35 よからぬ噂など、立てさせたりするものか!


「はいっ、何でしょうか!?」


 ロブセルさんが下げていた顔を勢いよく上げる。


「モデルになるということは……。ロブセル様のアトリエに、お招きいただけるということでしょうか……?」


「は、はいっ。エリシア様にご足労をおかけしては申し訳ございませんので、わたしがサランレッド公爵家へ参るつもりでしたが……。エリシア様がお越しくださるというのでしたら、願ってもないことでございます!」


 ロブセルさんが喜びに目を輝かせて勢いよく頷く。


 私は叫び出したい歓喜の衝動を抑えて、できるだけしとやかに微笑んだ。


「ええ、私がロブセル様のアトリエへ伺ったほうがよろしいでしょう? きっと、そちらのほうが道具などもそろってらっしゃるでしょうし……」


 ロブセルさんのアトリエにお邪魔できるってコトは、つまりアレよねっ!? レイシェルト様の描きかけの肖像画とか下書きとかをあわよくば見せていただけるかもしれないってコトよねっ!?


 脳裏に浮かぶのは、先日ようやく届いたレイシェルト様のデッサンだ。


 デッサンだけでもあれほど素晴らしかったんだもの! そうしたものがたくさん保管されているだろうロブセルさんのアトリエは、つまり、宝の山……っ!


 ご都合さえよければ、お茶会の後すぐにでも突撃させていただきたいですっ!


「宮廷画家様のアトリエを拝見できる機会なんて、滅多にありませんもの! ぜひこの目で見て……。叶うなら、ロブセル様からいろいろなお話をうかがいたいですっ!」


 胸の前で両手を握りしめ、はずんだ声を上げると――。


「駄目だ!」


 思いがけないところから、鋭い声が上がった。


「ああ、いや……」

 全員の視線が集中したレイシェルト様が、気まずげに視線を揺らす。


「ロブセルがエリシア様を描くのはもちろん賛成だが……。いくら宮廷画家とはいえ、年頃の令嬢が独身男性のアトリエに出入りするというのはよろしくないだろう? エリシア嬢を描きたいというのなら、王城の一室を貸すので、そこで描けばいい。ロブセルも毎日登城しているのだし」


「お気遣いいただき、ありがとうございます」


 さすがレイシェルト様! 邪悪の娘の外聞にまで気を遣ってくださるなんて、なんとお優しい……っ! そのお気持ちは天に昇るほど嬉しいですけど……っ!


「ですが、王城の皆様にご迷惑をおかけするなんて、申し訳なさすぎます!」


 私が! ロブセルさんのアトリエで、レイシェルト様を描いた作品を見たいんです――っ!


 とんでもない! と必死でかぶりを振って遠慮すると。


「では、わたしも一緒にアトリエへ行こう」


 レイシェルト様が生真面目な表情で宣言する。


「もともと、わたしの肖像画を描くためなのだ。エリシア嬢だけに手間をかけては申し訳ない。わたしも共に行けば、そちらのほうが好都合だろう?」


「レ、レイシェルト様まででございますか……っ!?」


 ロブセルさんが驚愕の表情を浮かべ、緑の目をみはる。「あらあらまあまあ。これは……」と、なぜか王妃様お一人だけが、すこぶる楽しげにうふふふふ、と笑みをこぼしていた。


「そ、その、レイシェルト様の貴重なお時間をいただいてしまってよろしいのですか……? まもなく神前試合がございますから鍛錬もおありでしょうし、ご公務もお忙しいのでは……? わたしでしたら、レイシェルト様のお側でお邪魔にならぬよう、デッサンをさせていただければそれで十分でございますが……?」


 ロブセルさんがおずおずと確認する。


 神前試合が行われる場所は、アルスデウス王国の建国神話にもうたわれる歴史ある神殿の前だ。


 王都の郊外にリーシェンデル湖という大きな湖があり、その岸辺にアルスデウス王国で一番古いと言われる神殿が建っている。


 その神殿はかつて、勇者と聖女達が邪神ディアブルガとの決戦に挑む前夜に、光神アルスデウスに勝利を祈願して身を清めた場所だと言い伝えられており、いわば、聖女達の水垢離の伝統が始まった場所でもある。


