44 きみを傷つける者は、もう誰もいない


「おいっ!?」


 かくん、と突然突然へたりこんだ私に、ジェイスさんが驚きの声を上げる。

 駆け寄ろうとしたジェイスさんの姿が、振り返ったレイシェルト様で隠れた。


「ジェイス。エリシア嬢はひどく混乱しているらしい。落ち着かせたらすぐに行くから……。先に戻っていてくれないか?」


 剣を収めて床に両膝をついたレイシェルト様が、包み込むように私を抱き寄せる。

 あやすように背中を撫でられて、私は初めて自分が震えていることに気がついた。


「だ……」


 大丈夫です、と告げたいのに声がかすれて言葉にならない。


「こんなに震えて、大丈夫なはずがないだろう?」


 優しく告げたレイシェルト様の腕に力がこもる。手のひらの優しさにじわりと涙があふれてくる。


「……今だけだ。今だけ、お前に任せてやるから、落ち着いたらすぐに来いよ!? 後始末が済んだら、すぐに迎えに来るからな!?」


 仕方がなさそうに吐息したジェイスさんがきびすを返す。

 ぱたりと扉が閉まり。


「怖かっただろう? だが、もう大丈夫だ。きみを傷つける者は、もう誰もいない」


 強く抱きしめられ、穏やかな声で囁かれた瞬間、こらえていた涙腺が決壊する。


「わ、わた……っ、怖……っ!」


 ぎゅっと服を掴んですがりついた私を、レイシェルト様が優しく受け止めてくれる。


「怖かったね。思いきり吐き出せばいい。ここはもう安全だから」


 大きな手があやすように背中を撫でる。そのあたたかさに、強張っていた心と身体が少しずつ融けていく心地がする。


 恐怖を涙で洗い流すかのように、どれほど泣いていただろう。


 ようやく落ち着いてきたところで、唐突に今の状況を理解する。


 わ、私……っ! レイシェルト様になんてご迷惑を……っ!


「す、すみません……っ!」


 あわてて身を離そうとすると、逆にぎゅっと抱きしめられた。泣きじゃくっていたせいで濡れた布地が頬に当たる。


「無理はしなくていい。すぐに落ち着けるものではないだろう?」


 骨ばった長い指先が乱れた髪を優しくく。


「い、いえっ、もう……っ!」


 だ、だって、どさくさにまぎれて推し様にハグされてるって気づいちゃったんですもん! こ、こんなの無理ですっ! 心臓が壊れちゃいます……っ!


「あ、あの、レイシェルト様はどうして……?」


 動揺を紛らわせようとしたつたない問いに、レイシェルト様が「ああ」と頷く。


「神前試合の警備の件で、警備隊の詰め所で打ち合わせをしていてね。そこに馬車が襲撃されたという情報が入って来て、いても立ってもいられず……」


 私を抱きしめる腕に力がこもる。


「万が一、きみに何かあったらと思うと、心が潰れるかと思った……っ」


「だ、大丈夫です。レイシェルト様が助けてくださったので……」


 泣きはらしたひどい顔を見られたくなくて、うつむきがちにかぶりを振ると、服にこすれた拍子に、はらりとこめかみから何かが落ちた。


 傷口に当てられていた端切れらしい。乾いた血で赤黒く染まっている。


「怪我を……っ!?」

 レイシェルト様が血相を変える。


「どこだっ!?」


「だ、大丈夫です! 少し切れただけだと思うので……っ」


 こめかみに手をやろうとすると、はっしと指先を掴まれた。


「ふれないほうがいい。わたしが見よう」

 レイシェルト様が私の側頭部をのぞきこむ。


「すでに血は止まっているようだが……。かよわい乙女に手を上げるなど……っ!」


 レイシェルト様の声が怒りをはらんで低くなる。もやりとふたたび黒い靄が湧き出した。


「こ、この怪我だけですから……っ! 邪悪の娘なので、手当てもしてもらえましたし……っ!」


 あわてて告げると、案に相違してレイシェルト様の眉がさらにきつく寄る。


「邪悪の娘……っ!? きみをさらった奴等は邪教徒だ。それに、先ほどの男の言葉……。もしや、最初からきみが狙いだったと……?」


「お、男達は……。私が邪神復活の鍵だと言っていました……。私の絶望からはどんな澱みが取れるだろうかと……」


 取り調べのために少しでも情報があるほうがいいだろうと、必死に思い出しながら伝える。


 けれど、どうしようもなく声と身体が震えるのを止められない。


 もし、レイシェルト様が来てくれなかったら、いったいどんな目に遭わされていたのか、恐ろしくて考えたくもない。


「っ!?」


 息を飲んだレイシェルト様が拳を握り込む。


「あの男ども……っ! あの程度で許してやるのではなかった……っ!」


 怒りに満ちた低い声。

 揺蕩たゆたっていた黒い靄が勢いを増して炎のように立ち昇る。


「い、いえ……っ」


 レイシェルト様が私などのために怒ってくださるのは、涙が出るほど嬉しい。けれど。


 ふるふるとかぶりを振りながら、握り込まれた拳を両手で包み込む。


「私の勝手な願いだとわかっていても……。それでも、レイシェルト様に人を殺めていただきたくはありません……っ」


 どうか黒い靄が消えるようにと、目を閉じ、黒い靄を祓う。


 うつむく私の耳に、レイシェルト様がかすかに息を飲んだ音が届いた。


「今……っ!? いや、今だけじゃない。さっき、きみがわたしを止めてくれた時も……。我を忘れるほどの怒りが、きみにふれられた途端、綺麗に消えた……。エリシア嬢、これはきみの力なのか? きみはもしや……?」


「ち、違いますっ!」


 がばりを顔を上げ、懸命に首を横に振る。


「ちが……っ、違うんですっ! 私は……っ」


 だめだ。絶対にだめだ。私が聖女の力を持っているなんて――。



 絶対に、知られてはいけない。



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