第3話

 私は賭けた。そして負けた。ギャンブルでは金を賭け、負けたらかけ金を没収される。なら、人生を賭けて負けたら何を没収される?

 私は物心ついた時からどうしても理解できないことがあった。ここネヴァーマインドの街では『天寿を全うした者はニルヴァーナ=完全なる静寂に旅立つことができる』という神話が信じられている。

 ニルヴァーナに旅立って帰ってきた者はいるのか?いない。じゃあ、ニルヴァーナを見た者はいるのか?もちろんいない。何故誰も見たことのないものを信じられるのか不思議でしょうがなかった。

 私の父もそうだ。私の父であるフレッド・フェニックスはニルヴァーナを心の底から信じているように見えた。信じているがゆえにフェニックス家の人間に与えられた役割、誰よりも長生きすることを全うすることに何の疑問も持っていないように見えた。

 幼い日に父と交わしたやり取りは今でも脳裏に焼き付いて離れない。

 『父さんはニルヴァーナを信じているの?』

 『もちろん』

 『どうして?』

 『どうしてってどういう意味だい?』

 『父さんはニルヴァーナに行って帰ってきた人に会ったことがあるの?』

 『ないよ』

 『じゃあ、何で行ったことのある人に会ったことがない場所のことを信じられるの?』

 『いいかい、ドナルド。ニルヴァーナはお父さんの生まれるずっと前から目指すべき場所として言われてきた場所なんだよ。長い歴史の末に残った話を信じるのはそんなにおかしいことかな?』

 ずっと言われてきたから……。それだけの理由で見ることの出来ない、行ったことのない場所を心の底から信じられる無邪気な父が羨ましかった。

 父は亡くなる直前、笑顔だった。周りの人も笑顔だった。父は目的地であるニルヴァーナにこれから旅立つのだと信じているから。その光景を見た私は悟った。私は見つけなければいけない。ニルヴァーナに代わる人生の目的たるものを。それを見つけることが出来れば消え去る恐怖に耐えることが出来ると信じていた。

 ニルヴァーナ家の人間として私は父の後を継いでこの街の領主となることが決まっていた。領主としてこの街の発展に力を注げば、多くの人が私に感謝と敬意を向けるだろう。多くの人のその視線が私の人生に目的と意義を与えてくれ、消え去る恐怖を打ち消してくれる。私はそう信じ、賭けた。私は賭けに勝ったと思った。あの日までは……。

 ”黒死の誘い”。多くのデラシネを生み出した疫病が私の築きあげてきたものをぶち壊していった。私は、分かった。父や多くの人には信じられる神話、ニルヴァーナがあった。ニルヴァーナを信じることが出来なかった私はニルヴァーナに代わる神話に焦がれ、求め、そして結局手にすることが出来なかった。

 神話なく、消え去る恐怖を抱えたまま生きていくことが出来るか?何度考えてみても答えは『ノー』だった。

 大きく息を吐いてペンを手に取る。真っ白の紙に人生の果てに辿り着いた”答え”を記す。

 『怯えて生きるより、今消えてしまった方がいい』

 ニナ、カート、ごめん。私にはこれ以外の答えを出すことが出来なかった。分かってくれとは言えないけど、エーテンダーとなる私を許してほしい。

 さようなら……。


 「?」

 夜中に”何か”を感じて目が覚める。体を起こして夜目で部屋の様子を伺う。ぼんやりとしか分からないが、何の異変も見当たらなかった。只の勘違いか。再び眠りにつこうとベッドへ身を沈めるもハッキリと分かる激しい横揺れに慌てて体を起こす。

 何だ、これは?地面が揺れてる?理解できない体験に何とも言えない恐怖が全身に広がっていく。身を縮こませて様子を伺っていると部屋のドアが勢いよく開け放たれて寝巻姿の母様が部屋に飛び込んでくる。

 「カート、早く!外に逃げるわよ」

 状況が飲み込めずに母様を見つめることしか出来るずにいると「早く!」怒号と共に駆け寄ってきて僕の手を取る。

 「早く外に出るわよ」

 有無を言わせぬ口調で僕を経たせて外へと引っ張っていく。外へ出ると同時に激しい揺れ。母様と一緒に地面へ倒れ込む。

 怖い。心の底、体中で怖いと感じた。ここまでハッキリと感情を感じたのは初めてだった。次の瞬間には赤ん坊が母親を求めるかのように母様に抱き着いていた。

 世界が揺れ続ける恐怖の中で、母様のぬくもりが僕の心を守ってくれた。


 一夜明けるとネヴァーマインドの街は一変していた。喜び、怒り、哀しみ、楽しみ……多くの感情が経験されてきた”家”は今や只の瓦礫と化していた。瓦礫の街。それが今のネヴァーマインドの街だった。

 ふらふらと街を彷徨う。嘆き、嗚咽がいたる所から聞こえてくる。哀しみの声に触れる度に父様の最期の言葉が頭の中で鳴り響く。

 『怯えて生きるより、今消えてしまった方がいい』

 ”黒死の誘い”。そして今回の災害。心の奥底から問いが発せられる。

 なぜ、ナゼ、何故!

 なんで多くの人がデラシネとならなければならない。彼ら、彼女らが何をしたというんだ。誰もが頭を垂れる中で、その問いに答える声が響いた。

 「諸君らは今、こう想っていることだろう。何故、と。何故このような災厄が起こったのかと」

 声をした方を見やると真っ白な衣に身を包んだ男がいた。

 「我はその答えを持っている。答えを求める者よ。我の元に集うがいい」

 男の声には”力”があった。道を失った者に新たな道を示すかのような確かな力が。吸い寄せられるかのように男の元に多くの人が集まっていく。僕も男の元へと吸い寄せられていく。

 「教えてください。私の子供は崩れた建物に押し潰されてデラシネとなってしまいました。何故あの子がデラシネとならなければならなかったんですか!」

 子を失った母親が悲痛な声をあげる。衣の男は目を閉じて母親の問いかけにじっと耳を傾けていた。男がゆっくりと目を開いて母親に話しかける。

 「天罰……」

 「えっ?」

 「これは天罰である。なぜ、今回のように地面が震えたのか?それは我々が”神”の声を無視しているからである!」

 「神?神とは何なのですか?」

 「神とは何か?神とはこの世界を創り出した超越的な存在である」

 男は足元に転がっている石を拾い上げて人々の前に掲げる。

 「見るがいい」男が手を離すと石が地面へと落ちる。「なぜ石が地面へと落ちるのか?神がこの世界をそのようにお創りになったからである」

 「その超越的な存在は何故、私たちに罰を与えるのですか?」

 「それはこの街が嘘をもとにつくられた、嘘の街だからである!」

 嘘?ネヴァーマインドの街が嘘の街?

 「『天寿を全うした者はニルヴァーナ=大いなる静寂へと旅立つことができる』それがこの街の根本にある虚構である。虚構に溺れ、いつまでも真実に目を開こうとしないことに神はお怒りになっているのだ」

 「この街が嘘の街とはどういうことですか?」

 黙って聞いていることが出来ずに男を問い詰めていた。男は一瞬驚きの表情を浮かべたものの、すぐ余裕たっぷりの笑みへと変わる。

 「これはフェニックス家のご令息ではありませんか。何かお気になられましたか?」

 「ニルヴァーナが虚構とはどういうことですか?」

 「では、ご令息にお尋ねします。ニルヴァーナ=大いなる静寂とは”具体的”にどのような状態になることを言うのか、一つ私にご教授頂けませんか?」

 「そ、それは……」

 「ニルヴァーナ、デラシネ、エーテンダー……全て虚構である。ニルヴァーナとは何か?デラシネとは何か?エーテンダーとは何か?誰も具体的に答えられはしない。何故なら……」男は言葉を区切って左手の人差し指で自らの頭を示す。「ある一人の男、ジョン・フェニックスの頭の中から生まれた妄想に過ぎないのだから!」

 人々の間に動揺が広がっていく。何か、何か言わなければいけない!

