58 まだ望みは断たれていないっ!


「え……っ?」


 何が起こったのかわからず、呆けた声を上げた途端。


「エリシア……っ!」

 ぎゅっと強く抱きしめられる。


「エリシア、ありがとう……っ! きみにそんな風に想ってもらえていたなんて……っ!」


「えっ、えぇ……っ!?」


 わ、私……っ! さっき何を叫んでたっけ!? なんか思いっきりレイシェルト様への推しを語った気が……っ!?


 っていうかレイシェルト様っ! 正気に戻られたんですかっ!?


 いやでもこの距離感は……っ!? あのっ、近いです! 近すぎますっ! もしや、まだ混乱中なのではっ!?


「あ、あの……っ!?」


 そうだ。忘れちゃいけない。さっきは無我夢中ですがりついちゃったけど、私はレイシェルト様に軽蔑されてる大罪人で……っ!


 こんな近くにいていい存在じゃ、ない。


 身動みじろぎすると、レイシェルト様がぱっと腕をほどいた。


「す、すまない……っ」


 急に放され、思わずよろめいたところを、後ろから伸びてきた腕に捕まえられる。


「嘘だ……っ! 正気に戻っただと!? そんなハズはない……っ!?」


 狂乱に満ちた声を上げたロブセルさんが、後ろから私の腰に腕を回し無理やり引き寄せる。


「ロブセル!?」


 駆け寄ろうとしたレイシェルト様が、凍りついたように動きを止める。


 私の眼前には、ロブセルさんがもう片方の手で引き抜いた短剣が突きつけられていた。


「まだだ……っ! まだ邪神ディアブルガ様復活の望みは断たれていないっ!」


 ロブセルさんが目の前のレイシェルト様を否定するかのように、ひび割れた叫びを上げる。


「邪神復活だと!? ロブセル! セレイア嬢をそそのかして、わたしに澱みを飲ませたのはお前の仕業か!?」


 レイシェルト様の詰問に、ロブセルが低く喉を鳴らす。


「ええ、そうですよ。セレイア様には本当に感謝しかありません。殿下には今までもずっと、折を見て澱みを飲んでいただいていたのですが、まったく芽吹く様子がなく……。けれど、ついに、勇者の血を凌駕りょうがするほどの高濃度の澱みを与えられたと思ったというのに……っ!」


 話すうちに、ロブセルさんの声がひび割れ、歪んでいく。


「なぜだっ!? なぜ正気に戻った!? 確かに澱みを飲んで、魂まで闇に染まったはずだろう!?」


 ロブセルさんは、私が破邪の聖女の力を持っていると知らない。会うたびにレイシェルト様に黒い靄がまとわりついていたのは、きっとロブセルさんがレイシェルト様に澱みを盛っていたせいだろう。


 それを私が祓っていたのだと知られたら、どんな目に遭わされるか。


 たがが外れたようなロブセルさんの声と、目の前でちらつく短剣が恐ろしくて仕方がない。身体がかたかたと震え出す。


「勇者の血が澱みなんかに負けるわけがねぇだろうがっ! 悪あがきはやめて、さっさとエリシアを放しやがれっ!」


 剣を構えたジェイスさんが大声を張り上げる。


 一瞬、ジェイスさんの意識が逸れた隙に、レイシェルト様が距離を詰めようとするが。


「この短剣が見えませんか?」


 ジェイスさんがちらつかせた刃に動きを止める。


「ロブセル! エリシアを放せ! 今さら人質を取ったところで、邪教徒達の思い通りになぞさせん! 無駄な抵抗はやめろ!」


 レイシェルト様のまなざしは矢のように鋭い。もし、視線が矢と化していたら、今頃、ロブセルさんは針山のようになっているだろう。


「無駄?」


 ロブセルさんが嘲りの声を上げる。


「まだだ! まだ悲願は達成できる! 何のためにわたしがわざわざエリシア様を人質にしたと思うのです?」


「え……?」


 まさか、私を狙って人質にしたとでもいうのだろうか。

 横目でロブセルさんをうかがった私の目が、歪んだ笑みを捉える。


「まだ澱みは殿下の身体の中に残っているはず。ならば……。心を染め尽くすほどの絶望を与えればいいだけ。無明の闇に堕ちた勇者の心臓を捧げれば……。きっと邪神ディアブルガ様も復活なさるに違いありません!」


「やめろっ! わたしを闇に染めたいのなら、わたし自身を狙えばいい! エリシアには手を出すなっ!」


 悲痛極まりないレイシェルト様の叫びに、己の優位を確信したロブセルさんが心底楽しげな声で笑う。


「お断りします。殿下自身を傷つけるよりもエリシア様を傷つけたほうが、殿下には効果的でしょう? 邪悪の娘の絶望も手に入って一石二鳥です」


下衆げすが……っ!」


 低い声で呟き、思わずといった様子で一歩踏み出したジェイスさんを、「動くな!」とロブセルさんが鋭く制止する。


「エランド男爵も剣を捨ててもらいましょうか。……ひと思いに殺すだけが絶望を与える手段ではないのですよ? エリシア様の愛らしいお顔に、一生残る傷などつけたくないでしょう?」


「ひ……っ」


 頬にふれた刃の冷たさに悲鳴がこぼれる。


「貴様……っ!」


 レイシェルト様の碧い瞳が燃える。洩らした声は、こらえきれぬ怒りを宿して、地をうように低い。


「エリシアに傷ひとつでもつけてみろ。死ぬよりつらい罰を与えてやる……っ!」


「っ」

 気圧けおされたロブセルさんが息を飲む。


「お、脅しても無駄ですよ。エリシア様がわたしの手のうちにある限り、手出しはできないでしょう?」


 身体に走った震えをごまかすかのように唇を吊り上げたロブセルさんを、剣を捨てたジェイスさんが睨みつける。


「ああ。だがな、エリに髪の毛ひとすじでも傷をつけてみろ。その瞬間、生まれてきたことを後悔させてやるぜ……っ!」


 レイシェルト様とジェイスさんが放つ圧に押されたように、じり、とロブセルさんが後ずさる。捕まえられている私も一緒に下がるほかない。


 人質を取って、優位に立っているのはロブセルさんのはずなのに、今や明らかにレイシェルト様達に押されている。


 じりじりと一定の距離を保ったまま、どんどん岸辺へと追い詰められ……。


 不意に、ざぶりと波が足を洗う。


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