ある事件がそれを変えた。ある日、お父様と村の男らが狩りに出かけた。その日は朝から黒いぶ厚い雲が空を覆っており、昼過ぎから今まで経験したことがないようなどしゃぶりの雨が降り出した。お母様と二人でお父様が無事に返ってきますようにと祈りながらお父様の帰りを待った。夕方、男らが帰ってきたがその中にお父様の姿だけがなかった。聞くと鹿を追っている途中に足を滑らせて川に落ちて流されてしまったらしい。それを聞き飛び出そうするお母様を慌てて男らが止める。

 「この雨の中で探索するのは無理だ。雨が止んだら探索に行くから今は我慢してほしい」

 納得したわけではなかっただろうけど、お母様は首を縦に振った。

 その夜、雨がテントを叩く音を耳に初めて眠れぬ夜を過ごした。

 夜が明けた。雨も止み男らが探索に出かけようとすると彼女に支えられてお父様がゆっくりと歩いてきていた。唇は紫色に変わり、顔からは血の気が失われていたが命に別状はなさそうだった。

 その日から彼女は村の大事な客人となった。

 「ノーブル様、ご飯をお持ちしました」

 自らの名前を知らなかった彼女は燃えるような紅い目と見たこともない豪奢なドレスを身に付けていたことからクリムゾン・ノーブルと呼ばれるようになっていた。

 「おお、バズ」

 お盆を手にノーブル様のテントに入るとノーブル様は狩りに使われる弓をしげしげと見つめていた。

 「そんなに弓をじっと見つめてどうしたんですか?」

 「どんな構造をしているか気になってな。我にとってはそなたらが使う全てのものが珍しいものじゃからな」

 「ノーブル様は狩りとかしたことないんですか?」

 「我は食べることが必須じゃないからのう。じゃから何度も言っておるがこうして毎日食べ物を持ってくる必要はないのじゃぞ?食べ物も余っているわけではないじゃろうし、感謝の気持ちというのであればこうしてテントを用意してくれて夜露をしのげるだけで充分なのじゃから……」

 「そうはいきません。ノーブル様はお父様の命の恩人なわけですし、必須じゃないといってもおいしいとは思うんでしょ?」

 「ま、まあそうじゃな」

 「では遠慮なく召し上がってください」

 「ではお言葉に甘えさせてもらうとするかの」

 ノーブル様がお盆を手に取る。

 「ハイ、甘えちゃってください」

 「ところで、今日のジョンの話は興味深かったの」

 「ノーブル様も聞いていたんですか?」

 「うむ。そなたらのことをより理解する絶好の機会じゃからの。そなたらが目指すべきニルヴァーナ、大いなる静寂か。バズもニルヴァーナを目指しておるのか?」

 「勿論です。全てはニルヴァーナのため、ですから」

 「そうか、行けるとよいな」

 「ありがとうございます。では、僕はそろそろ戻らないとお母様が心配するのに行きますね。いつも通り食べ終わったらお盆は外に出しておいてください」

 「うむ。分かった」


 フェニックス家のテント。ジョンがバズの寝顔を見つめている。

 「バズはもう寝た?」

 「ああ、ぐっすり眠っている」

 ジョンがバズから離れる。妻であるエマと向かいあって座り、エールに口をつける。

 「私の話はどうだった?」

 「良かったわ。村の人たちも元気づけられてた」

 「そうか」妻の言葉を噛みしめるように呟く。「今年の冬は誰も失うことなく越せると思うか?」

 「大丈夫……だと思う。食料は充分に貯蔵出来てるし、村の人たちの雰囲気もいい」

 「いつか、冬に失われる命の心配をせずにすむ日がくるのかな?」

 「貴方が村の人たちにニルヴァーナという目標を与えてから村に人たちは元気になって狩りの成果もあがって人も増えてと全てが上手く回り出した。私が子供の頃はいつも死に怯えていた。私たちはそう遠くない未来にみんないなくなっちゃうんじゃないかっていつも怯えていた。でもバズはいつも笑顔でそんなこと考えたことないと思う。今の生活を続けていけばいつか冬に怯えないですむようになるわ」

 ジョンが背もたれに体を預けて大きく息を吐き出す。

 「私は……怖いんだ」

 「怖い?」

 「村の人たちの、何よりバズの視線が怖いんだ。私が話をする時、彼らは真っ直ぐに私を見つめて訴えかけてくる。ニルヴァーナはあるんですよね、ニルヴァーナに到達することが本当に私たちの目標なんですよねと。私は自信を持ってその視線を受け止めているように振る舞っているが、内心ではその真っ直ぐな視線に怯えていた。何故ならニルヴァーナが具体的にどのようなものなのか分からないからだ」

 ジョンの手が小刻みに震え出す。

 「兄の死に顔を見つめている時に『ニルヴァーナ』『大いなる静寂を目指せ』と声が頭の中に響いたのは本当だ。ただそれだけだ。ニルヴァーナが何なのか、大いなる静寂とはどのような境地なのか皆目検討が付かなかった。にも関らず村の人たちに自信満々に言うんだ。ニルヴァーナに行こうと。ニルヴァーナでは大いなる静寂が待っていると。ひどい男だろ、私は」

 口の端を吊り上がらせるジョン。エマが立ち上がり、ジョンに近付いていって優しく抱きしめる。

 「自分を責めないで。私にもニルヴァーナが何なのかは分からない。でも確かに言えることが一つだけある。絶望に押し潰されそうになっていた私たちには”希望”が必要だった。過酷な現実に歯を喰いしばって耐えさせるだけの希望が。貴方は私たちにその希望を与えてくれた。貴方が与えてくれたニルヴァーナという希望がなかったら私たちはいつかの冬で絶望に飲み込まれてみんな死んでしまっていたと思う。貴方は多くの人の命を救ったの。それは多くの人に褒められるべき立派なことだわ。だから、自分を責めないで」

 二人はずっと抱きしめ合っていた。


 いつものように散歩をしながら村の人たちの様子を観察していると村の子供たちが集まって何かしているのが目に入ってきた。興味を惹かれ、近付いてバズに声をかける。

 「バズ、何をしているのじゃ?」

 「あっ、ノーブル様。こんにちわ!」

 「こんにちわ、ノーブル様」

 バスが挨拶すると、他の子供たちもすぐ挨拶してくる。

 「うむ、みんな元気じゃな」

 「僕たちは未来のために訓練しているところです」

 「訓練?」

 「ハイ。僕たちはまだ危ないからといって狩りに参加することは出来ませんが、参加出来るようになった時にはすぐ成果を出せるように今から訓練しているんです」

 「それは殊勝な心がけじゃの。バズが言い出したのか?」

 「ハイ。他の子供たちに声をかけたらみんな進んで参加してくれました」

 「ふむ。訓練の様子を観察させてもらってもよいか?」

 「いいですけど……見ても別に面白くないと思いますよ?」

 「我にとってはそなたらのすること全てが興味の対象じゃからの」

 「まあ、ノーブル様が見たいと言うなら僕たちは別に構いませんけど……」

 「では、観察させてもらうとするかの」

 少し離れた所に腰を下ろしてバスらの訓練の様子を観察する。気にくくりつけられた標的に向けての石投げ、でんぐり返しの連続。やっていることは只の遊戯のように見えるが子供たちはみんな真剣な表情で打ち込んでいた。

 でんぐり返しが終わるとまとまって走り込みを始めた。一定のスピードを保ったまま村の周りを走っていく。一周、二周と周を重ねていくたびに後ろを走っていった子供が少しずつ他の子供たちから離れていく。十周目に差し掛かった時には大きく離れてその子供は足をもつれさせて転んでしまった。その事に気付いた子供が他の子供に声をかける。