 「あ、あなたの言う神だって、あなたの頭の中から生まれた妄想に過ぎないんじゃないですか?」

 「なるほど、ではお尋ねします。何故、石から手を離すと石は地面に落ちるのですか?」

 「えっ?」

 「なぜ、地面が震えたのですか?アナタはこれらの問いに答えることが出来たのですか?」

 「……」

 答えられずにいると後ろから怒号がとぶ。

 「そうだ!答えてみろ!」

 「嘘つきの子孫は黙ってろ!」

 人々の反応が信じられなかった。みんなずっとニルヴァーナのことを信じてきたはずだ。いくらあんな大きな災厄があったからといって、こんな得体の知れない男の言葉で長年信じてきたことをあっさりと捨ててしまうのか?

 「フェニックス家のための嘘だったんじゃないですか?」

 「それは……どういうことですか?」

 「ニルヴァーナへ旅立つことこそが人生の目的であると考えられているネヴァーマインドの街では老いこそ望ましいと考えられており、長寿の者は大いなる敬意を向けられる対象となっています。そこから代々長寿の家系であるフェニックス家の人間が領主を歴任するようになったと聞いています。つまり、天寿が目的ならば老いは望ましいものであり、老いが望ましいものならだ代々長寿であるフェニックス家の人間こそが領主にふさわしいというわけですね」

 「その考えに何か問題でも」

 喉が渇き、ひどく声が掠れる。男が言おうとしている事がハッキリと分かったが、それを認めることは出来なかった。

 「ニルヴァーナ、天寿、長寿、領主、フェニックス家……我はこれらの繋がりが意図的につくられたものではないかと疑っています。誰によって?勿論最も得をする人間、フェニックス家の人間によってです」

 嘘つきの子孫。街の人々から投げつけられた言葉が反芻される。フェニックス家のための街。それがネヴァーマインドの街?

 「先代の領主、アナタの父であるドナルド・フェニックス家は自ら命を絶ってエーテンダーとなる道を選びました。我はずっとそれが不思議だった。もし彼がフェニックス家が代々築き上げてきた虚構を信じていたのならば自ら命を絶つわけがない。では、何故自ら命を絶ったのか?人々をだまし続けることに耐えられなくなったからだと私は考えています」

 父様は言われていた。ネヴァーマインドの街ことが自分の人生に意義と目的を与えてくれると。それはフェニックス家の虚構を守るため?結局、人々をだまし続けてきたことに耐えられなくなって命を絶った?

 「アンタのせいでうちの子が!」

 怒号と共に母親に思いっきり頬を叩かれる。叩かれた頬を抑えながら呆然と見つめる。僕の、せい?

 「そうだ!フェニックス家の人間のせいで神が怒っているんだ!」

 「この嘘つきの血を神に捧げよう!」

 一瞬にして人々が殺気立つ。本能が逃げろと警告を発するも、足がすくんで逃げる事が出来なかった。

 「やめてください」男の一喝で人々が静まる。「この少年に罪はありません。アナタ達をだまし続けてきたのは彼の先祖たちであって彼ではないのです。彼の先祖たちが始めた虚構によって彼は父親を失いました。いわば彼も被害者なのです」

 「私たちはどうすればいいんですか?」

 「私たちに出来ることは唯一つ。ニルヴァーナという虚構を捨てて神の声に沿った行動をすることです」

 「どうすれば神の声に沿った行動が出来るようになるのですか?」

 「神の声を聞くためには特別な修行を行う必要があります。特別な修行を行えば、誰でも神の声を聞くことが出来るようになります。この私のように」

 「ああ、貴方こそが真に私たちを導いてくださる方だ」

 「私たちを救ってください」

 「神の声を求める迷える子羊たちよ。進むべき道を求めているなら、我についてきてください。神の声に従ってこそ真の平穏が得られるのです!」

 男が歩き出すと多くの人が彼についていく。僕は、嘘つきの子孫と言われた僕は強く反論することも出来ずに黙って男に付いていく人を見ていることしか出来なかった。


 ふらふらと覚束ない足取りで街を彷徨い、気付けば街の最奥にある礼拝堂に辿り着いた。ネヴァーマインドの住人はこの礼拝堂でこの世に生を受け、ニルヴァーナへの旅路を開始したことを祝福される。その礼拝堂も瓦礫と化していた。

 「カート!」

 クリスが駆け寄ってくる。

 「クリス!大丈夫だった?」

 「ああ、俺は家族含めて大丈夫。でも……」

 クリスが言葉を切って視線を後ろへと向ける。視線の先ではクリスの親父さんが呆然と瓦礫と化した礼拝堂を見つめていた。

 「叔父さんはどうしたの?」

 「多分、ショックだったんだと思う」

 「ショック?」

 「この礼拝堂、親父が石工になり立ての頃に初めて建てたものなんだよ。今、思い出したんだけど俺小さい頃に親父に聞いたことがあるんだよ。『石工しててどんな時に嬉しいのか?』って。俺は建物が完成した時かなって思ったんだけど、親父の答えは違った。親父の答えは『俺の建てた礼拝堂で多くの人が祝福を受けた時』だった。この礼拝堂は親父にとって”特別”だったんだと思う」

 「そっか……」

 視線を礼拝堂だったものに向ける。地が震えなければ礼拝堂は変わらずに礼拝堂としてあり続け、多くの人が祝福を受け続けたことだろう。そして、それを見る叔父さんの胸は誇りで満たされていたことだろう。

 「何で?」

 父様の死、黒死の誘い、そして今回の災厄。受け入れがたい出来事の度に心の奥底から湧き上がってくる問いかけが思わず口をつく。

 「ん?」

 「何で今回みたいなことが起きなきゃいけなかったんだろう?」

 「誰もが理不尽な出来事が起きる度に問う。『何で』と」

 今まで全く気配を感じなかった場所からの声に慌てて声がした方を見やる。見ると腰の周りを布でわずかに覆ったやせ細った老人が座っていた。老人が虚ろな目をこちらに向ける。

 「君は、何でだと思う?」

 「僕には、分かりません」

 「神を信じるあの男なら天罰、神が怒っているからだと言うだろう。君もあの男の話しを聞いていたのだろう。君は、神を信じるかね?」

 「信じていません。いや、信じたくない、と言った方が確かかもしれません」

 「あの男が君の先祖を否定したからかい?」

 「……はい」

 老人が口の端を吊り上がらせる。

 「何がおかしいんですか!」

 ふつふつと湧き上がる怒りが口調をキツクさせる。

 「いや、君の反応を笑ったわけじゃないんだ。私が笑ったのはあの男の存在自体さ。あの男は言っただろう。ニルヴァーナとはジョン・フェニックスの頭の中から出てきた妄想だと。では、神は?”神”と呼ばれる存在もあの男の頭の中からでてきた妄想ではないと何故言える?」

 「ニルヴァーナも神もただの妄想だと言うんですか?」

 「その通り」

 「では、貴方は今回の災厄は何で起こったと思うのですか?」

 「理由などない」

 「え……どういう意味ですか?」

 「言葉通りさ。今回に災厄に意味も理由もない。ただそうなっただけだ」

 「理由もなく多くの命が失われて、礼拝堂も瓦礫と化したっていうんですか!」

 黙って話しを聞いていたクリスが口を挟む。

 「では、逆に聞こう。理由があればいいのかい?大いなる存在でも、神でも呼び名は何でもいい。人知を越えた存在がいて、その存在が地を震わせて多くの人の命が失われて多くの人に祝福を授けてきた礼拝堂は瓦礫と化した。そう言われれば君は納得するのかい?」

 「それは……」

 クリスが口をつむぐ。納得は出来はしないだろう。理由があろうがなかろうが、失われたという事実はなくなりはしないのだから……。

 「人は理由を求める。目の前で起きた出来事に、この世界に、己自身に。何故か?」

 老人の低いしがれた声が胸にしみ込んでいく。老人を言葉を切って僕たちを見渡す。思わず、つばを飲み込んでいた。

 「何故、ですか?」

 「何もないからだ!」

 「何も、ない?」

 「そうだ!地が震えることも、この世界が今の世界であることも理由などない!人の生もそうだ。人は理由も意味もなく虚無から生まれ、そして死んで虚無へと帰っていく。私とは何か?何者でもない!ニルヴァーナも神もその真実に耐え切れない者が創り出した妄想なのだ!」

 僕は、何者でもない?意味も、理由もなく生まれて意味も理由もなく死んでいく?

