60 どれほど詫びても許してもらえないとわかっている


「きみが水垢離みずごりが嫌だと言っていたのは……。聖女であることを隠していたのは、水が怖いからだったんだろう……?」


 今にも気絶しそうなくらい、くらくらしている私の耳に、レイシェルト様の静かな声が届く。


「は、い……」


 そんなことで、と呆れられるだろうかと思いながら頷くと。


「許してくれ……っ!」


 レイシェルト様の腕にさらに力がこもる。


「すまない……。どれほど詫びても許してもらえないとわかっている。それでも……っ」


 低く苦い声でレイシェルト様が謝罪を紡ぐ。


 けれど、レイシェルト様に謝られる理由が思い浮かばない。

 謝るというのなら、むしろ私が……。


「あの……? どうしてレイシェルト様が謝られるのです……? 私に呆れ果ててらっしゃるんじゃ……?」


「呆れるというのなら、きみがわたしにだろう!?」


 レイシェルト様の声がひび割れる。


「きみの事情も聞かずに、勝手な理想を押しつけて……っ! 呆れ果て、軽蔑されるというのならわたしのほうだ!」


 まるで今すぐ己を叩き斬りたいとばかりに面輪が歪む。


「な、何をおっしゃるんですか!? レイシェルト様のことを軽蔑するなんて……っ! そんなことありえませんっ!」


 レイシェルト様は、私のたった一人の推し様なんですからっ!


 きっぱりと言い切った私に、レイシェルト様が「本当に……?」と、不安げに首をかしげる。


「泣かせてしまったきみにどんな顔をすればいいのかわからなくて、でも、気がつけばきみを目で追いそうになって、必死に見ないようにして……。そんな臆病者なわたしだというのに……?」


 ちょっ!? 何ですかその捨てられた子犬みたいな表情はっ!? 私を萌え死にさせる気ですかっ!?


 無理! 尊いっ! 脳が融けるぅ~っ!


「本当です……っ! レイシェルト様に呆れるなんて、決して……っ!」


 だめだ。感情がたかぶりすぎて、哀しくないのにまた涙があふれそうになる。


「お願いだから泣かないでくれ……。もう二度と、わたしのせいできみを哀しませたくない」


 レイシェルト様の大きな手のひらが私の頬を包み込む。


 覗き込んだ瞳はいつもと同じ、晴天を映したような碧色で、それだけで嬉しさに涙があふれそうになる。


 骨ばった指先が、優しく私の頬の涙をぬぐう。


傲慢ごうまんな願いだとわかっている。それでも……。まだ、きみのそばにいることを許してくれるかい?」


「も、もちろんです……っ!」


 考えるより早く、こくんと頷く。


「レイシェルト様ともう一度、言葉を交わせるようになれただけで、嬉しいです……っ」


「エリシア……っ!」


 碧い瞳をみはったレイシェルト様が、とろけるような笑みを浮かべる。


 はわっ! レイシェルト様の笑みを見ているだけで、尊さで気絶しちゃいそうです……っ!


「いったい、どれほど言葉を尽くせば、きみにこの気持ちを伝えられるのか……。ありがとう、エリシア」


「えっ? あの……っ? 私、何も……っ」


「何も?」


 わけがわからず戸惑った声を上げた私に、レイシェルト様がくすくすと笑みをこぼす。


「きみのおかげで、絶望の淵から戻れたというのに、まだそんなことを言うのかい?」


「え……?」


 とても大切なことを言われているはずなのに、頭がくらくらして内容が理解できない。


 待って。ちょっと待って。


 レイシェルト様のご尊顔が近すぎて、とろけるような笑顔が麗しすぎて、囁くお声が甘すぎて……っ!


 待って。無理。これ、私の心臓にとどめを刺しに来てませんっ!?


「エリシア……」


 宝物のように名前を呼んだレイシェルト様の面輪が、ゆっくりと近づく。


 吐息がふれそうなほど大写しになったところで。


「おいこらレイシェルト! てめぇっ、ふざけんなっ! 誰の暴走のせいでこんなことになったと思ってやがる!? 先にちゃんと責任を取れっ!」


 雷鳴のようなジェイスさんの罵声が響く。レイシェルト様がはっと我に返ったように動きを止めた。


 そうだ。黒い靄を立ち昇らせていたのはレイシェルト様だけじゃない。そちらだって祓わなくては。


「あのっ、私も一緒に……っ」


 身を離そうとするレイシェルト様に告げると、驚いたように目をみはったレイシェルト様が、次いで、甘やかに微笑んだ。


「ありがとう、エリシア。嬉しいよ。けれど、きみが安全なところにいてくれないと、心配でそれどころではなくなるから……。きみの力が必要になるまでは、どうか、安全な場所にいてほしい。……ジェイス。頼めるだろうか?」


「誰がてめぇの頼みなんか……。と言いたいところだが、今回だけはエリのために引き受けてやる」


 すぐ後ろでジェイスさんの声がする。


「ありがとう、感謝する。エリシア、少し待っていてくれ。すぐに片づけてくる」


「あ……っ」


 私が止めるより早く、レイシェルト様が身を翻してまだ混乱が収まっていない貴族達の中へと駆けていく。


 何度も戦ってつらいはずなのに、大丈夫だろうかと心配しながらレイシェルト様の背中を見つめる私の隣で。


「……ったく。これじゃあ、決勝戦はないだろうな……。くそ、せっかくレイシェルトの野郎を叩きのめしてやろうって思ってたのによ……」


 ジェイスさんが低い声で呟き、はあぁっ、と嘆息するのが聞こえた。


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