 「ちょっと待って。デイルが転んじゃってる」

 子供らは足を止め、デイルが転んでいる姿を確認すると慌ててデイルへと駆け寄っていく。唯一人、バズを除いて。他の子供がデイルに声をかけている様子をバズは険しい表情で見つめていた。

 「いつまでぐずぐずしているんだ!」

 バスの怒号が村に響き渡る。ただならぬバズの様子に慌ててバズへと駆け寄っていく。

 「バズ、どうしたんじゃ?そんな声を荒げて」

 「これは遊びじゃなく訓練なんです。未来の狩りを成功させるための。ニルヴァーナに行くための行動なんです。それなのに真剣に行わない奴がいるから僕は怒っているんです!」

 「ぼ、僕はし……」

 デイルが反論しようとするもバズの刺すような視線に口をつぐんでしまう。

 「デイルは走るの得意じゃないんだからしょうがないじゃん」

 「そうだよ、人には向き不向きがあるんだから……」

 見かねた他の子供らが反論の声を上げるもバスは全く臆することなく言い返していく。

 「デイルが走るの苦手だから、鹿はデイルが追いつけるようにゆっくり逃げてくれるの?デイルが走るの苦手だから、熊はデイルが逃げられるように追いかけるスピードを緩めてくれるの?デイルが獲物を仕留めることが出来なかったら他の誰かがいつもデイルの分まで獲物を仕留めてくれるの?デイルが全力で訓練に取り組んでいないせいでニルヴァーナに行くことが出来なかったらどうするの?みんなはそれでいいの?」

 バスのあまりの権幕にみんな口をつぐんでしまう。

 「バス、もうその辺に……」

 「ノーブル様は黙っていてください。これは僕たちにとってとても大事なことなんですから!」

 肩に触れようと伸ばした手がバズの言葉で止まる。ジョンを助け、村に迎い入れられた日から村の人たちは敬意を持って接してくれていたので敬意以外の感情をぶつけられたのは初めてだった。

 「その……すまぬ」

 どう振る舞っていいのか分からずに気付けば謝罪の言葉を口にしていた。

 「その、僕の方こそすいません。ノーブル様に失礼なことを言ってしまって……」気まずさからか顔を少し伏せる。「でも分かってください。この問題は僕たちの今後を左右するとても大事な問題なんですから」

 「あの、ごめんなさい。僕のせいで訓練が中断されちゃって」

 デイルがみんなに頭を下げる。子供たちがバズの様子を伺う。

 「……大丈夫?」

 「うん、もう大丈夫」

 「訓練、続けられそう?」

 「うん、まだ頑張れるよ」

 「よかった」バズが笑顔をみせて他の子供らもほっと胸を撫でおろす。「キツイ事言っちゃってゴメンね。でも僕がキツイ事言うのもデイルのためだからね。今のデイルじゃなく、未来のデイルも含めて」

 「うん、分かってるから大丈夫だよ。さっ、訓練再開しよう」

 「じゃあ、ノーブル様。僕たちは訓練を再開しますんで」

 「う、うむ。あんまり無理はしないようにな」

 バズを先頭にして子供たちが再び走り出す。その姿を見つめながら脳裏にはバズの厳しい表情が焼き付いていた。十才にも満たない子供にあんな表情をさせるとは……。

 「この世界はあまりに過酷じゃな」

 思わず、そう呟いていた。


 その日も他の子供たちと日課となった訓練に励んでいた。最初の頃は最後まで課題をこなすことが出来なかった子もいたけど、今は誰もが卒なく課題をこなせるようになっていた。その事実に心が弾む。正しい行いには正しい結果が待っている。今の正しい行いを続けていけば、僕らはきっとニルヴァーナに旅立つことが出来るだろう。

 「バズ!」

 ノーブル様が血相を変えて駆け寄ってくる。

 「どうしたんですか、ノーブル様。そんなに慌てて……」

 「エマが、エマが倒れた!」

 「えっ……」

 「早く家に戻ってやれ」

 「……」

 お母様が倒れた。僕は帰るべきなのか?僕は今何をしている?未来の、ニルヴァーナに行くための訓練だ。僕は医者じゃない。僕が今帰っても出来ることは何もない。だったら、僕が今すべき事は一つしかない。

 「どうしたんじゃ?何でじっとしておる?」

 帰ろうとしない僕に訝しむ声をあげる。

 「僕は帰りません」

 「何!」

 「僕が帰らない理由は二つ。僕は医者ではないので今帰っても出来ることはありません。今、僕は大事な訓練中です。なので僕は帰りません」

 「そなたは……本気でそう言っておるのか?」

 「もちろん。僕は本気です」

 「そうか。ならもう我は何も言わぬ」

 ノーブル様が去っていった。他の子供らは何か言いたそうに僕を見つめてきたが気付かぬ振りをしてその視線を無視した。

 「さっ、訓練を再開しよう」

 何事もなかったかのように訓練を再開した。


 訓練を終えて急いでテントに戻るとお母様がお父様と村の人たちのよってテントから外に運び出されているところだった。

 「お母様は?」

 お父様が力なく首を横に振る。お母様が亡くなった。お母様はもうこの世界にいない。じゃあ、お母様はどこに?

 「エマはきっとニルヴァーナに旅立ったことだろう」

 ニルヴァーナ?お母様はニルヴァーナに旅立ったのか?

 「……違う」反射的に否定していた。「お母様はニルヴァーナに旅立ってなどいない」

 「えっ?」

 周りの視線が僕に注がれる中、一気にまくし立てる。

 「ニルヴァーナとは何でしょうか?苦難を乗り越え、己という存在を磨き、強くし、向上させた後に辿り着ける場所です。お母様はニルヴァーナに達するまで己を向上させることが出来たのでしょうか?否!残念ながらお母様には時間が足りなかった。ニルヴァーナに達することが出来なかったお母様が行く場所は……」

 その瞬間、言葉が閃いた。”デラシネ”と。

 「この世界でもニルヴァーナでもない切り離された場所、デラシネ。ニルヴァーナに達するまで己を向上させることが出来なかった人間はデラシネとなり、苦しみ続けることになる。そうですよね、お父様?」

 お父様がお母様の死に顔を見つめた後にじっと僕を見つめてくる。刺すような目で見つめ返すとお父様がゆっくりと口を開く。

 「そうだな」村の人々がざわめく。「兄がニルヴァーナを、妻がデラシネと教えてくれました」

 お父様が力強い声で村の人々に語りかける。

 「この世界は苦難で満ちています。その苦難に負けた者は切り離された者、デラシネとして苦しみ続けることになります。しかし、苦難に負けずに己を向上させ続けられた者には完全なる静寂が、ニルヴァーナが待っています。みんなで力を合わせて行きましょう、ニルヴァーナへ!」

 「ハイ!」

 お父様の呼びかけに村の人たちが力強く答える。

 お母様へ近付いていってじっと死に顔を見つめる。お母様はデラシネへ、僕はニルヴァーナへ。もう会う事はないでしょうからこれが最後になると思います。ありがとうございました。そして、さようなら……。


 深く、体中の空気を全て吐き出すかのように深く呼吸する。

 ”死”がいつも傍にいた。生まれてから今まで多くの死を見てきた。私と同世代だった者はみんな”どこか”に旅立っていき、今この村にいる者はみんな私より後に生まれてきた者たちだ。

 私は、みんなに希望を与えたかった。この苦難に満ちた世界で生きていかなくてはならない私たちに歯を喰いしばって前に進ませるための希望を。ただそれだけだったんだ。

 「お父様!」

 テントの入口が開いてバズが入ってくる。姿は変わったが、その目は変わらなかった。真っ直ぐに揺らぎなく私が考えた希望を信じるその姿にいつからか恐怖を憶えるようになっていた。

 「バズか、どうやら私も旅立つ時が来たようだ」

 「とうとうニルヴァーナに旅立たれる時が来たのですね。おめでとうございます!」

 おめでとうございます、か。

 苦難を受け止め、乗り越えて強くなれればニルヴァーナに、大いなる静寂に旅立つことが出来る。確かに多くの苦難があった。私はそれを受け止めて乗り越えてきた。では強くなれたのか?ニルヴァーナに行けるのか?