 「虚無から生まれ虚無に帰るだけなら、何で僕は生きるんですか?」

 「意味も理由もない」

 「意味も理由もなく虚無に帰るだけなら、死んでしまえばいいんですか?」

 「死にも意味などない。が、死にたければ死ねばよい。君の父親のように!」

 「嫌だ!」

 叫んだ。人生で初めての心の底からの叫び。

 「叫ぼうが、嘆こうが真実は何も変わらない。この世は虚無だ」

 「僕は、嫌だ!」

 信じていたものが崩れ去る恐怖から逃れるように僕は老人から全力で逃げ出していた。


 どうしていいか分からなくなった時、道に迷った時に僕が行く場所は一つしかなかった。”当然”が脆くも崩れ去った時に足はノーブルさんの屋敷に向かっていた。

 「直してもらうしかないんじゃないでしょうか?」

 「うーむ、どうしたものかの?」

 屋敷の門前まで来るとノーブルさんとテオさんが何やら話し合っていた。

 「ノーブルさんにテオさん」

 「あら、カート様」

 「おお、カート。無事だったみたいじゃの」

 「はい。ノーブルさん達も何もなかったみたいで何よりです」

 「ひどい揺れでビックリしたの」

 「ノーブルさんもビックリしたんですか?」

 「うむ。我も長いこと生きておるが、地があんなに震えることがあるとは想像もしなかった。この世界にはまだまだ我の知らぬことがあるもんじゃの」

 「何か話していたみたいですけど、何かあったんですか?」

 「うむ、我らは無事だったんだがの……」

 視線を後ろに向ける。訪れた者に畏敬の念を抱かせる絢爛豪華な門が礼拝堂のように崩れ去ってしまっていた。

 「屋敷は無事だったんじゃが、正門がこうして崩れ去ってしまっての」

 「私は建て直してもらいましょうと言ったんですけどね……」

 不服そうな口調でノーブルさんを見やる。

 「建て直すことに何か問題でもあるんですか?」

 「問題があるわけではないが、建て直して何もなかったことのようにしてしまうのは勿体ないことのような気がしてな」

 「もったいない?」

 「うむ。我は今日の世界と明日の世界が地続きだと思っている。今日が晴れで明日は雨とか細かな違いはあっても、さも当然かのように同じ世界が続いていくのだと。でもそれは我が勝手にそう思っているだけに過ぎないのだと」

 ノーブルさんがしゃがみ込んで正門の一部だった石を手に取る。

 「この石も昨日までは正門の一部だったのに、今は石ころと化しておる。このことは我にある可能性を提起する。我はこの世に現出した時からずっと我だった。そして十年後も我だと思っていた。でも今までがそうだっただけで十年後は今までの我とは違う我なのかもしれぬ。上手く説明出来ぬが、それはとても大切なことのように思えてな。正門を建て直してしまうとその大切だと思ったことも忘れてしまうような気がしてどうもな」

 父様が亡くなる前の僕と父様が亡くなってしまった後の僕。そして今回の災厄を経験した後の僕。僕はどれだけ同じでどれだけ違っているんだろう。

 「まあ、正門のことは今すぐ何かを決めなくてはいけないわけではないからまあよい。で、カートはどうしたんじゃ。何か相談したいこともあるのか?」

 ノーブルさんの言葉に思索を一旦打ち切る。

 「はい。ノーブルさんにちょっと話しを聞いてもらいたいことがありまして……」

 「そうか。では屋敷でゆっくり話しを聞こうかの」

 三人で屋敷に入っていく。


 テオさんが出してくれた紅茶に口をつけてホッと息を吐く。いつもの部屋にいつもの紅茶。気付けばこの空間が最も落ち着く場所になっていた。

 「で、聞いてほしい話しというのはどんな話しかの?」

 「ノーブルさんはこの世界はどうやって出来たと思いますか?」

 全く予期していない質問だったからか口をぽかんと開けている。

 「いやはや、随分と壮大な質問よの。それは急に沸き起こった質問かの?」

 「いえ、父様を失った日から気付けば考えてしまうんです」今までは全く気にならなかったのに、父様を失った日からこびり付いて離れなくなった想い。「多くのデラシネを生み出し黒死の誘い。黒死の誘いがあってから父様は幼い子供の目から見ても明らかに変わってしまわれて常に何かに怯えているように見えました。そしてエーテンダーとなる道を選ばれてしまった。気付けば考えてしまうんです。黒死の誘いがなければ父様はエーテンダーとなる道を選ばなくて済んだんじゃないかと。黒死の誘いがなければ……どうしてこの世界は黒死の誘いのような出来事が起きるのだろうか」

 「なるほどの」

 「そんな想いを抱えているなかでまた多くのデラシネを生み出した出来事が起こりました。『何で、どうして』強く湧き上がってくる想いを抱えながら街を歩いていると二人の男に出会いました。二人はそれぞれ『何で、どうして』という問いに対する答えをくれました」

 「ほう、それは大変興味深いの」ノーブルさんの目が輝く。「二人の男は何て言っておるんじゃ?」

 「若い男は言いました。今回の災厄は天罰だと。”神”と呼ばれる人智を越えた存在がいて、人々がその神を無視しているから怒って地を震わせたんだと。年老いた男は言いました。今回の災厄に意味などない。只の偶然でしかなく、どんな理由をつけようとも虚無から生まれ虚無に帰っていく人間の妄想に過ぎないと」

 「天罰に偶然、神に虚無、か。カートはそれを聞いてどう思ったのかの?」

 「正直どちらの考えにも納得出来ませんでした。納得したくなかっただけかもしれませんが……。若い男はニルヴァーナは僕の先祖であるジョン・フェニックスの妄想に過ぎないと言いました。でも、年老いた男は言いました。『地が震えることも、この世界が今の世界であることも理由などない!人の生もそうだ。人は理由も意味もなく虚無から生まれ、そして虚無へと帰っていく。私とは何か?何者でもない!ニルヴァーナも神もその事実に耐えられない者が創り上げた妄想なのだ』と。僕はそれを聞いて強く思ったんです。嫌だ!と」

 「どうしてじゃ?」

 「多分、その考えを受け入れてしまうと僕という存在が軽くなってしまうような気がして……」

 「存在が軽く、か。カートはこの前にしたドーナツの穴の話を覚えておるかの?」

 「ハイ。ドーナツが消えればドーナツの穴が消えてしまうように、周りの人が誰もいなくなってしまえばその人も消えてしまったように感じられる」

 「そうじゃの。人は”人”として存在するためにはその人がいることを認識してもらう必要があると。ただその年老いた男の言葉に対するカートの反応を察するに周りから認識してもらうだけではダメで意味や理由が必要らしいと。でないと存在が軽くなってしまうと。それを聞いてヒトと違う種であるクリムゾン・ノーブルである我は二つ疑問に思うことがある。一つ。何故意味や理由がいるのか?一つ。軽いということは悪いことなのか?一つずつ考えていこうかの。何故ヒトには意味や理由が必要なのかの?」

 「それは……」

 「分からぬか?」

 「はい」

 「でも、嫌だと?」

 「……はい」

 理由は分からない。でも嫌だとハッキリ感じている。理屈に合わないことのように感じられる。にも関わらず何故ここまでハッキリと強い感情が湧き起ってくるのだろうか?