 神殿自体はこじんまりとしているのだが、アルスデウス王家の建国に関わる場所ということで、毎年、聖者や聖女が神殿に祈りを捧げたのち、光神アルスデウスに武芸を捧げるための神前試合が行われる。


 今年は、当代唯一の聖女であるセレイアが主となって祈りを捧げるそうで、お母様もセレイアも、この上なく張り切っている。儀式のために、二人ともそれは美しいドレスを仕立てているらしいとマルゲが教えてくれた。


 神前試合まであと半月を切っている。王家が主催するので、王太子であるレイシェルト様は、さぞかしお忙しいに違いない。


 しかも、王太子としての公務だけでなく、レイとして警備隊に協力までしているのだから、さらにお疲れだろう。前にヒルデンさんのお店に来た時にも黒い靄を漂わせていたし、心配でならない。


「レイシェルト様、私などのためにご無理はなさらないでください。私でしたら、一人でも大丈夫ですから。むしろ、私の外聞よりも、邪悪の娘がアトリエに出入りしていたと、ロブセル様によからぬ噂が立たないか……。そちらのほうが心配です」


 邪悪の娘である私の評価なんて、社交界ではすでに地の底まで落ちている。


 それよりも、これからもずっとレイシェルト様の素晴らしい肖像画を描いていただかなくてはならないロブセルさんに変な噂が立つほうが大変……っ!


「ロブセルとよからぬ噂など……っ!」


 レイシェルト様が形良い眉を吊り上げる。


「そんなもの、わたしが決して立てさせたりするものか! やはり、なんとしてもわたしが一緒に行こう!」


 レイシェルト様が碧い瞳に決意をみなぎらせて宣言する。


 さすがレイシェルト様! ロブセルさんの外聞にまで気を遣われるなんて、素晴らしいお優しさです!


 ロブセルさんが青い顔でぶんぶんと激しく首を横に振る。


「そうです! そのような噂など、一介の画家に過ぎないわたしに立つわけがありません! エリシア様の名誉をけがすようなことは決していたしませんので……っ!」


 邪悪の娘などと噂が立っては今後に差し支えると思っているのか、ロブセルさんも必死だ。


 私だって、レイシェルト様が来てくださったら、天にも昇るほど嬉しい。


 けど、私の希望なんかより、レイシェルト様の体調のほうがもっとずっと大切だ。


 推し様が元気でいてくださってこそ、推させていただいているこちらも健やかでいられるというもの!


「レイシェルト様のお気遣いはたいへん嬉しいですが……。お忙しいレイシェルト様にご負担をおかけして、もし何かあったらと思うと、心が千々に乱れてしまいます……」


 どうか、推し様は毎日を心安らかにお幸せにお過ごしくださいませ……っ!


 真摯な想いを込めてレイシェルト様を見つめると、レイシェルト様が小さく息を飲んだ。端正な面輪がなぜかうっすらと紅く染まる。


「きみは本当に……」


 低い声で何やら呟いたレイシェルト様が、不意に甘やかな笑みを浮かべる。


「きみにそんなに心配してもらえるなんて、嬉しいよ。でも、きみが心配してくれるのと同じように、わたしもきみが心配なんだ。だから……。わたしも一緒に行ってよいね?」


「は、はい……っ」


 無理! 目の前でこんな風に微笑まれて断るなんて無理ぃ~っ! あーもうっ、昇天しちゃいそう……っ!


「では、そういうことでよいね。ロブセル、日取りはいつがいいのかな? わたしは明後日の午後なら時間が取れそうだが……」


「で、ではその日でお願いいたします!」

 ロブセルさんが食いつくように即答する。


 二人がてきぱきと予定を詰めていくのを、私は半分以上、放心しながら聞いていた。


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