 ニルヴァーナというあるか分からない希望を心の底から信じているように見える我が息子が理解できない化け物のように思えてきてしまう。

 私のした事は正しかったのか?間違っていたのか?分からなかった。ただ胸にしこりを残したまま旅立つことになるのは間違いなかった。

 「人々が、この苦難に満ちたこの世界で生きていくためには導く者が必要だ。私がしたように、これからはお前が人々を導いていってくれ」

 「ハイ、お父様!」

 本来であれば役目を引き継いでくれる者がいる事は嬉しい事のはずだった。にもかかわらず虚しさだけが残った。でも、もう私にはやり直す時間は残されていない。

 刻が来たようだ。私はどこへ旅立つのだろう?


 「俺はこの村のリーダーの息子だぞ!」

 「うるせえな、別にお前が偉いわけじゃないだろ!」

 その一言でスイッチが入る。誰であろうと俺という存在を軽んじる奴は許さない。絶対にだ!

 「黙れよ、クソが!」

 吐き捨てた言葉と共に右も拳を思いっきり相手の顔面に叩きつける。相手は勢いよく地面に倒れ込んだ。近付いて見下ろすと怯えた目で俺を見つめてきた。

 「で、俺が何だって?」

 「あっ、いや……」

 右手が痛んだが、痛みは相手を屈服させた快感が忘れさせた。

 「俺はこの村のリーダーの息子、フェニックス家の人間だぞ。お前より偉いんだから、偉い人間に対しての振る舞いをしろよ。じゃあな」


 「スティーブ!」

 怒りの呼びかけに振り向くとさっき殴り倒した男とがたいのいい男が並んで立っていた。

 「さっき俺の弟を可愛がってくれたそうじゃねえか。そのお礼をしに来たぜ!」

 「お前の弟が俺にぶつかってきたんだよ」

 「俺は半歩避けたよ。君が全く避けないからぶつかったんじゃないか」

 睨みつけると素早く兄の後ろに隠れる。

 「本来なら有無を言わさずにぶん殴ってやるんだが、フェニックス家の人間だからな。ぶん殴って後々面倒な事になるのはゴメンだから素直に謝るってんならこの事は水に流してやるよ」

 兄の全身に目を走らせる。身長、体重共に俺よりも大きく素直にぶつかったら勝てそうになかった。こんなクソに謝るのは気が進まなかったが、背に腹は変えられない。

 「俺が悪かった……」

 「違うだろ」

 謝罪の言葉と共に軽く頭を下げようとするが兄の言葉に遮られる。

 「何がだ?」

 「謝罪といったら頭をここにつけてもらわないと」

 右足のつま先で地面を二回叩く。クソが調子にのりやがって。

 「どうした?謝るのが嫌ならお前が俺の弟にしたみたいにぶん殴って解決してやってもいいんだぞ」

 醜い顔をさらに醜く歪ませる。渋々体を沈ませる。と見せかけて兄の顔面目がけて思いっきり伸ばした右の拳は呆気なく大きな左手で受け止められた。

 「そうくると思ってたよ。オラっ!」

 右の拳が腹にめり込んで息が詰まる。力なく膝をついた所に思いっきり顔面を殴られて地面に倒れ込む。

 「おい、お前もやってやれ!」

 「偉そうなんだよ、お前は!」

 後でやり返すために二十発までは数えていたが、そこから先はもう何発殴られたのか分からなくなっていた。意識が遠くなりかけた時……。

 「これからは弱い人間にふさわしい振る舞いをしろよ!」

 「誰がするかよ!」

 弟の声で意識が戻る。弟の右足にしがみついて歯を思いっきり突き立てる。

 「ぎゃあーーー!」

 弟が必死に振りほどこうと体を動かすもあらん限りの力をふり絞り、しがみついて歯を突き立て続ける。

 「この狂犬が!」

 兄の蹴りが顔面に直撃して弟から引き離される。

 「いいか、これに懲りたらもう二度とふざけた真似するなよ」

 そう言い残して兄弟は去って行った。兄弟は捨て台詞を残して去っていった。つまり、俺の勝ちだ。意識が遠くなっていく中でその事だけが頭を占めていた。


 体が揺さぶられて目を覚ますと目の前に女神がいた。

 「こんな所で寝ておったら風邪を引くぞ?」

 「ノ、ノーブル様?」

 慌てて体を起こす。

 「ん、どうしたんじゃその顔は?」ノーブル様が顔をぐいっと近付けてくる。「怪我をしているではないか?」

 美しいお顔が、紅い瞳が真っ直ぐに俺を見つめている。ただそれだけで鼓動は激しく打ち始める。恥ずかしさから慌てて顔を離す。

 「またケンカか?元気がよいのはいいことじゃが、そんなケンカばかりしているとバズが心配するであろう」

 「アイツらが悪いんですよ。俺の親父はこの村のリーダーなのに全然敬意を示さないから……」

 そう、俺スティーブ・フェニックスはこの村のリーダーであるバズ・フェニックスの息子だ。リーダーは偉い。だからリーダーの息子であるこの俺も偉いんだ。なのにこの俺に敬意を示さない奴が多過ぎる。その事実が俺を苛立たせる。

 「スティーブは大きくなったら、バズのようにこの村を導くリーダーになりたいのか?」

 「勿論です。人々を導くのがフェニックス家の人間の役目ですから」

 この村のリーダーになれば、村の人が親父を見るように俺のことを見るようになるだろう。敬意を持った視線であの兄弟も俺のことを見る。そうすれば、俺のあの想いもきっと消えるはずだ。

 「じゃったら、ケンカばかりしててはいけないのう。拳を交わして分かり合うのではなくて言葉を交わして分かり会えるようにならないとな」

 ノーブル様がいたずらっぽく笑う。

 「き、気を付けます」

 「うむ、よい返事じゃ。では、我は用事があるので失礼するとするかの」

 遠くなっていく背中を見つめる。

 クリムゾン・ノーブル……親父からは親父の小さい頃にふらっとこの村を訪れて、その時からずっと今の姿だと聞かされていた。不変のその姿に俺はどうしようもないほど憧れていた。


 家に帰るとチラっと俺が見た親父が大きなため息で出迎えてくれた。

 「またケンカか?

 ハッキリとした蔑みの声。気付かぬ振りで腰を下ろす。

 「アイツらが悪いんだよ。俺に敬意を示さないから」同じやり取りを何回か繰り返すうちにスラスラと言い訳が口をつくようになっていた。「俺がケンカするのは俺の為じゃない。俺はフェニックス家の尊厳を守るためにケンカをしているんだ」

 何やら書き物をしていた親父が羽ペンを置いて顔をあげる。

 「スティーブ」この村のリーダーとしての威厳に満ちた声。「お前は何か勘違いしているようだから、この最ハッキリと言っておく。私は父ジョンからこの村のリーダーの地位を引き継いだ。だからと言ってフェニックス家の人間が必ずこの村のリーダーとなる決まりがあるわけではない」

 「なっ……」思いもよらぬ言葉に慌てて立ち上がる。「俺は親父の後を継いでこの村のリーダーになる!」

 リーダーとなった俺をこの村の人々は敬意を持って見つめる。それは決定事項だ!