 「うーむ」顎に人差し指をあてて視線を宙に泳がせる。「では、始まりから始めていくとするかの」

 「始まり、ですか?」

 「うむ。ヒトは、といっても我もだが理由も分からずにこの世に生を受けて”名前”を付けられる。もし名前が付けられることがなかったらどうすると思う?」

 「名前をつけられずに過ごしたらってことですよね?」

 「そうじゃの」

 「前、ノーブルさんは言ってましたよね。子供は最初、自分のことを名前で呼んで大きくなるにつれて『私』や『僕』という言葉を使うようになると。自分がどう呼ばれるかによって自分がどういう存在かを認識していく。この考えからいくと名前をつけられないと自分が呼ばれているのか、他の子供が呼ばれているのか区別が付かないので自分がどういう存在なのか分からないんじゃないですか?」

 「ありそうな話しじゃの。『カート・フェニックス』という名前を付けられることによって、フェニックス家のカートという立ち位置が決まる。ネヴァーマインドの街では子は親の仕事を継ぐことが一般的じゃから立ち位置が決まれば目的が決まる。ここまで考えてきてふと疑問に思ったことがある。カート、お主はみんながどこか違う今の世界とみんなが全く同じ別の世界。どっちがいい世界だと思う?」

 みんながどこか違う今の世界とみんなが全く同じ別の世界、か。

 「みんながどこか違う今の世界ですかね?」

 「それは何故じゃ?」

 「何かみんな全く同じだと自分という存在が分からなくなってしまうような気がして……」

 「人とは違うということが意味や理由を生み、理由や意味が生の重さを生むといったところかの。意図せずして二つの疑問に対する答えが出たようじゃの。何故理由や意味がいるのか?理由や意味が他の人とは違う『自己』という存在の証明になるから。何故軽いことは悪いことなのか?軽いということは理由や意味がない状態であり、他の人と区別がつかず自分という存在が分からなくなっている状態であるから」

 ノーブルさんの言葉を聞いていて急の父様の言葉が蘇ってきてハッとする。こちらの様子に気付いたノーブルさんが怪訝な表情を見せる。

 「どうしたのじゃ?」

 「ノーブルさんの言葉を聞いて父様の、生前の言葉が蘇ってきたんです。父様は『人が歩くべく正しい道は只一つ。自分に目的と意味を与えてくれるものに尽くすこと。そうすることによってドナルド・フェニックスという一人の男の人生に目的と意味が生まれる』と」

 「ドナルドはそんな事を言っておったのか。ドナルドは何に尽くすのか言っておったのか?」

 「父様はネヴァーマインドの街の発展こそが目標だと言っていました」

 「……そうか」

 大きな吐息と共に言葉を吐き出す。

 「父様は自分が正しいと確認しているわけではなく、街の発展に賭けたのだと言っていました。人生の賭けだと」

 「そして、その賭けに負けた、とドナルドは思ったのかもしれないの」

 父様は街の発展に賭けた。黒死の誘いによってその目標は頓挫してしまった。そして自ら死を選んだ……。

 「父様は、間違っていたんでしょうか?」

 「街の発展を目標としたことが、か?」

 「ハイ」

 「ドナルドは最終的に自ら死を選んだ。その観点から言えば間違っていたといえるかもしれぬ。だが、我は間違っていたとは言いたくない。黒死の誘いや今回の災厄が起きるかなど誰にも分からぬし、ドナルドが街の発展に尽力したおかげで救われた人がいたはずじゃからの。カートは近くでそれを見てきたんじゃろ?」

 「そう、ですね」

 確かに父様の建てた診療所は多くの人を救った。でも診療所から黒死の誘いが広まって多くのデラシネを生み出してしまった。父様はそのことをどう思っていたのだろうか?

 「何か納得がいっていない様じゃの」

 視線が言葉を促してくる。

 「父様の建てた診療所は今まで見捨てられていた多くの人を救い、黒死の誘いによって多くの人を苦しめました。もちろん、父様がそれを望んでいたわけではありません。でも事実はそうです。自分の行動がどのような結果をもたらすのかを正確に把握するのは難しい。父様の軌跡を見るとどうすべきなのか分からなくなってしまって……」

 「なるほどな。では一つカートに問おう。『で、どうするのじゃ?』」

 「どうする、というのは?」

 「自分の行動がどのような結果をもたらすのかは分からない。だから、恐れてこれから先何もしないのか、それでも何かをするのか。ドナルドは確かに望む結果を得られなかったかもしれない。では、カートに一つ問おう。ドナルドは何もしなかったらどうなっておったのかを?」

 父様はおじい様のことを話しを聞くだけで何もしなかった人だと蔑んでいた。父様もおじい様のように何もせずただニルヴァーナを望むためだけの人生を選ぶことが出来たはずだ。でもそれをしなかった。ニルヴァーナを虚構だと思っていたから。

 「おじい様は、ニルヴァーナを信じていたおじい様は幸せそうに”どこか”に旅立っていきました。でも、父様はニルヴァーナを虚構だと思っていました。父様はおじい様のような生き方は出来なかったと思います」

 「恐らくじゃがヒトは”分からない”という状態に耐えられないのだと思う。その極致が”死”じゃ。それに耐えられないからヒトは答えを創り上げる。ある人はニルヴァーナ、ある人は神、ある人は虚無と。その者らが話し合えば『自分こそが正しい。彼らは間違っている』と言うであろう。でも我からすればみんな同じに見える」

 「誰もが間違っているということですか?

 「正しい、間違っているというのはどうやって決めることが出来ると思う?」

 「それは、最終的にその人自身が満足出来るかどうかだと思います」

 「言い換えれば最後の瞬間まで分からないというわけじゃな」

 「そう、だと思います」

 「ニルヴァーナ、ネヴァーマインド、神、虚無、それとも別の何か……選ぶ段階では正しいかどうか分からぬものを選ばなければならない。ドナルドが言った通りにそれはまさしく”賭け”と呼ぶにふさわしい行為となるであろう」

 「それを踏まえて『で、どうする?』ということですか」

 「そうじゃ。もちろん今すぐ決める必要はない。が、ずっと決められぬのはカート・フェニックスというヒトの人生に大きな問題をもたらす、と我には思える」

 おじい様はニルヴァーナを選んだ。それは正しかった。父様はネヴァーマインドの街を。それは間違っていた。若い男は神を、年老いた男は虚無を選んだ。その果てには何が待っている。そして僕には?僕は何を選び、何が待っている?

 「中々難しい問題ですね」

 思わず苦笑いを浮かべていた。

 「そうじゃの。その問題への答えは誰もが教えてくれるものではなく、自分で考え、自分で決めなくてはいけないものじゃからの。じゃが、答えを教えてやることは出来ぬが、ヒントになりそうなアドバイスを与えてやることは出来る。一つ、カートに参考になりそうなアドバイスを与えよう。昔、変わった男がいた。その男は昼間からずっと足を組んで目を閉じて座っておった。我は男が何をしているのかが分からずに興味を惹かれて男を観察してみることにした。最初は寝ているのかと思った。だが、近付いてよく見てみるとうっすらと薄目を開けていたので、どうやら寝ているわけではなかったらしい。男は日が登ると座ることは始め、日が沈むと立ち上がってどこかへ帰っていった。ずっと見ても分からなかった我は帰ろうとする男に尋ねた。『そなたはここで何をしているのじゃ?』と。男は平然と尋ねた。『解体しているのです』と」

 「その人は何を解体していたんですか?」

 「当然の疑問じゃな。我も男に尋ねた。男は『私という存在を解体しているのです』と」

 「私を、解体している?」

 「男は色々と説明してくれたんじゃが、難しくて我がちゃんと理解できているかは怪しいんじゃが、曰く『私という存在を形づくっているのは私という存在が行う行動である。存在が行動を実行し、行動が存在をつくる。そして、一度存在がつくりあげられれば行動し続ける。そこに”正”も”否”もない。そのような存在がいるだけだ。私という存在は私という存在を正しく見ることはできない。だからこそ定期的に解体しなくてはいけない』らしい」

