51 湖のほとりにて


 ふだんは人の姿などなく、鹿やうさぎ、鳥達が憩う場であろうリーシェンデル湖の岸辺には、神前試合に出場する騎士達や、観戦する貴族とおつきの従者達が詰めかけていた。


 神前試合に出場する騎士達の金属鎧が、よく晴れた晩秋の爽やかな陽光を跳ね返してきらめいている。


 岸辺近くに立つ神殿はさほど大きくはないが、歴史を感じさせる古めかしい彫刻や佇まいは、見ているだけで自然と敬虔けいけんな気持ちが湧きおこる。


 神殿の前は一か所だけ、円形に綺麗に草が引き抜かれ、色鮮やかなリボンがつけられた杭が立てられている。ここが光神アルスデウスに捧げる神前試合が行われる闘技場となる。


 闘技場の周りには貴族達の観覧用の色とりどりの天幕も張られ、きらびやかに着飾った貴族や令嬢達が優雅に笑いさざめいていた。


 尚武の気風が強いアルスデウス王国においては、武芸の強さは十分に出世の理由となる。


 あらかじめ行われた選抜試合には爵位を持たない平民も混じっていたはずだ。剣の腕で身を立てようとする者にとっては、今日は年に一度の大チャンスだ。出場する騎士達の顔は、戦意と緊張に引き締まっている。


 一方、令嬢達にとっては、お目当ての騎士にはばかることなく声援を送れる日であり、娘を持つ貴族達にとっては、婿むこ候補を見定める機会のひとつでもある。


 会場が祭りの日のような浮き立った空気に包まれているのは、そのためだろう。


 レイシェルト様やジェイスさんが参加し、セレイアが祈りを捧げる神前試合。


 本当は、神前試合に参列する気なんて、欠片もなかった。


 レイシェルト様が私にお声をかけてくださる事態なんて、もう決してないとわかっているものの、いったいどんな顔で参列すればいいというのか。


 愚かなファンのせいで、推し様のご尊顔を曇らせてしまうなんて……っ! そんな大罪、万死に値する……っ!


 だが、誘拐事件の三日後に王妃様より手紙をいただいたのだ。そこには、さぞ恐ろしかったでしょうと私をいたわってくださるあたたかなお見舞いのお言葉と、顔を見て安心したいので、神前試合ではぜひ一緒に観戦しましょうという要望がつづられていた。


 推し仲間でもある王妃様直々のお誘いとなれば、断るわけにはいかない。


 念のため、ジェイスさんにも相談したが、


「おいエリ……。お前、いつの間に王妃様とも親しくなってたんだ……? 王妃様から警備隊へ直々に指示があったぞ。当日はエリをしっかり守れと……」


 と、ひどく驚かれてしまった。


「王妃様のお誘いなら仕方がねぇ。大丈夫だ。衆人環視の中で誘拐なんざ起こさせねぇよ」


 と背中を押してもらい、観戦を決めたのだけれど。



 馬車を下りた途端、貴族達の視線が集中する。


 まなざしに宿るのは、隠そうともしない侮蔑と嫌悪だ。


「なんと忌々しい……。邪悪の娘が神前試合に参列するとは。身の程を知れ」


「ねぇ、ご存じ? サランレッド公爵様が邪教徒達にさらわれたという事件……。あれは、邪悪の娘が手引きしたらしいとか……」


「父親を邪教徒どもに売ったのか!? あの娘こそ、警備隊に引き渡されるべきだろう!? 今からでも誰か突き出してきたらどうだ?」


「誰が汚らわしい邪悪の娘などに関わりたいものか! 見ているだけでむかむかしてくる」


 聞こえよがしの罵声が聞こえる。

 貴族達の顔すら隠すほど周りに漂うのは黒い靄だ。


 私は表情を変えないよう、ぎゅっと唇を引き結ぶ。


 もし涙を流したりすれば、「邪悪の娘が同情を買おうとしている」と、新たな軽蔑を招くだろう。


 心を無にして、浅く呼吸を繰り返す。


 大丈夫、何ともない。邪教徒達に攫われた時の恐怖に比べたら、貴族達の侮蔑の言葉なんて、大したことはない。


 それに私には――。


 身体に染みついた習慣に何の疑問も持たずに従い、レイシェルト様のお姿を探す。

 いつだって、私の心に明かりを灯してくださる推し様。


 ああ……っ! 白銀の鎧を陽光にきらめかせ、剣をき、小脇に兜を抱えられたお姿のなんと神々しいこと……っ!