 「お前にはこの村は任せられない!」

 任せられない、任せられない、任せられない……親父の言葉が頭の中で鳴り響いて俺を壊していく。

 「親父が……」今まで築きあげてきた世界の崩壊に必死に抗う。「小さい頃に言ったんだぜ?俺に後を継いでもらいたいと」

 「私だってそう思っていたさ」

 再度、大きなため息をつく。親父の後悔がはっきりと手に取って分かるようだった。

 「だったら何で!」

 「『後を継いでもらいたい』……私のその言葉を聞いてお前は今まで何をしてきた?」

 「そ、それは……」

 「私の仕事を学ぼうとするではなく、私の耳に入ってくるお前の振る舞いはよくない話ばかりだ。フェニックス家の人間として自覚と責任を持ってもらいたかったが、私の言葉はお前に勘違いしかもたらさなかったようだな」

 ふざけるな!

 頭の中はその言葉で埋め尽くされていた。俺はフェニックス家の人間だ。親父が俺に後を継いでもらいたい。この村のリーダーになれって言ったんだ!俺はずっとそのつもりだった。そう思ってフェニックス家の尊厳を守ってきた!なのに今更任せられないだって!そんなふざけた話があってたまるものか!

 「まだ最終判断を下す段階じゃない。が、今のお前のままなら後を継がせることは出来ない。その事は肝に銘じておけ」

 そう言い残して親父が席を立つ。俺はこの村のリーダーとなる人間だ。人々から敬意を向けられるべき存在なんだ。その考えだけが全身を支配していた。


 「御身がニルヴァーナにて悠久の安らぎを……」

 つい先ほどニルヴァーナへと旅立った者の遺体を前にして親父が祈りの言葉を捧げる。ニルヴァーナに旅立つ者に言葉を捧げるのは領主の仕事の一つだった。ニルヴァーナに旅立つ者は領主が言葉を捧げ、村のみんなに見送られて旅立つが、それが叶わぬ者は親族のみに見送られてひっそりと旅立つ。それがこの村の決まりだった。

 遺体の周りを親族が取り囲んでおり、少し離れた所から様子を伺う。涙を浮かべる者、呆然としている者、満足気な笑みを浮かべる者……色んな表情が現れていた。

 足の早い者遅い者、背の高い者低い者、美しい者醜い者……この村には様々な特徴の者がいるが、誰にも等しく死が訪れてみんな消えていく。その楔からは誰も逃れることは出来ない。俺にもいつか死が舞い降りてこの世界から消えていく。その事実がどうしようもない鈍痛と恐怖、息苦しさを俺にもたらす。事実から逃れるように親族から視線を外して彼女を見つめる。彼女は神妙な面持ちで儀式の様子を見つめていた。

 クリムゾン・ノーブル。この世界で唯一人の死の楔から逃れることが許された存在。何故俺には死があるのか?何故俺はこの世界から消えなくてはいけないのか?何故クリムゾン・ノーブルには死がないのか?何故クリムゾン・ノーブルはこの世界から消えなくてよいのか?

 なぜ、ナゼ、何故?

 儀式の間中、その問いかけが俺という存在を埋め尽くしていた。


 スコップを地面へと突き立てる。土を掬って外へ放り投げる。スコップから手を離して額の汗を拭う。穴はまだ膝くらいの深さしかなく、腰の深さまで穴を掘り続けなければならない。そう考えるだけで心底うんざりしてため息が漏れる。

 「ったく、こんな天気のいい日じゃなくて曇りの日に死んでくれたらよかったのにな」

 こちらの様子を察したのか、一緒に穴を掘っているメイソンが毒気づく。

 「……そうだな」

 旅立った者のために穴を掘るのは村の若者の仕事で今日旅立った者のためにメイソンと共に穴を掘っていた。

 「まあ、愚痴を言ってもしょうがないからさっさと終わらすとしますか」

 メイソンが地面へスコップを突き刺す。

 「なあ」

 「あん?」

 「お前は死って何だと思う?」

 「そりゃ、ニルヴァーナとかデラシネのことだろ?お前の親父がよく言ってるじゃねえか?」

 「違う。ニルヴァーナやデラシネは死んだ後にどこに行くかの話だろ。俺が言っているのはその前の死そのものの話だ」

 メイソンが手を止めてこちらを向く。

 「死、そのものの話?」

 「ああ」

 「死、死ねえ」ぶつぶつと呟いて首を傾げる。「俺は考えたことないから検討もつかねえな。お前は何だと思ってるんだ?」

 「俺は……分からない」

 「まあ、俺もお前は死んだことはないからな。そこで寝ている人に聞いてみるか?」

 メイソンが冗談っぽく穴のすぐ傍に寝かされている遺体を指さす。

 「答えてくれたら、いいのにな」

 メイソンの顔から面白がる笑みが消える。

 「お前……」言葉を探すかのように視線を彷徨わせた後に口を開く。「お前は死について考えることがあるのか?」

 親父にもお袋にも誰にも話したことはなかった。大きく息を吐いてゆっくりと頷く。

 「常に、頭の片隅には死があった」

 「いつから?」

 「分からない。気付いた時には死が頭の中に入り込んでいた」

 何もきっかけはなかったのか、あったものの憶えていないだけなのかは分からなかったが気付けば死を意識するようになっていた。怖くて、考えても分からないから考えたくなくて、でも気付けばまた考えていて……。死が、いつか自分がこの世から消える存在だということがたまらなく怖い。その恐怖から逃れる術を必死になって探した。そして見つけた。自分は他の人間より価値のある人間、この村のリーダーとなるフェニックス家の人間なんだと考えると少しだけ怖さを忘れることが出来た。

 「死ぬとこの世界から消えてなくなる。この世界で笑うことも泣くことも出来なくなる。彼のように……」遺体を見やる。彼はただそこに横たわっている。何も感じず、これから感じることもなく横たわっている。

 「俺はその事実が怖い。たまらなく怖い。お前は、怖くないのか?」

 沈黙そして逡巡の後に吐き出された言葉はごく短いものだった。

 「怖くない」

 「……そうか」

 メイソンの答えにどこかホッとしていた。同じ怖さを抱えていながらメイソンが何の問題も起こしていないとなると自分がメイソンより劣っていることの証明になりそうだったから。

 「悪いな、力になれなくて」

 「いや、俺の方こそ変なこと言って悪かったな」

 「お前の親父さんに聞いてみたら?俺らより詳しいだろうし……」

 親父、か。

 「そうだな、親父に聞いてみるよ。無駄話はここまでにしてさっさと穴を掘っちゃおう」

 「ああ」

 再びスコップを地面に突き刺す。

 親父はいつも自信に満ちていて揺るぎないように見えた。子供の頃から親父は遠い存在のように思えて親父は死に怯えているようにはとても見えなかった。


 穴掘りを終えて家に帰ると親父はいつものように書き物をしていた。

 「穴掘りは終わったのか?」

 「ああ」

 「ご苦労だったな」

 書き物を続けながら労いの言葉をかけてくる。親父はいつも忙しそうにしており、思えば何かの話題について話し合ったことは今まで一度もなかったような気がする。

 「親父、ちょっといいか?」

 意を決して親父に話しかける。

 「何だ?」

 「相談したいことがあるんだ」

 顔をあげ、じっと俺の顔を見つめる。しばらく見つめた後に羽ペンをテーブルに置いた。

 「いいだろう、座りなさい」

 親父の前に胡坐をかいて座る。

 「で、相談したいことと言うのは何だ?」

 「俺たちは苦難を乗り越えて己という存在を向上させ続けること。そうすればニルヴァーナに旅立って大いなる静寂に達することが出来る。何かしらの事情によって向上が足りない場合はデラシネへと旅立ってこの世界と同じ苦難を味わい続けなければならない。そうだろ?」