 「目を薄っすらと開けて足を組んで長時間座れば私という存在を解体できるんですか?」

 「私という存在は一定の身体技法で形づくられているから一定の身体技法で解体することも可能、らしい。我も何度か試してみたが効果はなかったがの。まあ、我のやり方が間違っていたのか、クリムゾン・ノーブルにはそもそも効果がないのかは分からぬがの。男とは何度か話したんじゃが、男はよく『行為によって正しい人となり、行為によって正しくない人ともなる』と言っておった。それを踏まえてカートに問おう。カート・フェニックスはどのような存在を目指すのか?どのような行為がその存在を具現させるのか?その答えこそがそなたの人生の指針となるであろう」

 ニルヴァーナという光が虚無という闇に覆われた僕の世界に、微かなでも確かな光が差した。その小さな光を胸に歩いていける。そう、思えた。

 「分かりました。今日のノーブルさんの言葉を参考にカート・フェニックスという存在の進むべき道を考えてみたいと思います」

 「うむ。しっかりとな」

 ノーブルさんの言葉とテオさんの笑顔に見送られてて屋敷をあとにした。


 「カート君!」

 ノーブルさんの屋敷から自宅へと戻る途中に声をかけられる。振り返るとグラーフさんが駆け寄ってくる。グラーフさんは父様の補佐をしてくれていた人で、父様のことがあってから僕ら母子のことを何かと気にかけてくれていた。

 「グラーフさん、お久し振りです」

 「久し振り。カート君は大丈夫だった?」

 「ハイ。家も母様も無事でした。グラーフさんの方はどうでした?」

 「うちも家も家族も無事だった。ただ街は大丈夫とは言い難いけどね」

 グラーフさんが街を見やる。嘆き哀しむ人の姿は見えなかったが、あちこちに瓦礫の山が出来上がっていた。

 「あの、一つお伺いしたいんですが……」

 「何かな?」

 「今回の災厄で亡くなった人たちはやっぱり静寂の谷に入ることは許されないんですか?」

 「そうだね」一瞬にして表情が曇る。「黒死の誘いの時もそうだったから、今回だけ特別というわけにはいかないと思う」

 「そう、ですか……」

 「グラーフさん!こっちに来てください」

 遠くからグラーフさんを呼ぶ声が響く。見るとグラーフさんに対して手を振っている男がいた。

 「何か作業中なんですか?」

 「ああ、被害状況の確認中でね。行かなきゃいけないみたいだ。何か困ったことがあったら遠慮せずに声をかけてね」

 「ありがとうございます」

 「じゃあね」

 「気を付けてください」

 「ありがとう」

 手を振って男の元へ帰っていく。今回の災厄で多くのデラシネが生まれた。デラシネは街外れの共同墓地へと埋葬され、その瞬間から忘れ去られた存在となる。エーテンダーと違って本人にはどうしようもなかったのに……。いや、エーテンダーとなった人も、父様もどうしようもなかったのかもしれない。にも関わらず僕らは彼らのことを忘れていく。僕らと彼らの間にはちょっとの違いしかなくて僕らが彼らのようになっていたのかもしれないのに。

 「ちょっと、アンタ。まだ日も暮れてないのにそんなにお酒飲んで」

 「うるせえな!酒くらい好きに飲ませてくれよ」

 「そんなにお酒飲んじゃニルヴァーナへ行けなくなっちまうよ」

 「ニルヴァーナだぁ。俺たちゃ、運悪けりゃあっけなくデラシネとなっちまう身だ。そんな身にあるかはっきりしないニルヴァーナなんて目指して我慢してられるかってんだ!」

 「ちょ、ちょっとあんた!」

 女性が慌てて男性の口を抑える。前だったら人前でニルヴァーナの存在に疑問を呈する声を聞くことはなかっただろう。男性の疑問の声を聞いた人はたくさんいたはずだったが声を上げる人は誰もいなかった。

 ネヴァーマインドの街の人たちはニルヴァーナを目指してそこに至ると信じられる行為を続けてきた。揺らぎ、そして信じられなくなったらどのように変容していくんだろうか?


 災厄から一週間が経った。日課としている街の様子の観察から帰ってくると隣の家のユーリちゃんが座り込んで熱心に何かをしているのが目に入った。不思議に思い、近付いて声をかける。

 「ユーリちゃん、何してるの?」

 「あっ、カートさん。見て見て!」

 僕に気付くと笑顔で手に持っているものをこちらへと見せてくる。小さな、丸い石だった。よく見ると石には『コートン・ラブ』と刻まれていた。

 「この名前は?」

 「コートんちゃんとはすごく仲良しだったんだけど、この前のことでコートンちゃんはデラシネになっちゃったの。アタシ、コートンちゃんのお墓に飾ってもらおうと思ってお花を集めてコートンちゃんのお家に行ったんだけど、コートンちゃんのお母さん『ごめんなさい。あの子のお墓はないの。もう、あの子のことは忘れてちょうだい』って言うの。アタシ、コートンちゃんのお母さんの言っていることがよく分からなくてお母さんに『どうして?』って聞いたんだけどお母さんも『忘れなさい』としか言わないの。カートさんはどうしてか分かる?」

 屈んでユーリちゃんと目線を合わせる。

 「ユーリちゃんはデラシネがどういう存在なのか分かる?」

 「えっと、天寿を全う出来ずに死んじゃった人たちのこと」

 「そうだね。ここネヴァーマインドの街では天寿を全うするとニルヴァーナに旅立つことが出来るとみんな信じていて、みんなニルヴァーナを目指しているんだ。だから、ニルヴァーナはいいこと、デラシネは悪いことだと思っているんだよ」

 「悪いことだから忘れなさいってこと?」

 「そういうことだと思う」

 「でも、コートンちゃんは前まで確かにいたし、コートンちゃんが何か悪いことしたわけじゃないのに、忘れなさいってコートンちゃんがかわいそうじゃない?何でコートンちゃんのお母さんもお母さんもそんなこと言うの?」

 「多分、考えたくないからだと思う。目指しているニルヴァーナへ行けずにもしかしたらデラシネになっちゃうんじゃないかって」

 「考えなきゃデラシネにならずに済むの?」

 真っ直ぐな疑問に苦笑がもれる。そうだよね、普通に考えれば目を反らしても何も変わらないよね。

 「ならないけど、みんなそうせずにはいられないんだよ」

 「ふーん、大人って大変なんだね。ねえ、カートさんもニルヴァーナを目指してるの?」

 「僕?僕はよく分からない、かな。ユーリちゃんは?」

 「アタシ?アタシもよく分からない!」

 ユーリちゃんの答えは真っ直ぐ力強くて羨ましかった。僕にもこんな真っ直ぐな想いがあったのかな?これから先持てるのかな?

 「そっか、分からないか。じゃあ、僕たちは似たもの同士だね」

 「うん、一緒一緒」

 ユーリちゃんの笑顔に心が少し軽くなる。

 「どうしてユーリちゃんはその石にコートンちゃんの名前を刻んだの?」

 「みんなはコートンちゃんのことを忘れなさいって言うけど、アタシはコートンちゃんのことを忘れたくないと思ったの」

 「どうして?」

 「だって、アタシの中にはコートンちゃんとの思い出がたくさんあるから。コートンちゃんのことを忘れるってことはその思い出も一緒に忘れるってこと。コートンちゃんとの思い出は今のアタシの一部になってるから誰が何と言おうと忘れたくない!だから、この石にコートンちゃんの名前を刻んだの。この石を見る度にコートンちゃんのことを強く思い出せる、そんな気がしたから」

 あの若い男の言ったことが本当だと仮定してみよう。代々長寿の家系であるフェニックス家に人々からの敬意を集めるために老いこそ望ましいという考えを広め、その考えの目的地としてニルヴァーナという虚構を創り上げた。静寂の谷、デラシネ、エーテンダー……全てはニルヴァーナという虚構を守るために仕掛けに過ぎないと。

 ノーブルさんは言った。目指すべきものがあり、それに至る行動があるべきだと。

 ニルヴァーナを信じるなら、デラシネ、エーテンダーとなった存在を忘れることにも筋が通っているのかもしれない。ニルヴァーナを信じていないのにデラシネ、エーテンダーとなった存在を忘れることは筋が通っているのか?僕は父様のことを忘れたいのか?忘れたくない!コートンちゃんとの思い出が今のユーリちゃんを形作っているように父様の思い出が今の僕を形作っている。今の自分の一部を忘れることなんて出来ないし、したくもない!

