45 きみは――。聖女の力を持っているのでは?


 だが、レイシェルト様は私の言葉など聞こえていなかったかのように独り言を呟く。


「予言の聖者がサランレッド公爵家に聖女が生まれると予言したのが十九年前……。それから二年と経たず生まれたのがきみだ。確かに、セレイア嬢も聖女の力を持って生まれたが、予言があった当時、誰もがエリシア嬢こそが聖女に違いないと信じていた……。何より、予言は聖女が一人だとは告げていない……」


 レイシェルト様の強いまなざしが、ひたと私を見つめる。


「エリシア嬢、きみは――。破邪の聖女の力を持っているのでは?」


「ち……」


 違います、と。邪悪の娘が聖女だなんて、そんなわけありません。


 そう、言わなくちゃいけないとわかっているのに。


 推し様に嘘をつくなんて、そんな大罪、天地がひっくり返っても犯せない……っ!


「は、い……」


 偽りは許さないと言いたげに真っ直ぐ見つめる碧い瞳から顔を伏せ、小さく頷く。


 途端、強い力で両肩を掴まれた。


「どうして今までそんな大切なことを誰にも打ち明けずに!? たとえ、黒髪であろうと、きみが破邪の聖女としての力を振るえば、誰もが認めたはずだろう!?」


 こらえきれないように叫んだレイシェルト様が、何かに気づいたように息を飲む。


「もしや……っ!? 黙っているように強いられているのか!? セレイア嬢が当代唯一の聖女となるために……っ! 本来きみが手にするはずの栄誉まで、セレイア嬢が我が物とするために……っ!」


「ち、違いますっ! そうではありませんっ!」


 セレイアが誤解されては大変だと、必死で首を横に振る。


「誰も私が聖女だって知らないんです! むしろ、私があの子に聖女の役目を押しつけているというか……っ!」


「押しつけている……?」

 レイシェルト様がいぶかしげに眉を寄せる。


「それはつまり……。きみは聖女になりたくないとでも……?」


 信じられないと言いたげに、レイシェルト様が責めるような口調で問う。


 己の理解の埒外らちがいにあるものを見るようなまなざしは、満点を取れなかったテストを見て驚くお兄ちゃんの顔を無意識に連想させて。


 どくんっ、と心臓が嫌な鼓動を響かせる。


「そんなだからお前は母さんに見捨てられたんだよっ!」

 お兄ちゃんの最後の言葉が甦る。


 嫌だ。絶対に聖女になんてなりたくない。


 身体がかたかたと震え出す。


「なぜ……?」


 責めるようなまなざしのレイシェルト様に、へへっ、と乾いたごまかし笑いを浮かべる。


 前世でお母さんやお兄ちゃんに責められた時と、同じように。


「だ、だって、聖女になったら毎日、水垢離みずごりをしないといけないでしょう……?」


「ああ……?」


 戸惑った声を上げたレイシェルト様が言を継ぐより先に、早口で割り込む。どうか声が震えませんようにと祈りながら。


「こ、これからもっと寒くなるのに……。水垢離なんて、嫌じゃないですか……」


「……は?」


 碧い目が見開かれる。

 まるで、理解不可能な怪物が、突然目の前に現れたかのように。


「そんな……。そんなくだらぬ理由で聖女の役目を放棄していると!?」


「っ!」


 叩きつけるような声でびくりと身体をすくめる。レイシェルト様がしまったと言いたげに言葉を飲み込んだ。


 暴発する前の火薬を押さえ込んだような、重くひりひりした沈黙が、不可視の泥と化して沈む。


「……すまない」


 最初に沈黙を破ったのは、レイシェルト様の重く硬い声だった。


「ついさっきまで剣を握っていたせいで、まだ感情がたかぶっているらしい」


 汚泥から抜け出そうとするように、レイシェルト様が私を引きはがす。


 先ほどまで私を見据えていた碧い瞳は――今は決して、こちらを見ようとしない。


 呆然と見つめる私の視線を遮るかのように、片手で顔を覆ったレイシェルト様が、抑えきれぬ怒りを吐き出すように荒く嘆息する。


「……初めてきみに逢った時……。王太子なら当たり前のことと求められる重責にし潰されそうでつらくて……。こうありたいと願う己になるための努力を、初めて真っ直ぐに認めてくれる人に逢えたことが嬉しくて……」


 顔を覆っていた手を外したレイシェルト様が、うっすらと微笑む。


 深い失望を宿した儚げな笑みで。


「勝手にかけられた多大な期待が負担になるのは、わたし自身が誰よりもよく知っていたはずなのにな」


 消え入るように呟いたレイシェルト様が、立ち上がる。


「あ……」


 無意識に伸ばした私の手を振り払うようにきびすを返し。


「今日は恐ろしい目に遭って、さぞつらかっただろう。すぐに警備隊を連れてくる。屋敷へ戻って――しばらく、ゆっくりと休養するといい」


 感情を無理やり押さえつけた平坦な声で告げたレイシェルト様が振り返りもせず歩き出す。


 ただ見送ることしかできない私の視線の先で、ぱたん、と静かな断罪の音を立てて扉が閉まり。


 簡素な扉がみるみるにじみ、歪んでいく。


 ぬぐわれることもないまま、ぱたぱたと頬を伝い落ちた涙が、スカートに黒いしみをいくつも作る。


 身体の中心に、ぽっかりと穴が開いたようだ。

 心臓だけじゃなく、全身が凍りついてしまったように感覚がない。


 なのに――。


 どうして、こんなに胸が痛いんだろう。


 レイシェルト様を、傷つけてしまった。


 王太子であることに誇りを持ち、己の役目を果たそうと努力を積み重ねているレイシェルト様にしてみれば、聖女の力を持ちながら役目を放棄している私は、唾棄だきすべき大罪人としか映らなかっただろう。


 レイシェルト様には「よくもたばかったな!」ともっと私を責める権利だってあったのに……。


 最後まで理性的であろうと怒りを押さえつけていたレイシェルト様の優しさを思うだけで、涙があふれてくる。


 自分が推し様に失望されたことよりも――レイシェルト様を傷つけたしまったことのほうが、胸が痛い。


 ごめんなさい、ごめんなさい。


 涙をぬぐうことも忘れて、決して届かない謝罪を紡ぐ。


 これは罰だ。

 邪悪の娘なんかが、レイシェルト様と親しくさせていただいたから。


 出しゃばることなく、ただ遠くからお姿を眺めて、推させていただくだけで満足していれば、こんなことにはならなかったのに。


「エリ!」

 不意に、乱暴に扉が開けられる。


 飛び込んできたジェイスさんが、私を見てぎょっと目を見開いた。


「あいつに何かされたのか!?」


 駆け寄ってきたジェイスさんが、私の両肩を掴む。


「あの野郎、ただじゃおかねぇ……っ!」

「ち、違……っ」


 地の底から響くような不穏な声を洩らしたジェイスさんに、あわててふるふるとかぶりを振る。


「レイシェルト殿下は何も悪くないんです! わたっ、私が……っ!」


 後から後からこらえきれない嗚咽おえつがあふれ出して、うまく言葉にならない。


「いったいどうしたんだよ、なあ……」


 困り果てた様子で、ジェイスさんが戸惑いがちに頭を撫でてくれる。


 口調とは裏腹な壊れ物を扱うような優しい手つきに、私はただ、涙をこぼしながらかぶりを振ることしかできなかった。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る