 「そうだ」

 「ニルヴァーナに旅立つにしろデラシネに旅立つにしろ、その前には死がある。親父は死は何だと思う?」

 「死は己という存在の一過程に過ぎない。無から有としてこの世に現出して子供、大人と変化し、死を経てニルヴァーナに旅立っていく」

 「本当に死は人が辿ることになる一過程に過ぎないのか?」

 「では、逆に聞こう。何故死だけが他の過程と違って特別だと言えるのか?」

 「子供から大人に姿は変わってもこの世に存在するということは変わらない。でも死は違う。死ぬと人はこの世界から消えてなくなる」

 「だからお前はダメなんだ」一言で切り捨てられる。「視野が狭い。目の前の事しか見えていない。なぜフェニックス家の人間として生まれながらニルヴァーナを感じられない。お前は私の傍で一体何を見てきたのだ!」

 遠い。同じ場所で何時間も生活を共にしてきたのに親父はひたすら遠かった。

 「俺は、死が、この世界から消えることが怖い」

 「その考えこそがお前が私の後を継ぐのにふさわしくない何よりの証拠だ。ニルヴァーナを感じられない者にどうして村の人を導くことができる。もういい」

 親父を話を一方的に打ち切って書き物を再開した。

 「もうお前には何も期待しない。勝手に生き、勝手に死んでニルヴァーナじゃないどこかに勝手に旅立つがいい」

 俺は、この世界で一人ぼっちだ。その事実が何よりも痛くて怖かった。


 「スティーブ」

 テントの片隅で寝転がってぼんやりと天井を眺めているとお袋が声をかけてくる。

 「何?」

 視線を天井に向けたまま返事する。

 「どうしてお父様にあんな事聞くの?お父様はニルヴァーナについて質問されるのを嫌がるって知っているでしょ。貴方はお父様んの言う通りにしていればいいのよ」

 「お袋は死が怖い?」

 「ニルヴァーナの前の一過程だから、もちろん怖くないわ」

 「じゃあ、俺の気持ちなんか分かりっこないんだから黙っててくれよ」

 「……」

 抗議の視線を感じたが、構わずに無視していると何も言わずに離れていった。

 言う通りにすれば、か。親父の言う事を聞けばこの怖さがなくなるなら俺もアンタみたいに頭空っぽにして言う事聞くっつーの。吐き出した毒は誰にも受け止められずに消えていった。


 死、消える。俺はこの世界のどこにも存在しなくなる。

 寝る直前、頭の隅で眠っていた考えがふとしたきっかけで目覚めると一瞬にして全身を支配した。慌てて飛び起きて自分の体を抱きしめる。

 怖い。どうしようもなく怖い。誰か、誰かに分かってほしい。親父はダメだ。お袋もダメ。じゃあ誰なら?誰なら手を差し伸べてくれる?

 テントを飛び出して駆け出していた。


 「ノーブル様、起きてますか?」

 「その声はスティーブか?どうしたんじゃ、こんな夜中に」

 テントに入口からノーブル様が姿を見せる。俺を見るなりノーブル様の表情が曇る。

 「どうしたんじゃ、真っ白な顔をして……」

 「こんな夜遅くにすいません。少し、話を聞いてもらいたくて……。テントに入れてもらってもいいですか?」

 もし……。もしノーブル様に拒絶されたら俺はどうすればいいんだろう?頭の中に浮かんだ選択肢は一つしかなかった。

 「我でよければいくらでも話を聞こう。さっ、入ってくれ」

 ノーブル様がテントの入口を広げて横に立つ。ノーブル様の行動にホッと胸を撫でおろす。よかった、本当によかった。俺はまだ頭に浮かんだ選択肢を置いておくことが出来る。

 ノーブル様に促されてテントの中へと入っていく。


 「死が怖い、か」話を聞き終えたノーブル様が俺の言葉を繰り返す。「それは誰もが抱く想いではないのか?」

 「多分、違うと思います。親父もお袋も友人もそういった想いは抱いていないように見えます」

 「なるほどな。スティーブはいつからか自分が死ぬこと、この世界から消えてしまうことに何とも言い難い恐怖を憶えるようになった。他の人たちにとっては死はニルヴァーナという目的地に行くための一過程に過ぎず、特に気をとめる様子もないがスティーブは気になってしょうがないと」

 ノーブル様の言葉に大きく頷く。

 「スティーブはニルヴァーナを信じていないのか?」

 ニルヴァーナ……俺たちが行くべきとされている場所。

 「信じていないというより、そこまで考えられないんです。ニルヴァーナの前には必ず死があります。俺にとってはその死が大き過ぎてそこで考えが止まってしまうんです。死とは何なのか、何故必ず死があるのか?」

 「うーむ」ノーブル様が美しい顔を歪ませる。「苦しんでいるスティーブにその苦しみを和らげることの出来る話が出来ればいいんじゃがのう。クリムゾン・ノーブルの我にとって死は遠い概念じゃからのう」

 「親父からノーブル様はずっと今の姿だと聞いたんですが、それは本当ですか?」

 「ああ、本当じゃ。我のこの世に現出した時から今の姿のままじゃから、きっとずっと今の姿のままなんじゃろう」

 「その、ノーブル様は死について考えることはありますか?」

 「死か。我はこの世で唯一人のクリムゾン・ノーブルじゃからのう。ヒトに死があるようにクリムゾン・ノーブルにも死があるのか?ぼんやりと考えたことはあるが、そなたのように強い感情が湧き起ってくることはないかのう」

 「そう、ですか」

 頭の中に浮かんだ選択肢が再び存在を大きくしていく。

 「そんな今にも泣き出しそうな顔をするでない」ポンと小さな手が頭の上に置かれる。「死については何も言ってやる事が出来ぬが、怖いということについてはアドバイスしてやる事が出来そうじゃ。といっても我が経験したことじゃなくてあくまで聞いた話じゃがな」

 「それは、どんな話ですか?」

 「我はそなたらヒトのことをより知りたいと思ってそなたの祖父ジョンに頼んで一緒に狩りに連れていってもらった事があった。我よりそなたの方がよく知っていると思うが、狩りは危険な行為じゃ。命を落とすことも珍しくない。その事を聞いた我は男らに聞いてみた。

 『怖くないのか』と。

 男らは笑いながら答えた。

 『怖いに決まってるだろ』と。

 男らはそう言いながらも怖さによって行動が制限されているようには見えなかった。

 『どうしたら怖さを感じながらも行動を制限されずに済むのか』と尋ねると男の一人が『認めて心の片隅に置いておくことさ』と答えた」

 「認めて心の片隅に置く……」

 「『命の危険があるのだから怖さはあって当然だ。俺は怖くなんかないと言いきかせて押さえつけようとしたって無駄だ。ふとしたきっかけで怖さはすぐ姿を見せる。怖さを感じているとハッキリと認めた上でどう行動すればいいか考えられるようになって初めて一人前の狩人だ』

 男の言葉に他の男らも頷いておった。スティーブがやるべき事は死が怖いということを認めた上でどうすればその怖さを心の片隅に置いて生きていくことが出来るのかを考えることじゃないのかのう?」

 俺は死を怖いと思っている。それを認めた上でどうすべきか?今までの人生でどういった時に死の怖さに行動を制限されずに済んだ?それは俺が人より優れた存在だと感じられた時だ。

