59 水は嫌なの……っ!


 湖の中へ引き込まれたのだと理解した瞬間。


「嫌……っ!」


 抑えきれない悲鳴がほとばしる。

 嫌っ! 水は嫌……っ!


「いやっ、怖い……っ!」


「何が……っ!?」


 短剣を突きつけられているにも関わらず、突然、半狂乱になって暴れ出した私に、ロブセルさんの腕がわずかに緩む。


 レイシェルト様達が弾かれたように動いた。


「エリシア!」


 一気に距離を詰めたレイシェルト様が、短剣と私の間に腕を差し込むようにして、ロブセルさんの腕を引きはがす。


 同時に、駆け寄ったジェイスさんがロブセルさんを殴り飛ばした。


 ばしゃんっ! と背後で立った大きな水音に、いっそう恐怖が湧き起こる。


「嫌っ! 嫌なのっ! やだっ、怖い……っ!」


 涙が勝手にあふれ出し、頬を伝い落ちる。


「エリシア! もう大丈夫だ!」


 レイシェルト様がぎゅっと私を抱き寄せる。

 けれど、その声は耳には届かない。


 ドレスが水を吸って冷たくて重くて。足に絡みつく布地は、私を捕らえて水底へ引きずり込もうとしているようで。


「やだっ! 水は嫌なの……っ!」


「水……?」


 幼子のように泣きじゃくる私を、不意にレイシェルト様が横抱きに抱き上げる。


「大丈夫だ。ほら、もう水の中じゃない」


 私を抱き上げたレイシェルト様が、足早に岸辺へと上がる。


「大丈夫だ。大丈夫だよ、エリシア」


 心を融かすような優しい声。

 しっかりと私を抱き寄せる腕は、この上なく頼もしい。


「みずの、なかじゃ……、ない……?」


 ひっく、としゃっくりを上げ、たどたどしくこぼした呟きに、「ああ」と頼もしい返事が返ってくる。


「大丈夫だ。ほら、ちゃんと息ができるだろう?」


「い、き……」


 涙声で呟きながら、呼吸に意識を向けてみる。


 苦しくない。それに冷たくもない。


 代わりに、かすかに揺蕩たゆたうのは、何度もかいだことのある高貴な薫りと、ほのかな汗の匂いで……。


 同時に、今の状況に気づく。


「レ、レレレレ……っ!?」

「落ち着いたかい?」


 ぎゅと私を抱きしめたまま、レイシェルト様がほっと安堵の息を洩らす。


 けど、私は落ち着くどころか、別の混乱に叩き込まれていた。


 え? 待って? ちょっと待って。

 レイシェルト様が私をお姫様抱っこしてて、端正な面輪がびっくりするほど近くにあって……。え?


「だ、大丈夫です! お、下ろしてくださいっ!」


 足をばたつかせようとし、びっしょりと濡れたスカートにはばまれる。が、その程度では落ち着けない。


「あ、あのっ、本当に大丈夫ですから……っ」


 なおも足をばたつかせて懇願すると、仕方がなさそうにレイシェルト様が下ろしてくださった。


 地面に足をつけたものの、よろめきそうになる私を、レイシェルトが頼もしい腕で支えてくださる。


「す、すみませ……っ」


 混乱にぐるぐると思考が回る私の耳に、レイシェルトの静かな声が届く。


「エリシア。もしや、きみは……。水が苦手なのか……?」


「っ!」


 ためらいがちに発された問いに、反射的に肩が跳ねる。


 話すべきことじゃない。わかっているはずなのに、勝手に口は言葉を紡いでいた。


「……む、昔……。溺れて死ん……、いえ、死にかけて……」


「っ!?」

 レイシェルト様が飲んだ呼気が鋭く響く。かと思うと。


「すまなかった……っ!」


「ひゃっ!?」

 息が詰まるほど強く抱きしめられる。硬い鎧が頬に押しつけられた。


「あ、あの……っ!?」


 無理! 無理だからこれっ!

 いま私レイシェルト様にぎゅって、だ、だだだだ……っ!


 だめっ! 考えちゃだめっ! 理解したら爆発四散して昇天するっ!


 いったい何が起こってるかわからない。


 レイシェルト様に軽蔑されて、距離を置かれてるハズなのに……!? どこをどう間違えたらこんな展開になるワケ!?


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