 「ありがとう、ユーリちゃん」ユーリちゃんの手をがっしりと握る。「ユーリちゃんのおかげでしなきゃいけないことが分かったんだ」

 「えっ、そ、そうなの」何のことか分からずに目を白黒させている。「何かよく分からないけど、どういたしまして、なのかな」

 「じゃあ、僕やらなきゃいけないことが出来たから」

 勢いよく立ち上がって、自宅へと駆け込んでいった。


 「忙しいのに呼び出して悪かったな」

 災厄から一か月が経った。元通りというわけにはいかないけど、瓦礫の山は取り除かれて人々も落ち着きを取り戻していた。建てなきゃいけないものがたくさんあって、この一か月クリスと叔父さんは大忙しだったろう。

 「それはいいけど、話しって何?」

 「これを見てほしいんだ」

 この一か月考えていたことを記した紙をクリスに差し出す。

 「これは?」

 クリスが紙へと目を落とす。紙には長方形の石材が縦横に規則正しく並んだ図が描かれていた。

 「何かのモニュメント?」

 「うん、今回の災厄で亡くなった人のための記念碑を作ろうと思って……」

 驚きで顔を上げる。

 「それはデラシネのための記念碑を作りたいと言ってるんだぜ。分かってるのか?」

 「勿論、分かってる」

 無言でじっと見つめてくる。その視線を反らすことなく受け止める。しばらく無言で見つめ合った後にクリスが口を開く。

 「……何故だ?」

 「デラシネは大いなる存在の寵愛を失った者として静寂の谷で眠ることは許されずに人々もその人のことを忘れることが推奨される。まるで最初からいなかったように……。その人は確かにこの世界に存在したのに」

 「俺たちはデラシネとなった人たちのことを忘れるべきじゃない。そう言いたいのか?」

 クリスの言葉に大きく頷く。

 「クリスも会った年老いた男が言ってたでしょ?人は虚無から生まれて、虚無に帰っていくって。人は確かに虚無から生まれてくるのかもしれないけど、虚無のままであり続けるわけじゃない。日々の生活が、多くの人との思い出がその人を形作っていく。例え何があったとしてもその思い出を忘れてしまうというのは自分を殺してしまうのと等しいとさえ僕は思う」

 「それが、親父さんが失ったお前が辿り着いた答えか?」

 「うん」

 クリスを真っ直ぐに見据えて頷く。

 「理解されないどころか、多分いや間違いなく非難されるぞ?」

 「僕はエーテンダーの息子だからね。無視されることに比べたら非難は大したことないよ」

 「……そっか」視線を空に向けて考えを巡らせている。「俺は親父の手伝いがあるから手を貸すことは出来ないけど……」

 じっとクリスの次の言葉を待つ。

 「どうすれば記念碑をつくれるのか、アドバイスをすることは出来る。それでいいか?」

 「もちろん」クリスを手を差し出すとがっしりと握ってくれた。「ホント、ありがとう!」

 クリスが手を貸してくれるのか自信がなかったので喜びが全身を駆け巡った。

 「やっぱり、違うな」

 ぽつりとクリスが呟く。

 「えっ、何が?」

 「領主を歴任した家系の人間は考えることが違うなって思って。俺は世間で言われていることに疑問は挟むことはなかったからな。疑問に思って記念碑をつくるという具体的な行動を起こそうとするカートは俺なんかとはやっぱり違うよ」

 「そう、なのかな」

 多分、それは領主の家系だからではなく父様を失ったから。父様を失って今までの”当たり前”が脆くも崩れ去ってしまったから。父様を失う前の僕なら考えもしなかっただろう。

 「じゃあ、明日から開始しようぜ。まず、石材の調達からレクチャーするから石切り場に集合な」

 「うん、分かった。明日からよろしくね」


 クリスと別れ、一番最初にしなければいけないことを行うために執務館を訪れる。父様が存命の時はよく訪れたものだったが、父様が亡くなってから訪れたのは初めてだった。

 「あの、すいません」

 受付スタッフに声をかける。”僕”だと認識すると表情が曇るがすぐ笑顔を取り戻す。

 「どうなさいました?」

 「執務補佐官のグラーフさんにお会いしたいのですが、取り次いでもらえませんか?」

 「かしこまりました。あちらの椅子におかけになってお待ちください」

 椅子に座ってグラーフさんを待つ。目の前ではどのスタッフも忙しそうに立ち回っている。幼い頃に見た執務館は父様を中心にして動いているように見えて父様がいなくなれば執務館は機能しないという感想を抱いた。でもそれは只の錯覚でしかなく、父様がいなくなっても執務館は正常に機能しているように見えた。父様ほどの人でもいなくなっても世界は正常に回り続ける。なら僕は?僕がいなくなっても世界は何の問題もなく回り続けるだろう。その事実に鋭い痛みを覚えた。

 「カート君」

 グラーフさんの声に慌てて立ち上がる。

 「お忙しいところ、すいません」

 「いや、別に構わないよ。それで私に用事っていうのは何かな?」

 「相談したいことがありまして……。二人でお話させてもらうことは出来ますか?」

 「分かった。エディ君、今空いている部屋はあるかな?」

 「七番の部屋が空いています」

 「ありがとう。じゃあ、七番の部屋に行こうか」

 グラーフさんの後に続いて七番の部屋に入っていく。

 七番の部屋は小さなテーブルと椅子が二つ置いてあるだけの小さな部屋だった。テーブルを挟んでグラーフさんと向かいあって座る。

 「それで相談したいことは何かな?」

 「モニュメントを作りたいと思いまして、その許可を頂きにきました」

 クリスにも見せた紙をグラーフさんに差し出す。手に取って視線を落とす。

 「何のモニュメントを作りたいんだい?」

 「今回の災厄で亡くなった人のモニュメントです」

 「デラシネ、エーテンダーは」視線を上げて無機質な声を紡いでいく。「街の公式な記録からは抹消される。つまり、この街ではデラシネ、エーテンダーの存在を示すモニュメントをつくることは許されない。フェニックス家の人間ならそのことは知っているはず」

 グラーフさんの視線が鋭さを増す。

 「街の定義は」臆することなく真っ直ぐに見つめ返す。「城壁内だと記憶しています。無名の墓の近くにモニュメントを作ろうと思っています。それならば問題はないはずです」

 大きく息を吐いて背もたれに体を預ける。

 「君は、ニルヴァーナを信じているかい?」

 「分かりません。ないとは言えません。ただあると断言することは出来ないと思っています」

 「血筋か。ドナルドさんは君にニルヴァーナについて何か言っていたかい?」

 「父様はニルヴァーナは現実を直視できない弱者の妄想に過ぎないと言っていました」

 「なるほどね。ニルヴァーナを信じていなかったから躊躇うことなく診療所の建設をすることが出来たのだろう。君は診療所の建設をどう思っていた?」

 「素晴らしい仕事だと思っていました」

 「多くの人が反対していたとしても?」

 「ハイ」

 「そうか……私は反対だった」

 「ニルヴァーナへの思いが揺らぐからですか?」

 「どうだろうな。その時は私は何か漠然と嫌な感じがするとしか思わなかった。多分、私はニルヴァーナを信じていなかったんだろう。でも、代わりにたるものがあるわけではなかった。診療所の建設は私の不安を直撃したんだと思う。だから、黒死の誘いが診療所から広まったいう噂が出回った時には私はどこかほっとしていたんだ。やっぱり診療所はあるべきではなかった。これで私の不安も消える、ってね。」自嘲気味な笑みを口の端に乗せてポツリと付け足す。「執務補佐官として最低の男だろ、私は」