 「ノーブル様、ありがとうございます。答えが、見つかったような気がします」

 「うむ、そうか。それはよかった」

 「夜分遅くにありがとうございました。今日はこれで失礼します」

 「うむ。また何か話したいことが出来たらいつでも来るといい」

 「ハイ、ありがとうございます」

 ノーブル様の笑顔に見送られてテントを後にする。恐怖を傍に置くための答えは見つかった。後は刻が来るのを待つだけだ。


 十六になった。この村では大人とされている年齢。今日、審判の刻を迎える。

 あの日からケンカは止めた。後を継ぐ者として親父の仕事を真剣に観察するようになった。その結果が今日出る。

 一つ息を吐いて覚悟を決める。親父のテントに入るといつものように書き物をしていた。ちらと視線を向けた後に構わずに書き物を続ける。

 「お前か、どうした?」

 「話があるんだけど、いいかな?」

 「何だ?」

 「俺は今日十六になった。この村では大人と言われている年齢になったんだ」

 「そうか。で、それがどうかしたのか?」

 「四年前、親父は俺に言ったよな。俺は後継者に、この村のリーダーに相応しくないと」

 「ああ」

 「俺はその日から考えを改めた。ケンカは二度としていない、真剣に親父の仕事を観察するようになった。もう一度聞く。俺に後を継がせる気はあるか?」

 羽ペンを置く。大きく息を吐いて顔をあげる。

 「ない」答えが、でた。「ニルヴァーナを感じられなかった者にこの村を率いる資格はない」

 「そうか」足に力を込める。「じゃあ、今すぐ旅立つといい」

 一瞬にして距離を詰めて首へと両腕を伸ばす。首を掴むと躊躇することなく目いっぱい力を込める。

 「お、お前一体何を!」

 「俺が俺として生きていくためには領主となって敬意を集めることが必要なんだ!だから、それを邪魔するアンタには今すぐ旅立ってもらう!」

 親父が俺の手を掴み、爪が食い込む。それでも構わずに力を込め続ける。どれ程たったのか親父の手が離れて全身から力が抜ける。手を離すと力なく地面へと倒れ込んだ。

 やった!歓喜が全身を駆け巡る。これで俺は死の恐怖から解放される。おっと、喜びに浸っている暇はない。準備していた端を輪っかにしたロープを床に放り投げる。

 「貴方、どうしたの?」

 物音を聞きつけたお袋がテントに入ってくる。

 「親父、親父一体どうしたんだ!」親父だったものの体を大きく揺さぶる。「どうして、どうして自ら命を絶ったりしたんだ!」

 「スティーブ、これは一体?」

 お袋へと振り向く。頬を歓喜の涙が伝う。

 「親父は自ら命を絶ってしまった」

 「どうして……」

 「分からない。俺がテントに入った時にはロープで首を吊っていた。慌てて下ろしたがもう手遅れだった」

 「は、早く人を呼ばないと」

 「待って」出ていこうとするお袋の手を掴む。「親父は自ら命を絶ったのではなく、病でニルヴァーナに旅立ったことにするんだ」

 「ど、どうして」

 「この村のリーダーである親父が自ら命を絶ったと村の人たちが知ったらどうなると思う?ニルヴァーナへの想いが揺らいでしまうだろう。それはきっと親父も祖父も望んだことじゃないだろう」

 「で、でも……」

 両肩を掴んで瞳を覗き込む。

 「お袋、今は俺の言う通りにしれくれ。安心して、俺が親父の後を継いでこの村の人たちを導いていくから」

 「わ、分かったわ」

 お袋の言葉に笑みがこぼれそうになるのを必死にこらえる。

 「分かったら村の人たちに知らせにいってくれ。親父が急病で亡くなったことと親父の後は息子であるスティーブ・フェニックスが継ぐことを」

 「分かったわ」

 お袋がテントから出て行ったのを確認すると声を殺して笑った。心の底から何も躊躇うことなく。

 ああ、やっと俺は自由になれた!


 目の前には幾つもの墓標が立ち並んでいる。横に立つ小さな存在、私の後を継いで私の恐怖を取り除いてくれるロバート・フェニックスに話しかける。

 「ロバート、人は二度死ぬと言われている。その意味が分かるか?」

 「分かりません、お父様」

 何のためらいもなく分からないと口にする我が息子。我が人形としてはその素直さは素晴らしい美点だった。

 「一度目の死はニルヴァーナに旅立った時、二度目の死は村の人たちからこの世界に存在していたことを忘れ去られた時。一度目の死を免れることは不可能だ。だが、二度目の死は免れることが可能だ。だから私はニルヴァーナに旅立った者が眠る静寂の谷を作った」

 「死者の日。一年に一度、ニルヴァーナに旅立った者に村の者が祈りを捧げる日。そうすることによってニルヴァーナに旅立った者は二度目の生を永遠に生きることになる。そうですよね?」

 「そうだ、よく憶えていたな」

 頭を撫でてやると嬉しそうに笑顔を見せる。素直な我が息子は私の亡き後も私の言ったことをそのまま村の人たちに言い続けることだろう。そうして村の人たちがニルヴァーナを信じ、死者の日を守り続けると私が信じることが出来れば旅立つその瞬間まで私は死の恐怖を忘れることが出来る。

 死の瞬間、二度目の永遠の生を信じられること。それこそが私にとってのニルヴァーナ、大いなる静寂だ。我が息子よ、我がニルヴァーナ実現のためにその身を捧げるがいい!


 父と共にネヴァーマインドの街の創設者であるジョン・フェニックスの墓石の前に立つ。街の創設者、ニルヴァーナというヒトの真実に気付いた者……いくつかの伝聞しか知らない人物の墓石の前に立ったところで何の感情も湧いてこなかったが、父は違ったようだった。目を閉じ、胸に手を当ててじっと佇んでいる。父にならって一応目を閉じて祈りを捧げる振りをする。

 創設者ジョン・フェニックスから始まって祖父ジャニス・フェニックスまでの七人の先祖たちに対して父はしっかりと祈りを捧げていった。僕は墓石の前に立って目を閉じる動作を七回繰り返していく。

 死者の日……静寂の谷に眠るニルヴァーナに旅立った先祖たちに対し、その存在を想い、ニルヴァーナで安らかな日々を過ごせますようにと祈りを捧げる日。静寂の谷には僕たち以外にも多くの街の人たちが先祖たちに祈りを捧げるために訪れていた。

 「ドナルド」祖父ジャニスへの祈りを終えた父がおもむろに口を開く。「ここにはヒトの目的地であるニルヴァーナに旅立った七人のご先祖様たちが眠っている。ニルヴァーナを目指すこと。それこそが私やお前にとって唯一の人生の目的だ。分かるな?」

 ニルヴァーナ。天寿を全うした者だけが死後に旅立つことが出来るという目的地。ニルヴァーナでは大いなる静寂を味わうことが出来るらしい。

 「お父様。ニルヴァーナでは大いなる静寂を味わうことが出来ると聞きました。大いなる静寂とは何なのですか?」

 「大いなる静寂とはこの世では味わうことの出来ない完全なる安らぎのことだ」

 「では、完全なる安らぎとは何なのですか?」

 「何の苦しみも何の痛みも感じない満たされた状態のことだ」

 「何の苦しみも痛みも感じなければ満たされるのですか?」

 「ドナルド」諭すかのような声。「この世にいる間はニルヴァーナを味わうことは出来ない。なので、この世の言葉ではニルヴァーナが何なのかは正確に表現することが出来ない。風が頬を撫でた時、心地よい感触を覚えるだろう?」

 「……はい」

 「じゃあ、その感触を味わったことのない者に言葉のみでその感触を伝えることが出来ると思うか?」

 「それは難しいと思います」

 「それと同じことだ。ニルヴァーナに言ったことのない者にニルヴァーナが何なのか伝えることは難しい」

 風の感触を味わったことのある人はたくさんいます。でも僕も父も街の人誰もニルヴァーナに行ったことのある人はいないですよね?なのにニルヴァーナで味わうことが分かるんですか?という疑問は飲み込んだ。

 「まあ、ドナルドにも分かる日がくるさ」

 納得していないことに気付いたのか、そう言って会話を打ち切った。

 父とは、いや父だけじゃない。僕は父を含め、この街の多くの人と距離を感じる。何故父や街の人たちはニルヴァーナを信じられる?僕は信じられない。僕には見えていないもの、感じられていないものが見えて感じられているのか?

