57 推し様に望むものはたったひとつだけ


 どんどんあふれてくる黒い靄は、レイシェルト様の全身を覆い隠し、辺りまで飲み込もうとするかのようだ。


「逃げ、ろ……っ!」


 すがりつく私をレイシェルト様が振りほどこうとする。苦しげにすがめられた瞳は、闇に染め上げられたかのように黒い。


「嫌……っ、嫌ですっ!」


 離れてなるものかとかぶりを振った私の頬から涙が散る。泣いている場合ではないのに、己の無力さが情けなくて、涙があふれて止まらない。


 泣きながら、必死で靄を祓い続ける。


 いま誰よりも苦しんでいるのはレイシェルト様だ。そんなレイシェルト様を放っておけるわけなんかない。


 私の泣き顔を見たレイシェルト様の面輪がますます苦しげに歪む。


「お願いだ……っ。もう二度と、きみを傷つけたくなんかない……っ!」


 まるで泣いているような声。


 何か……。どうにかしてレイシェルト様の心の闇を祓わなきゃ。

 胸の奥から湧き上がる絶望を吹き飛ばせるくらいの想いをレイシェルト様に……っ!


 そう思うのに、焦れば焦るほど何も考えが浮かばない。


 祓っても祓っても、黒い靄が噴き出してくる。


「どう、して……っ! どうして祓えないの……っ!」


 自分の無力さにぼろぼろと涙があふれ出る。


 レイシェルト様が苦しんでいる時に助けられないなんて、何のための聖女の力か。私が身代わりになれるのならば、いくらでも代わるのに……っ!


「エリシア、お願いだ……っ」


 離れようとしない私に、レイシェルト様が困り果てた声を出す。


 身体の中からあふれ出す衝動を抑えるかのようにきつく眉を寄せた表情は、見ている私の胸まで痛くなる。


「もう、正気を保っていられそうにないんだ……っ。頼むから、逃げてくれ……っ」


 震えるレイシェルト様の手が、私の両肩を掴み、力づくで引きはがそうとする。


「お願いだから……っ。恋しい人を、もう二度と傷つけさせないでくれ……っ」


 胸を貫くような切ない叫び。


 違う。私が見たいのはこんなつらそうなお顔をしたレイシェルト様じゃない。


 推し様に望むものはたったひとつだけ。

 どうか、健やかでお幸せな姿を――っ!


「わ、私だって……っ!」


 心の中で渦巻く想いが口をついて出る。


 レイシェルト様は私のただひとりの――っ!


「私だって、好きな人が苦しんでるのを見過ごすなんてできませんっ!」


 叫んだ瞬間、レイシェルト様が目をみはる。

 かまわず、あふれ出す想いの勢いのままに言い募る。


「レイシェルト様は私の最推しなんですからっ! レイシェルト様が健やかでお幸せにいてくださってこそ、私だって幸せでいられるんですからっ! だから、だから……っ!」


 自分でも何を言っているのかわからない。


 けれど、ただただレイシェルト様の心の闇を晴らしたくて。


「好きな方が苦しんでるのに、離れろなんて哀しいこと言わないでくださいっ! 私……っ、ずっとレイシェルト様のおそばにいさせてくれなきゃ、生きていけませんっ!」


 だからお願いですっ、元のレイシェルト様に戻ってくださいっ! 


 邪教徒達の思い通りになんかならないで――っ!


「お願いっ、消えて……っ!」


 レイシェルト様を助けられるのなら、もう二度と聖女の力を使えなくなってもかまわない。


 だから光神アルスデウス様、どうかレイシェルト様を……っ!


 ありったけの想いを込めて黒い靄を祓う。



 瞬間、あれだけ強固だった黒い靄が、呆気あっけないほど簡単に霧散した。



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