 邪神を倒したいにしえの勇者がご降臨なさったと言われても信じちゃいます……っ!


 端正な面輪を引き締め、周りの貴族達から少し距離をおいて一人立つレイシェルト様を見つめる。


 大切な神前試合の前だからだろうか。ぴんと張りつめた空気を纏ったレイシェルト様は、見惚れずにはいられないほど凛々しくて。


 と、レイシェルト様がこちらを振り返った。周りの令嬢達から、思わずと言った様子で黄色い声が上がる。


 碧い瞳が何かを探すように巡らされ――。


 目が合った瞬間、ぱっと顔を背けられた。

 まるで、目に入れたくない汚物をうっかり見てしまったかのように。


 ずくり、と刃で貫かれたように胸が痛む。


 一瞬で全身から血の気が引き、くずおれそうになるのをなんとか持ちこたえる。


 そうだ。忘れちゃいけない。

 レイシェルト様にとって私は大罪人で、視界に入れることすら嫌悪する存在で……。


 どうしようもなく、胸が痛い。


 もし心からも血が出るのなら、出血多量で生きていられなかっただろう。


 己の愚かさに泣きたくなる。


 どうして、レイシェルト様と親しくなってしまったんだろう。

 一生、話す機会なんてなくてもいいから、遠くからお姿を拝見するだけで満足していればよかった。


 そうすれば、こんな喪失感や痛みを味わうことも、何より、推し様にあれほどつらそうなお顔をさせることもなかったのに……。


 指一本動かせず立ち尽くす私の耳に、令嬢達の囁き声が聞こえてくる。


「さすがレイシェルト様でいらっしゃるわ! あの冷ややかなまなざし! レイシェルト様が邪悪の娘と親しくなさっているという噂を聞いた時は、心臓が潰れるかと思ったけれど……。ちゃんと邪悪の娘の企みを見抜いてらしゃるのね! ああ、いい気味だこと」


「きっとあの噂は嘘だったのよ。レイシェルト様が邪悪の娘などにご執心だなんて……。そんなこと、あるはずがないもの」


「ひょっとしてその噂、邪悪の娘自身が流したんじゃなくって?」


「まあっ! なんて身の程知らずな!」


 うつむき、令嬢達から流れ出す黒い靄を見ないようにしていると。


「嫌ですこと。こんなに清々しい晴天だというのに、穏やかな小鳥のさえずりではなく、悪意に満ちてかしましい烏のしわがれ声が聞こえてくるなんて。――不愉快極まりないですわ」


 独り言めいてこぼされた王妃様の呟きが、令嬢達の口を縫い留める。


 あわててこうべを垂れた貴族達の間から姿を現したのは、白を基調とした品のよいドレスに身を包んだ王妃様だった。隣にはティアルト様のお姿も見える。


「エリシア嬢。わたくしの誘いに応じてくれてありがとう。会えて嬉しいわ」


 頭を下げる私の前まで歩を進めた王妃様が、明るいお声をかけてくださる。


「心のこもったお見舞いのお手紙をいただき、誠にありがとうございました」


 さらに深く頭を垂れ、お礼を申しあげる。が、そのまま顔を上げられない。


 王妃様がレイシェルト様とのことをどこまでご存じなのかはわからない。


 けれど、レイシェルト様が私に隔意かくいを抱いてらっしゃるのは、先ほどの令嬢達の言葉で、嫌でも知られただろう。


 そんな私が、王妃様と親しくさせていただいてよいのだろうか。


 レイシェルト様のみならず、王妃様にまでご迷惑をおかけするなんて。そんなのは、絶対に嫌だ。


 やっぱり私は参列するべきじゃない。


 失礼のないよう、断りを述べて辞させていただこうと、告げるべき言葉を考えていると。


 口を開くより早く、スカートをつまんでいた手を王妃様に掴まれた。


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