 大いなる静寂、完全なる安らぎ、何の苦しみも痛みもない満たされた世界……ニルヴァーナは何かと聞けば先ほどの父のように説明してくれる。でも、いくら言葉を重ねてもらっても僕とニルヴァーナの距離は縮まらず、大きな隔たりを保ったままだ。

 僕はいつか、彼らと同じになれるんだろうか?


 「ドナルド!」

 死者の日の儀式を終え、用事はあるという父と別れて一人で街を歩いていると幼なじみであるティモに声をかけられる。

 「ティモ」

 「ドナルドも死者の日の帰り?」

 「うん。ティモも?」

 「うん」

 ティモとは同い年で誕生日を近かったため自然と仲良くなった。

 「正直、会ったこともなく聞いたことしかない先祖たちに祈りを捧げて何の意味があるの?って感じだけどな。本人たちはニルヴァーナに旅立ってるわけだし、こっちに思い出あるのは爺ちゃんくらいのものだし……」

 同意を求めての愚痴だったが、ティモからは予想外の反応が返ってきた。

 「そう?俺は死者の日って結構好きだけどな」

 「えっ、何で?」

 「何かこう今の自分の根っ子っていうか繋がりが感じられてよくない?大きな存在になれるっていうか、一人じゃないって感じれれるっていうか……言葉で説明するのは難しいんだけど、死者の日があることによって何か安心出来るような気がするんだよな」

 「それは、先祖との繋がりを感じて自分という存在が強く、重くなる感じ?」

 「うん」大きく頷く。「死者の日がなかったら先祖のことを想うことなんてないだろうし、想わなかったら繋がりも感じられないだろうし……」

 存在の重み、か。僕は自分という存在が軽く感じられる。地面に足が着いているにも関らずふわふわと漂っているような感じがしていた。僕は何でティモのような繋がりが感じられないのだろうか?

 「ティモはニルヴァーナって信じてる?」

 「信じてるってそんな強いものじゃないんだけど、小さい頃から耳にタコが出来るくらいずっと聞かされてきたからそういうものがあって俺は最終的にそこに行くんだって感じだけどな」

 恐らく多くの人がティモのように小さい頃から聞かされて何の疑問も持たずに受け入れていくんだろう。僕と違って……。

 「もちろん、ドナルドは信じているんだろう?人々を導く立場に立つんだから」

 そう、僕はフェニックス家の人間として大きくなったら父の後を継いで領主となり、人々を導く立場に立つことになる。そうなれば、ニルヴァーナは信じるべきものとなる。何故ならこの街はニルヴァーナがあることを前提として街が組み立てられているのだから。

 「まあ、ね」

 苦笑いで答えると、一週間ほど前から出るようになった咳がぶり返してきた。

 「おい、大丈夫か?」

 「うん、大丈夫。何か一週間前くらいから咳が出るようになってね。只の風邪だと思うからその内治るよ」

 「気を付けてくれよ。俺なんかとは違って大事な体なんだから」

 「そうだね」

 「じゃあ、俺は親父の手伝いがあるからもう行くな」

 「うん、頑張ってね」

 駆けていくティモを手を振って見送る。

 『ドナルドにも分かる日が来るさ』

 本当に父の言ったような日が僕に来るんだろうか?


 ティモがデラシネになってしまった。

 一週間前ティモは確かにこの世界にいて、デラシネになる兆候なんて何もなかったのに今はもうこの世界にいない。

 ニルヴァーナに旅立つ場合、自宅から静寂の谷までの道を多くの人々に祝福されて眠りにつく。でも、ティモは違う。忌むべき存在となってしまったティモを見送る人はいない。ティモの家族と僕を除いて。

 ティモは無名の谷で眠りについて、これから先誰からも思い出されない。

 ティモが名前も刻まれることがない共同墓標に納められるのを見つめながら頭の中ではある問いがずっと鳴り響いていた。

 何故!と。

 何故ティモはデラシネにならねばならなかったのか?何故ティモは静寂の谷の名前が刻まれた墓標ではなく、無名の谷の名前が刻まれることがない共同墓標で眠りにつかなきゃいけなかったのか?何故誰からも思い出されなくなってしまうのか?

 作業が終わってティモの家族が去っていっても一人佇んでいた。

 何故、僕はティモじゃないのか?ティモは僕じゃないのか?今、僕はティモが眠っている共同墓標を見つめているが、眠っているのが僕で見つめているのがティムだったかもしれない。でも、現実はそうはならなかった。何故……分からなかった。

 どれほど無名の谷にいたのか、どのようにして帰ったのか全く覚えてなく気付けば自宅の父の書斎のドアの前に立っていた。遠慮がちにドアをノックする。

 「誰だ?」

 「ドナルドです。話があるのですが、いいでしょうか?」

 「入れ」

 ドアを空けて書斎の中に入る。父は書類に目を通していた。父の机の前に立つ。

 「こんな夜遅くにすいません」

 「で、話というのは?」

 「幼なじみんもティモが今日デラシネになりました」

 「そうか、それは残念だったな。ただ、その事に関してお前に確認したいことがある」

 「な、何でしょうか?」

 父の口調が一気に鋭さを増して鼓動が急に跳ね上がる。

 「デラシネとなった者が……」父はティモのことをデラシネと呼んだ。「無名の谷に運ばれ、共同墓標に納められる所をお前がずっと見つめていたという情報があったんだが、間違いないか?」

 「間違いありません」

 「お前は何をしているんだ!」父が勢いよく立ち上がって怒号をあげる。生まれて初めて聞く父の怒号に身が縮む。「お前は自分の立場が分かっているのか!」

 「ぼ、僕はただ……」

 恐怖でうまく口が回らず、えさを求める魚のように口をぱくぱくさせてしまう。

 「ただ何だ!幼なじみを見送っただけだというのか?お前のその姿を見た街の人たちがどう思うか少しでいいから考えたことがあるのか?デラシネとは何だとお前は教えられてきたんだ?」

 「い、忌むべき存在です」

 「そうだ。忌むべき存在だ。現領主の息子であり、未来の領主となる男がその忌むべく存在となった者を見送る。これはこの街の根幹を揺るがしかねない重罪だぞ!お前の何気ない行動が街に人たちに誤ったメッセージを送ることになるんだ!」

 「そ、そんなつもりじゃ……」

 次の瞬間、頬に衝撃を感じて倒れ込んでいた。見上げた父が手を振り上げているのを見て殴られたのだと分かる。

 「いいか、一度しか言わないからよく聞け」父の声には有無を言わさぬ迫力があった。「代々長命であるフェニックス家の人間が領主の任を任されているのは人々がニルヴァーナを目指すのを手助けするのに最も相応しい家系だからだ。つまり我々フェニックス家の人間はニルヴァーナの守護者となるべき人間なのだ。今日お前のした事は歴代の領主に対する裏切り行為だ。分かったな!」

 「はい」

 恐怖心。その一心から首を縦に振る。

 「分かったら行け!」

 立ち上がり一礼して父の書斎を後にする。殴られた頬はまだ熱を放っていた。


 自室のベットの上で膝を抱える。頭の中では同じ疑問がずっと渦巻いていた。

 ティモがデラシネとなり、僕はまだ生きている。何故か?恐らくそこに理由なんかない。ティモは今回運悪くデラシネとなり、僕は運良くデラシネにならなかっただけだ。ということは、いつ僕がデラシネになってもおかしくない。

 デラシネ、またはニルヴァーナ……つまり、死。この世界から消える。

 僕は想像する。僕が運よくニルヴァーナに旅立った後に僕の子孫が死者の日に僕の墓標の前に立つ日のことを。僕が知らない子孫が僕のことを想う。そうすれば僕はその子孫の中で生き続ける?