 「いえ、何とも言えぬ不安っていうのは誰もが抱えていて、その不安が消えるかもしれないっていう喜びは大きいものだと思います。どんな状況であっても……」

 「君はまだ幼いのに大したものだな」

 「いえ、そんなことは……」

 「診療所は打ち壊されて私の不安は消えると思った。でも、消えなかった。そこへ今回の災厄だ。私の不安は消えるどころか強くなった……君は何で災厄で亡くなった人の記念碑を作ろうと思ったんだい?」

 「父様が亡くなった時、父様の存在は消されて母様からも父様のことは忘れなさいと言われました。でも忘れることなんて出来ないんです。僕は父様の息子であり、父様の思い出が今の僕をつくっているから。父様との思い出を忘れるということは今の自分を忘れるということ。体は変わらずあるかもしれないけど、それは自分を殺すことと等しいことのように感じられて……」

 「自ら命を絶つべきではないと教えているのにエーテンダーという存在は結果的にそれを強要していると」

 「ハイ。災厄が会った日、僕は一人の男に出会いました。男はニルヴァーナは代々長寿の家系であるフェニックス家が人々からの敬意を得るためのアイデアに過ぎないと言いました。例えそうだったとしても人々がニルヴァーナを受け入れて問題なく暮らしていけるのであれば、いいんじゃないかと思っていました。でも災厄があった日から街の様子を観察しているとニルヴァーナへの想いが揺らいでいるように見受けられました。多くの人を幸せにするならば、デラシネ、エーテンダーという存在をつくってニルヴァーナというアイデアを守る意味もあるのかもしれません。でも、多くの人を幸せにしないならばデラシネ、エーテンダーという存在をつくって守る意味があるのかと」

 「その一歩というわけですか」

 「ハイ。誰もが信じていたと思うんです。正しく暮らしていればニルヴァーナに行けると。でも黒死の誘い、今回の災厄がはっきりと示しました。そんな正しさはどこにもなくて、誰もがデラシネ、エーテンダーとなる可能性があると」

 腕を組んでじっと記念碑の図案が書かれた紙を見つめている。

 「分かった。許可しよう」

 「本当ですか?」

 思わず立ち上がっていた。

 「ハイ、今の揺らいでいるネヴァーマインドの街にはこの記念碑が必要だと思います。ただ一つだけ約束してください。必ず完成させると。この街を作ったフェニックス家の名前にかけて」

 「分かりました。フェニックス家の名前にかけて必ず完成させると約束します」

 「頑張ってください」

 差し出された手を力を力強く握る。

 「任せてください」


 次の日から一日一日が慌ただしく過ぎていった。石の切り出し、運搬、設置……どれも初めて行うことばかりで作業はゆっくりとしか進んでいかなかった。それでもクリスのアドバイスに従って着実に進めていった。並行して今回の災厄でデラシネとなってしまった人の調査を行った。遺族に亡くなった方の名前を知りたいと言うと最初は不審の目で見られたものの意図を説明すると喜んで名前を教えてくれて記念碑への許可もくれた。

 半年が過ぎた。石の設置が完了してデラシネとなった人に再び命を与える時が来た。名前を記載した紙を手に作業を開始しようとすると男の気配を感じる。視線を向けると神の声の代弁者が若い男を二人連れて立っていた。

 「記念碑など愚かなことです」

 「実に愚かなことです」

 代弁者が言葉を発すると若い男らが言葉を重ねる。立ち上がって代弁者と向き合う。

 「何が愚かだと言うんですか?」

 「その記念碑は石で人の手のわざである。それは語りかけてくることはない。道を示してくれることもない。愛を注いでくれることもない。すなわち、砂漠に水を与えるかのごとく無益な行為である」

 「無益な行為である」

 「別にこの記念碑から何かを与えて欲しいわけじゃありません。ただ確かめたいだけです」

 「確かめる?何を確かめると言うんですか?」

 「自分という存在です」胸に手をあてて言葉を続ける。「代々受け継がれてきたものがあって今の自分がある。誰が何を言おうと、どんなことが起ころうとそれは変わりません。それを確かめたいんです」

 「馬鹿げたことを」

 「馬鹿げたことを」

 「神の声を聞いたことがありますか?」

 「もちろんあるに……」

 「貴方じゃありません」代弁者ではなく、背後の男らに問いかける。「貴方たちは神の声を聞いたことがありますか?」

 「……」

 「神が語りかけてきたことはありますか?道を示してくれたことがありますか?愛を注いでくれたことがありますか?」

 「この者らは」代弁者が力強い声を発する。「まだ日が浅いからそのような経験がないのです。神を信じ続けていれば必ず神は応えてくださいります」

 「いつですか?」

 「何?」

 「どのくらい信じ続ければ神は応えてくれるのですか?」

 「こ、個人差があるから一概に言うことは出来ぬ」

 「そうですか」再び男らに問いかける。「多分ですが、貴方たちはあの災厄からこの人が言う神を信じるようになったんだと思います。その日から半年が経過しました。その一年は貴方たちを幸せにしましたか?」

 「そ、それは……」

 男らに動揺が広がっていく。

 「周りとの関係が強くなることによって自分という存在を強く、重くすることが出来る。周りの人との関係があってその人はその人たることが出来る。それが黒死の誘い、今回の災厄で僕が学んだことです。神を信じて、この人に付いていって周りの人たちとの関係はどうなりましたか?自分という存在は強くなりましたか?重くなりましたか?」

 男らがじっと代弁者を見つめる。その視線に気付いた代弁者が狼狽の声をあげる。

 「お、お前ら……」

 「そのような行為を後何年続けるつもりですか?」

 深く深く息を吐いて男らが代弁者に頭を下げる。

 「今までありがとうございました。そして、失礼します」

 頭を上げると男らは代弁者から去っていった。

 「ま、待ってくれ」

 追いすがるように代弁者は男らを追いかけていく。神が死んだ、か。そう呟いて作業を開始した。


 「記念碑など無駄なことです」石材に亡くなった人の名前を彫っていると年老いた男が話しかけてくる。「何を作ろうが、何を築こうが全ては虚無に帰っていく。それこそがこの世界の唯一つの真実だ」

 「貴方、ですか」手を止め、立ち上がって男と向き合う。「貴方とはもう一度話したいと思っていました」

 「ほう、何をですか?」

 「虚無についてです。貴方は言いました。ヒトは意味も目的もなく虚無から生まれ、虚無へと帰っていく、と」

 「そうです。ニルヴァーナもデラシネもエーテンダーも神もヒトが創り出した虚構に過ぎず、虚無こそがこの世界で唯一の真実です」

 「始めと終わりが虚無だとして、その過程はどうですか?」

 「過程?」

 「そうです。始めと終わりが虚無だとしても、その過程が虚無だと、意味も目的もないと何故言えるんですか?」

 「何を詭弁を。始まりと終わりが虚無ならその過程も当然虚無に決まっているでしょう」

 「ヒトの生に必ず意味や目的があるとは僕も思っていません。何もしなければ意味も目的もないまま虚無へと帰っていくだけなのかもしれません。ただヒトは意味や目的をつくることが出来る。僕はそう思っています」

 「なるほど」男が口の端を吊り上がらせる。「よくみる反応です。そうあることとそうあってほしいことを混合して考えてしまうことは。それは貴方の願望に過ぎず真実ではありません。貴方は間違って認識しているだけです」