 「フッフッフッ」

 渇いた笑いが漏れる。それが何だって言うんだ。子孫がいくら僕のことを思おうと僕だったモノはこの世界のどこにも存在していない。だったら、そのことに何の意味がある?

 消える、消える、消えてなくなる。

 ニルヴァーナ、デラシネ、エーテンダー……死の先にどうなるかなんてどうてもいい。死んで消えてしまうことが怖い。どうしようもなく怖い。

 自分の体をぎゅっと抱きしめる。

 ティモを失った痛みも、父に殴られた痛みも時間が経てば消えてなくなってくれるだろう。でもこの恐怖は?死んで消えてしまうことの恐怖もいつか消えてなくなってくれるんだろうか?

 今の僕にはそう願うことしか出来なかった。


 「たった今フレッド・フェニックスがニルヴァーナへと旅立ちました」

 父という関係だった遠い人が今ニルヴァーナに旅立った。遠い人は安らかな笑みを浮かべて旅立ち、周りの人は目的を達成した人間を笑顔で見送る。

 僕はその光景を冷めた目で見つめる。僕にこの光景が訪れることはない。僕はこの光景を期待すべきじゃないと。

 ニルヴァーナが何の重みももたらさない僕にとってニルヴァーナが重みをもたらす父はずっと遠い人だった。あの日以来、こちらから父に話しかけることはなくなった。お互い距離が遠すぎてどう接していいのか分からなかったから。

 棺に父だったモノが納められて静寂の谷へと向かう。僕も棺の一角を担いながら見送る人たちの表情を伺う。見送る人たちの顔は期待感で溢れていた。きっとニルヴァーナに旅立つ自分のことを想像しているんだろう。

 『ニルヴァーナに行けるといいですね。まあ、そんな保証どこにもないんですけどね』

 そんな毒を吐きかけたら人々はどんな反応を示すのだろう?でもそれが真実だ。僕たちがニルヴァーナに行けるという保証はない。それでも目指すのか?それでも目標とするのか?

 静寂の谷に着き、七代目領主ジャニス・フェニックスの墓標の後ろに作られた墓標に棺が納められる。人々が墓標の前に立って言葉をかけていき、僕の番が来た。遠い人に何と言葉をかけるべきなのか?

 「安らかに……」

 分からずにありきたりな短い言葉しか出てこなかった。

 全ての儀式が終わって街の人々が帰途につく中、一人の男性に肩を叩かれる。見ると父の補佐をしてくれていたグラーフさんだった。

 「君がこれからこの街の領主となって人々を導いていくことになる。よろしく頼むぞ」

 僕は何を目指す?何を目標とする?何が、僕に重みをもたらす?

 「分かって、います」

 僕は見つけなければいけない。僕に重みをもたらすものを。見つけることが出来たなら、僕はきっと生きていけるだろう……。


 「もう長くはないでしょう」

 再建された診療所から派遣された医者は私の体を調べてそう告げた。予兆はあった。この不調は一時的なものではないんじゃないかという実感があったから。だから、そう告げられても驚くほど落ち着いていた。

 「そう、ですか」

 「本当に残念です」

 医者の実感のこもった声に自分が歩いてきた道の価値が感じられたような気がした。

 「妻と息子とグラーフを呼んでもらえますか?」

 「……分かりました」

 医者が席を立ち、しばらくすると妻ユーリと息子ドナルドジュニア、そして私の補佐を務めてくれているグラーフジュニアが姿を見せる。医者から説明があったからか三人の目は赤く腫れている。

 「どうやら私も旅立つ時が来たようだ」

 「父様、そんなこと言わないでください」

 ドナルドジュニア。物心ついた時から父様、父様といつも私の後をついてきた。その成長を見ることが何よりの楽しみだった。真っ直ぐで優しく行動力のあるドナルドジュニアならきっと私以上に多くの人のためになることが出来るだろう。

 「ドナルドジュニア。多くの人の意見を、特にグラーフの意見にはしっかりと耳を傾けて何故そのような意見を持っているのか考えるように。決してすぐ湧き上がってくる第一の声に支配されないように」

 「分かりました」

 強い意志を宿した瞳に安心する。私と違って、私がいなくなってもドナルドジュニアが道に迷うことはないだろう。

 「アナタ……」

 ユーリ。あの災厄がなければ今の関係となることは決してなかっただろう。あの、私の人生を変えることになった記念碑をつくることもなかった。そう思えばヒトの人生は本当に分からないものだ。慣習に囚われずに多くのことを変えようとする私の妻として多くの苦労があったことだろう。でもそんな素振りは全く見せずにいつも笑顔で支えてくれた。彼女がいなければ私は自分が選んだ道を歩き続けることは出来なかっただろう。

 「君のおかげで私はここまで歩き続けることが出来た。本当にありがとう」

 「そんなこと……」

 涙を拭って精一杯の笑顔を見せる。

 「カートさん」

 グラーフジュニア。グラーフシニアが父様のことを補佐し、私がグラーフシニアを補佐した。そしてグラーフジュニアが私のことを補佐してくれた。周りとの協調を何よりも大事にしていたシニアと違ってジュニアは猪突猛進で突き進むきらいがあった。でもその真っ直ぐさがあればこそ多くの物事が前に進んでいった。

 「いくつかの物事は途中で引き継ぐ形になってしまってすまないね」

 「とんでもありません。カートさんのしたいことは私のしたいことでもあります。全身全霊をもってやり遂げてみせます」

 変わらぬ真っ直ぐさに笑みがこぼれる。多くの構想があった。実現することが出来たのはほんの一部に過ぎない。でも後悔はない。安心してバトンを託せる人がいるのだから。

 ああ、ついにこの時が来たか。この世界から離れて私が向かう先はニルヴァーナか、虚無か、それとも別の何かか?道を定める前に頭を悩ました問題にもうすぐ答えがでる。こんな落ち着いた心境で迎えることになるとは想いもしなかったが……。

 「カート・フェニックスはおるかの?」

 懐かしい声に鼓動が一気に跳ね上がった。彼女が、ノーブルさんが変わらぬ姿で立っていた。

 「クリムゾン・ノーブル……様」

 予期せぬ来訪者に驚く三人を尻目に部屋に入ってきてベッドの傍の椅子に腰を下ろす。

 「ノーブルさん……どうして?」

 「ヒトの世界で言う虫の知らせという奴かの。カートに会わねばならぬ。何故かそう思ってこうして訪ねてきたわけじゃ」

 「そう、でしたか」

 「そうしたらカートが旅立つ時が来たというではないか。全くあれだけ相談にのってやった我に挨拶の一つもなく旅立とうとは薄情過ぎるのではないか?」

 口調はきつかったが目は笑っていた。

 「すいません。いきなり倒れるとは思ってもいなくて……」

 「うむ。まあ、旅立つ前にこうして顔が見えたから許してしんぜよう。で、どうじゃ?カート・フェニックスという存在は何なのか?それがそなたを悩ませた問題だったわけじゃが、もうすぐカート・フェニックスという存在はこの世界から旅立つ。問題の答えは分かったかの?」

 「分かりませんでした。でも、思い残すことはありません」

 「それは何故じゃ?」

 「カート・フェニックスとしてやらなきゃいけないこと、やりたいこと、その折り合いをつけながらやってきましたから。その結果、愛する者、受け継いでくれる者、そして先生に見送られて旅立てるのですから、旅立つ先がどこであろうとこれ以上望むものはありません」

 「そうか」慈愛に満ちた言葉と共にノーブルさんの手が頬に触れる。「さらばじゃ、カート・フェニックス。そなたの新たな旅路に大いなる安らぎがあらんことを」

 「ありがとう、ございます」

 「父様!」

 「アナタ!」

 「カートさん!」

 どうやら、僕は僕と分かれる時が来たようだ。さようなら、カート・フェニックス……。

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死が『僕』を分かつまで @ichiryu

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