 「認識の問題だと言うのなら、貴方の言う虚無も認識の一つに過ぎないんじゃないですか?」

 「なるほど、なるほど。確かに認識を持ち出せば虚無も認識に過ぎないと言うことができます。では、この話しはどうでしょう。貴方もよく知っている一人の男の話しです」

 余裕の笑みを浮かべ、両手を広げて話しを続ける。

 「その男は領主を歴任している家系に生まれ、大きくなったら領主になることが決まっていました。男は世間で信じられている教えを信じておらず、具体的な目標こそがヒトの人生に意味と目的を与えてくれると信じて街の発展に尽くしました。男の部下だった男は領主の言葉を信じ、領主と同じように人生を賭けて街の発展に尽くしました。男らの努力の甲斐あって街は発展をとげ、人々の満足気な表情をみることで男らの全身にも喜びや誇りが満たしました。でも、その日々は長くは続かずに一瞬にして崩れ去りました。男らが費やしてきた長い年月などなかったかのように……」

 黒死の誘い、絶望に支配される父様、そして死。決して忘れることの出来ない日々が頭の中を駆け巡る。

 「男らは人生に意味や目的を与えることが出来ると信じ、そして裏切られた。一人の男はエーテンダーとなり、もう一人の男は全てを捨てて逃げ出した。貴方はこれでも人生に意味や目的があると言うことが出来ますか?」

 人は望む。消え去れないものを、変わらないものを、揺るぎないものを。そして求める。それらの願望を具現化したアイデアを。ジョン・フェニックスはニルヴァーナを、ドナルド・フェニックスはネヴァーマインドの街を、若い男は神を、年老いた男は虚無を……。何と呼ぼうとそれはヒトの”欲望”を映した鏡に過ぎないのかもしれない。

 「出来ます」

 「……何故、ですか?」

 「確かに黒死の誘い以降は父様には意味や目的はなかったかもしれません。でも、それより、前には確実にあったはずです。すぐ傍で見ていた僕にはハッキリと感じることが出来ました。そして、貴方にもあったはずです」

 「あったとしても、結局は消えてなくなってしまった」

 「クリムゾン・ノーブルはご存じですか?」

 「街外れの大きな館に住んでいる不老不死と呼ばれる種族……それがどうしましたか?」

 「僕はふとした縁でクリムゾン・ノーブルと話しをさせてもらう機会があったのですが、彼女は生まれた時から今の姿のままで変わることがないそうです。変わらないクリムゾン・ノーブルと変わるヒト。変わることを義務付けられているヒトにとって消え去れないもの、変わらないもの、揺るぎないものを望むことは出来ない。出来なくても生きていかなければいけない」

 「……何故、生きていかなければいけないんですか?」

 「何故でしょうね。多分、これまで生きてきたからじゃないですか?虚無から生まれたんだとしても、周りの人と共に”自分”というものを築きあげてきたからこそ生きなきゃいけないんじゃないですか?」

 「そう、なんでしょうね」深く深く息を吐き出す。「この記念碑は今回の災厄で亡くなった人のためと言いましたね?」

 「ハイ、そのつもりです」

 「今回の災厄以外でデラシネとなった人の名を刻んでもらうことは可能ですか?

 「遺族が望むならば……」

 「では、『ジム・モリソン』と刻んでくれますか?あの子がこの世にいたことを残すために」

 「分かりました」

 「お願い、します」

 男をそう言って去っていこうとする。

 「どこへ?」

 「分かりません。ただもう一度私の身に起こったことをもう一度考え直してみたいと思います。そして、新しい”何か”を見つけられることを願っています。貴方のように……」

 「幸運を、お祈りします」

 「ありがとう、ございます」

 一礼し、確かな足取りで男は去っていた。


 記念碑を作ると決めてから一年が経ち、ついに記念碑が完成した。刻まれた人の名は七五〇二人。最初に記念碑を見せる相手は決まっていた。

 「すごーい。これ、カートさんが一人で作ったの?」

 規則正しく並んだ記念碑を前にしてユーリちゃんが驚きの声を上げる。

 「友だちに手伝ってもらいながらだけどね」

 一番近くにあった記念碑へと走っていき、刻まれた名前へと目を走らせていく。

 「すっごい、たくさんのお名前。どれくらいの人の名前があるの?」

 「ここには全部で七五〇二人の名前がある」

 「……あの災厄でそんなにもたくさんの人がいなくなっちゃったんだね」

 「……そうだね」ユーリちゃんの手を取る。「コートンちゃんの名前がある記念碑はこっちだよ」

 ユーリちゃんをコートンちゃんの名前が彫られた記念碑の前に連れていく。

 「コートン・ラブ」ユーリちゃんが小さな手で彫られた名をなぞっていく。「コートンちゃんはこの世界に確かにいたんだよね」

 「そうだよ」

 「この記念碑があれば、この記念碑の前に来ればみんなコートンちゃんのことを忘れたくない人はいつでも思い出せることが出来るんだよね」

 「そうだよ」

 「みんなコートンちゃんのことを忘れなさいって言ってたけど、アタシ……コートンちゃんのことを忘れなくていいんだよね?」

 「もちろん」自分に言いきかせるように力強く告げる。「忘れたくないなら忘れる必要なんてない。きっとその思い出はこれからのユーリちゃんを支えてくれると思うから」

 「うん、そうだよね。私、絶対コートンちゃんのこをと忘れない」

 ユーリちゃんが屈んで手に持っていた花をコートンちゃんの名前が刻まれた記念碑に捧げ、目を瞑って祈りを捧げている。コートンちゃんに話しかけているんだろうか?黙って様子を見守る。会話が終わったのか立ち上がってこちらを向く。

 「ありがとう、カートさん。コートンちゃんが急に私の目の前からいなくなっちゃってずっとその事とどう向き合っていけばいいのか分からなかったけど、この記念碑のおかげでうまく向き合っていけそうな気がする」

 ずっと母様にやめなさいと言われ続けた。街の人々からは余計なことをするなと石を投げつけられたこともあった。記念碑をつくることで味わった全ての苦労がその一言で報われた気がした。

 「どういたしまして。この記念碑がユーリちゃんのためになったのなら僕も嬉しい」

 「あっ、そうだ。お母さんの友だちで子供を亡くしちゃった人がいるんだけど、この記念碑が完成したこと伝えに行ってもいい?きっと喜ぶと思う」

 「もちろん!」

 「ありがとう。早速伝えてくるね」

 そう言うと勢いよく駆け出していく。あまりの行動の速さに呆気に取られるも自然と笑みがこぼれる。これからユーリちゃんと同じように急に大切な人を失ってしまった人がその真実と向き合えるようになれるように、この記念碑がその手伝いが出来るならばこんなに嬉しいことはない。父様も診療所を建てた時はこんな気持ちだったのかな?

 さて、じゃあ僕も事実を向き合いにいくかな。


 『ドナルド・フェニックス』

 最後に刻まれた名前を指でなぞる。

 あの日から、父様が自ら死を選び、エーテンダーとなってしまった日から僕の人生は一変した。未来の領主というアイデンティティは失われ、街の人々からは避けられるようになり、消えてしまったかのような気持ちを味わった。それでもノーブルさんと出会って少しずつ新しい自分をつくっていくことが出来るようになった。

 「ねえ、父様。どうして父様は自ら死を選んだの?」

 記念碑に語りかけるも答える声はない。ネヴァーマインドの街の発展を人生の目的としたが、黒死の誘いで頓挫したから?多くの反対を押し切って建設した診療所から黒死の誘いが広まっていったから?いくつか推測できることはあったけど、確かなことは分からなかった。でも、自信を持って言えることがある、父様は僕たちのことを捨てたわけじゃないし、死にたかったわけでもない。ただそうせざるえなかったんだろうと。

 「父様」父様の名前に手を置いて父様に話しかける。「僕は父様のことを忘れない。これから先どういう道を選ぶのかは分からないけど、父様の言葉を、父様との思い出を胸に歩き続けるよ。だって僕は、父様の、ドナルド・フェニックスの息子、カート・フェニックスだから」

 涙が頬を伝う。父様を失って初めて、父様を想って流した涙だった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る